第15話 水の鬼 魅浪比売(みらひめ)

 その鬼は、月を愛でていた。



 ほぼ同時刻、ひとつ鬼が討たれたことなど微塵も気に留めず、鬼は月光に肌を晒していた。

 半身は何も纏わぬ肢体、ふくらみとくびれに絡みついた長い黒髪は、蠱惑的に美しい。

 女鬼の傍らには、三人が寄り添っていた。うっとりと眠る前のような表情は、彼らの精神がまともでない証。



 三人は、人間として外観が整っていた。女鬼はそれぞれの頭を撫で、愛おしそうに一人のつむじに口づけた。

 女鬼の半身は人と似ていたが、半身は怪異、巨大で醜い蛙であった。

 下半身が大きく、人間を見下ろす女鬼は穏やかに笑っていた。突如、蛙の口が、かぱぁと開く。

 素早く伸びた蛙の舌が一人に巻きつき中へ吸い込む。まばたきよりも早い捕食は、空腹ではなくただの戯れだった。



 女鬼は喉越しを堪能し、恍惚の吐息を漏らした。残る二人を優しく、優しく、それぞれの腕で愛でる。

 喰うも、愛でるも、辱めるも、女鬼の心の揺れ次第。



 女鬼の名は魅浪比売(みらひめ)。

 水の鬼に位置づけられた病の権化だった。





 早朝にペントハウススイートに戻り、巧貢は一人で留守番になった。

 綺人を病院できちんと診てもらえるのは巧貢にとっても安心だった。

 喉のほうは勝手に治ると言っていたが、流した血は戻らないし、今回の戦いで一番怪我をしたのは綺人だ。体中に擦り傷があった。



「芸能人なのに。傷残ったらどうするんだろ」



 ほぼ無傷な自分がなんとなく心苦しくて、巧貢はソファに座った足をぶらぶらさせた。

 広すぎる豪華な空間は静かで、久しぶりの孤独に馴染めない。一人暮らしは慣れていたはずなのに。



 短い時間に、いろんなことがありすぎた。



 気が付いたら綺人がいてくれた。綺人の存在に大きく支えられていたように思う。

 頼ってもいいと思わせる人柄。なんだかんだ情に厚くて冷酷になれないタイプ。

 スマホで動画を見れば、介音綺人のものはたくさんある。でも今はスマホ禁止令が出ている。

 どこで感染するかわからないから。



 鬼を視認するだけでは感染しない。岩嶽を間近で見た綺人がなんともなかったように。

 感染る原因は、体液と接触するか、鬼気に接触するか。

 綺人が見た画像は、故意に強い鬼気が宿っていたらしい。



「スマホを使う鬼か……」



 サイ頭の岩嶽は、化け物らしい化け物だった。現代アイテムを使いこなす鬼は想像がつかない。

 それでも綺人は実際にやられたし、知能がある鬼ならできなくないらしい。



 人間と同じか、もっと頭のいい鬼。



『俺が鬼なら、間接的に人間を感染させて放置して、自分はひたすら隠れるだろうぜ。

 スマホでそれができるなら、あとはゆっくり待つだけ。勝ち逃げってやつだ』



 鬼寄せの石はひとつしかなかった。

 岩嶽が比較的見つけやすいのなら、他の鬼に使ったほうがよかったんじゃないかな。



「……そしたら僕、今頃生きてなかったかもしれないのか」



 あれは、巧貢の命を優先しての作戦だった。

 どんどん気が重くなる。巧貢は何か飲もうと、冷蔵庫を開けてみた。

 とんでもなく高そうなシャンパンやワインがあって思わず閉めた。もう一度そーっと開ける。

 お酒だけではなく、ジュースやミネラルウォーター、ヨーグルトやチョコなんかもある。どれも高そうなものだ。

 ミネラルウォーターのボトルを選び、栓抜きで開けた。

 美しい細工のガラスコップに注ぎ、飲んでみる。……水だ。ちょっとは美味しいかもしれないが、巧貢の舌ではわからない。



「はやくみんな、帰ってこないかな」



 さみしさ? 不安? それもあるけれど。

 あの二人の側は、居心地がいい。

 綺人は黙っていても心強いし、新司は年上(?)なのにわんこみたいで、気を遣わない。



 恐怖はそこまでじゃない。現実を受け入れたのもあるだろうし、直接的な生命の危機が去ったのもある。

 一番大きいのは、『症状』が抜けたせいだろう。

 鬼は四種類。感染した時の症状も四種類。

 岩嶽に感染すると、嗜虐、暴力、闘争心、恐怖などの感情が強くなるらしかった。

 巧貢は恐怖が強く出ていたようで、とにかくいろんなものが怖かった。



 水の鬼の症状ってなんなのかな。聞いておけばよかった。

 綺人さん、大丈夫かな。なにか僕にできることないかな。

 鬼を見つけて倒せばいいんだろうけど、手がかりがないし……。



 空のガラスコップに、曇り空が移りこむ。

 巧貢はため息をついた自分を誤魔化すように、深呼吸に変えた。



 ドアの鍵が開く音がする。誰かがカードキーを使ったようだ。

 飛び込んできたのは新司だった。



「おかえりなさい、新司さん。

 そんなに慌ててどうしたんですか? 綺人さんは?」


「アヤトさん! 帰ってきてないですか!!」


「僕一人ですけど……?」


「病院から! いなくなりました!

