第17話 水鏡の映像

 ぱくぱくもぐもぐぱくぱくもぐもぐぱくぱくもぐもぐ。



 きっとこの少女は、できる限り行儀よく食べているのだと思う。

 あまりの空腹で、口の回りにくっつくパン屑に構っていられないだけだろう。一口ずつパンをちぎって口に運び、丁寧に咀嚼する姿は、育ちの良さを感じさせた。

 後部座席でしゃんと背筋を伸ばしつつも、ペットボトルの蓋に苦戦する握力に思わず苦笑し、巧貢が代わりに開けてあげた。



「ありがとうございます。

 物乞いをするつもりなど毛頭なかったのですが、結果的に頼ってしまいました。心から感謝いたします。

 この御恩は決して忘れません」


「いいよそんな、コンビニの菓子パンとお茶くらいで」



 幼い顔で、大人びた口調が印象的だった。巫女服はコスプレで使う縫製の荒いものではなく、しっかりした布地で縫い目が美しい。

 しかし袴の裾は泥がつき、ひっかけたようなほつれがあった。白衣もあちこちに汚れが目立つ。

 靴は履いていて、スニーカーだった。ちょっと安心した。


 

「ブランケットどうぞ。

 さすがに薄着すぎですよ、その格好」



 新司がダッシュボードからブランケットを取り出して少女の肩にかけると、少女はぺこりと頭を下げた。

 真っ青な顔で震える少女から話を聞くどころではなかったので、現在は事故現場から離れたコンビニまで移動している。

 

 

「巫女さん、ほかに着替えはないんですか?」


「お恥ずかしい話、服はこれ一着なのです。

 着の身着のまま飛び出してしまったので」



 新司が近づくと、彼女は毎回顔を真っ赤にしてそっぽをむいていしまう。

 新司は『嫌われてる?』を尻尾を垂れ気味だが、巧貢の目から見ると『新司さんが好み?』である。

 実際はどちらもはずれだった。



「私は確かに巫女ではありますが、名を呼んでくださると嬉しいです。

 加賀峰 芽依(かがみね めい)。

 加賀峰家、当代の巫女でございます」



 丁寧に自己紹介された。

 巧貢と新司は顔を見合わせた。この子は大丈夫か、年頃の妄想が爆発しているのか、とお互いの顔が物語っている。

 ここに綺人がいたら、正しく反応できただろうに。

 芽依はふたりの表情からすべてを察して、頬を膨らませ真っ赤になった。



「厨二病でも妄想でもありません!

 包み隠さず正体を明かしたのに、なんと無礼な対応でしょう!

 恩義ある御方に文句を言いたくはありませんが、猜疑と憐みの混じった目で見られるのは心外、心外です!!

 せっかく、大切なことをお伝えしたくて電話したのに、頑張ったのに、酷いではありませんか……」


「ごめん、ごめんね、変な顔して悪かったよ!

 謝るから、ごめんなさい!」



 巧貢は両手をぶんぶん振って全力で謝った。

 少女は溢れそうな涙を飲み込んでくれた。

 彼女は飢えと寒さに耐えながら、あんな場所で、来るかどうかわからない人を待ち続けたのだ。

 軽い気持ちや悪戯でできることではない。だけれど。さすがに自己紹介のインパクトが強すぎた。



「君は、……加賀峰さんは、あの場所で僕を見たんだよね」


「私のことはどうぞ芽依とお呼びください。

 貴方様のお姿は、昨日の昼頃に。

 姿を撮られそうになって、思わず隠れてしまいましたが、他意はありません。

 とても驚いてしまって、とっさに」



 やはり、写真に写った巫女服は彼女だった。

 この子は、存在から何から謎だらけだ。質問は山ほど浮かんだが、どうでもいいことは後回しにする。

 敵か味方か。綺人の情報を正しく知っているか。

 重要なのはそのふたつ。


 

「……芽依、ちゃん?」


 

 幼い少女の呼称に迷って、巧貢はちゃん付けを選択した。芽依は少しばかりむっとしたが、呼ばれることに反論はしなかった。



「芽依ちゃんは、なぜ彼女を追いかけたの?」



 巧貢は静かに、最低限の情報で質問した。

 幻の中で見た光景。高城世麗奈の事故死には、芽依が関わっている。

 芽依は、高城は、何故あんな状況になったのか。

 固有名詞を伏せた質問に、少女がどう答えるか。


 

 芽依は目を泳がせ、俯き、自分の両手を強く握った。



「せれな、さんは、いい人でした。やさしい人でした。

 どこの誰とも知れぬ私を、数日、家に住まわせてくれました。

 私は……あの人が深く感染していたから、近づいたんです」



 袴の上で握りしめたちいさな手に、ぽたり、ぽたりと涙が落ちた。


 