 アヤトさんどこにもいません!

 病院中探しました。警備員さんや受付の人にも聞きました。

 どこにも、いなくて、玄関の警備員さんも見てないって、アヤトさん、

 いなくなっちゃった」


「そんな、わけ、ないでしょう」



 病院から消えた?

 今、一番じっとしてなきゃならない人が!



「電話はしましたか?」


「何度もかけました。

 病院だからいったん切ったのかもしれないけど、診察も治療も全部終わったって、お医者さんが」



 巧貢は、自分のスマホから綺人にかけてみた。

 綺人のスマホは、電源が入っていないようだ。



「もう一度病院に行きましょう。僕も探します。

 周辺にいるとか、ちょっと出かけたとか」


「それは絶対にありえません!

 アヤトさん炎上中なんですよ!?

 病院の周辺はかなり人目につきます、徒歩移動なんてするはずない!」



 病院に行く前、綺人は地味な服に着替え、帽子とマスクで顔を隠していた。

 それでも気づく人は気づくだろう。

 綺人は無意味に軽率な行動をとるタイプじゃない。



「とにかく、探しましょう!」



 巧貢は、『戻ったらすぐ連絡ください』とメモを書き置き、新司とともに部屋を飛び出した。

 数時間後に二人が戻ってきても、メモは手つかずで残されていた。






 少し時は戻る。



「あの~、もしかして、介音綺人さんじゃ……?」



 ぎくっと体が固まったのを悟られないように、綺人は素早く営業スマイルを浮かべた。

 ちくしょう。病院はプライベート空間だろうが。

 診察中に帽子は被れねえし、マスクだけで隠せるとは思わなかったけど、だからこそ人のいないルート通ってんのに声かけてくんなよ!



「今はプライベートなので、すみません。

 病院で騒ぐと、他の方の迷惑になりますから、……しー、で」



 声をかけてきたのは若い女性だった。

 炎上でマイナスイメージを被った自分にうきうき話しかけてくるのは、炎上を知らないか、知っていても介音綺人に好感があるかだ。



「やっぱり! あっ、小声にします。しー、ですよね」



 女性は顔を赤らめて喜んでいる。

 あんだけ騒がれて地上波でもニュース流されたのに、俺の炎上知らねえってあるか?

 内心の警戒を面に出さず、綺人はつとめて笑顔で接した。

 ほらよ、本人だって認めたんだから、早く立ち去ってくれ。



「あの、こんなこと頼んじゃっていいか、わかんないんですがっ。

 ツーショット……お願いしていいですか!?

 一枚だけ!

 アップしたり友達に送ったりしませんから!」


「ごめんなさい、それはできないんです。

 事務所の方針で」



 炎上中にファンとツーショットする馬鹿がいるかよ!!

 アップしない、友人に送らない、んなわけねーだろ、ぜってーやるだろーが!!



 女性はしゅんとうなだれたが、いいことを思いついた、といった様子で顔を上げた。

 頼むから早く解放してくれ。こちとら、余命二週間なんだぜ。



「サインをお願いしても?

 お気に入りのクッションに!」


「それならいいですよ」


「やったあ!

 いつも車に乗せてるクッションなんです!

 ずーっと大切にします」



 ん?

 この流れは、やばいような。



「こっちに車停めてます、こっち!」



 駐車場まで来いってか!!

 病院の外に出るの、ぜってー嫌なんだけど!?

 いくらなんでも空気読んでくれ、無理、無理だっての!!



「どうしたんですか、介音綺人さん」



 名前を!! フルで呼ぶな!!



 綺人は腹をくくった。

 帽子を深く被り、マスクを上に引っ張る。

 診察は全部終わった。腕は思ったより軽症で湿布だけですんだ。

 受付にカルテが回っているから、新司が会計を済ませてくれるだろう。



 とっととこいつの私物にサインして、にこやかに小走りで逃げる。一番穏便にすみそうだ。

 引き込まれる可能性も考えて、車から1メートルは離れよう。

 どんな時も笑顔で、嫌そうな素振りは微塵も見せない。芸能人の鉄則だ。

 ほんっとーーーーに嫌なんだけどな! 病院みたいな、逃げ場のないところで声かけられんの!!



 人気のない非常口から、女性と綺人は裏側の駐車場へ向かった。



 なぜ綺人は、この女性の異常さに気付かなかったのか。

 水の鬼の症状のひとつは暗示。催眠や暗示にかかりやすくなる。

 ましてや、目の前にいるのが水の鬼本体ならば、回避のしようもなく。

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