「あんなふうに死なせたかったんじゃありません。

 あんなことになってほしかったんじゃありません。

 たとえ救えない命でも、もっと安らかな終わりがあったはずです。私は、それができなかった。

 一日でも生きてほしいと、莫迦なことを願ってしまったせいで、あの人を追い詰めた」


「高城さんが感染していること、わかってたの?」



 芽依はこくんと頷いた。



「私は傲慢でした。退けられると思いました。

 私の手に負えるものではなかったのに。

 せれなさんはあの日、急に車を止めて道路を走り出しました。

 追いかけて、たくさん走りました。

 やっと少し近づけて、私、彼女の中の『鬼』を止めようとして、余計なことを……

 あれは自殺でした」


「自殺!? 事故じゃなくて!?」


「私がせれなさんに追いついていたら、せれなさんは私を引き裂いていたでしょう。

 嗜虐と暴力の鬼となった彼女は、車の前に飛び出し、わざと自分の肉体を壊しました。

 私が追いかけたから。鬼になったせれなさんを、追いかけたから」



 巧貢は、新司に頷いてみせた。

 この子は敵ではない。巧貢だけが見えた光景と一致する。

 目を閉じてもう一度思い出す。あの時、高城の足は片方しかヒールがなかった。どれだけの距離を走ったのだろう。

 追いかけていた芽依の顔は心配に満ちていて、高城は芽依に額の角を見せまいと必死だった。

 優しい女性が、鬼になった後も少女を守ろうとした故の行動。それがあの日の真実。



「つらいこと話させてごめんね。ありがとう。

 僕は芽依ちゃんを信じる。

 いいかな、新司さん」


「タクミさんが信じるって言ってるのに、僕が反対する理由はないです!」



 にぱーーっと笑った新司を見上げ、芽依は数秒ぼうっと見つめて、やっぱり真っ赤になってうつむいた。



「も、もち」


「はい! 望月新司です! 呼びましたか?」


「いえ、いいえ! 呼んでおりません!!」



 全力で否定されて、新司の耳も尻尾もぺちゃんとへたれた。




 最近のコンビニは何でも売っている。「水桶が欲しいです」という芽依のリクエストで、新司は洗面器を買ってきた。

 2リットルペットボトルの水を、洗面器に八割ほど満たす。

 芽依は後部座席に座り、膝の上に洗面器を置いた。

 じっと洗面器を見つめ続ける。一分ほど経過して、開いたままの芽依の目を潤そうと涙があふれた。


 

 ぴちゃん。



 水の表面に波紋が広がる。あまりにも綺麗すぎる輪がいくつも広がり、洗面器の底が見えなくなった。

 水面に映るのは、病院の廊下。



「ここ、今日アヤトさんが受診したとこ!」


「私が視たものの再現。過去視です。

 私は、水の鬼の気配を追いかけておりました。

 アレは化けます。幻を見せます。だから、人のいる場所にも平気で出てきます」



 芽依がなぜこんなことができるのか、聞くのはあとにしよう。

 巫女服で彷徨っている時点で、小一時間は問い詰めたいところを我慢しているのだ。細かい(?)ことは後でいい。



 綺人は、右肩を気にしながら廊下を歩いていた。

 タートルネックで胸が大きい女性が、綺人の背後に近づいている。

 ずきん、と巧貢の右手が痛んだ。正確には手の甲、みつるぎが反応した。

 『これは鬼だ』と巧貢に教えるような痛み。



『そこの。そこのお前』


 

 女が綺人に声をかけた。変わった口調だ。綺人が降り向き、女と目が合った。

 ぐら、と綺人の身体が揺れた。

 額を押さえ、眩暈をこらえるような仕草の綺人に、女はさらに距離を詰めた。



『背中の筋肉もよきかたちと思うたが。

 ほほう、その貌。なんとうつくしきかな。

 名を聞いてやろう』



『かいね、あやと……』



 請われるまま応え、綺人は苦しげに呻いた。

 両手で頭を押さえ、強く目を閉じる。

 何かに耐えようとしているのか?



「目が合った時点で、介音綺人様は幻に囚われました。

 既に、水に感染されていたのですね。マーキングされていたのでしょう。術に抗えなかったのだと思います。

 水の鬼の幻は、とても恐ろしい。

 鬼が見せるのではないのです。術中に落ちた者の脳内で、都合よく辻褄の合う幻が構成されます。

 ……しかし」


「しかし、何!?」



 不穏な語尾に巧貢が食いつく。芽依は顎に手をやって、水に映る綺人を観察した。

 

 

「最初に見たときも驚きましたが、改めて感嘆いたします。

 本人が納得する幻を、本人に作らせる。そういう術なのに。

 介音綺人様は、本能だけで抗っておられる。

 拒否することなど心に浮かばない、そういう幻を見せられているのに」



 映像の綺人は、全力で女を拒んでいるようだった。

 名を聞かれて答えつつも、態度は決して従順ではない。



『かいね、あやと。

 うむ。ふふふ、気に入ったぞ。

 取り巻きに加えてやろう。さあ、わらわと来や?』


『……嫌、だ』



 綺人は手すりを強く掴み、はっきりと拒絶した。

 視線は女と合っていないし、寝言のように弱々しい声だったけれど、綺人は水の鬼に逆らった。



「よほどの精神力がなければ不可能なことです。

 この光景を視た私は、かいねあやと、という人物はただものではないと思いました。

 哀れな贄にしてはいけない、助けなければと思ったのです」

 


 女は嗤った。人間のふりをした鬼の笑みは、ひどく歪んで見えた。

 手すりに体重を預け、動けない綺人に、鬼は吐息がかかる距離まで近づいた。


 

『わらわの誘いを断るか。人間ごときが。

 ならば、もっと染まれ』



 ヒールの足を爪先立てて、女は綺人に唇を重ねた。

 頭を引こうとする綺人の髪を女が鷲掴む。

 強引なキスは、舌が絡む様が垣間見えた。


 

 いつのまにか、綺人は抵抗をやめていた。

 頭を押さえることも、眉を寄せて苦しむこともなくなり、両手がぶらんと下がる。

 何も映さない綺人の目は曇ったガラスのようで、一切の感情が消えていた。



『もう、いやいやはせぬであろ?』



 綺人が頷く。人形のような動き。

 女の後をふらふらと歩いて、綺人は廊下の向こうに消えた。



 ふわん、と波紋が広がり、洗面器の映像が消えた。



「介音綺人様は、水の鬼の唾液を摂取しました。

 鬼の感染は一瞬で加速。肉体の半分ほどに達しております。

 この時間、この時点でここまでの感染……。

 もう夜です。この方は、まだ人間を保っておられるでしょうか」

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