3. 美しき青きくびれの書店令嬢
・ ・ ・ ・ ・
「こちらが、170年度版の『イリー地勢』です。だいぶもろくなっているので、ご注意くださいね」
卓上に置かれた大判の羊皮紙絵巻を、……いいや。正確にはそれに添えられた、綿手袋をはめた両手を、ベッカは見つめた。
さりげなくそっけなく、……を装ってじっとり見つめた。
大きすぎず小さすぎず、ほっそり長めのしろい指が中に入っているはずの
すばらしい手首のくびれは、そのまま青いやわらか編みの上衣につつまれた腕に続いて、……その先にうつむき加減の
直視できないそこから、ベッカの視線は急降下する。
丸みを帯びたあごの下、首のつけ根でちらりっと輝く銀鎖のさきの
ふくよかお腹のはるか奥底からこみ上げてきた感嘆のため息を、ひろげた鼻孔から音なく逃がすことに成功する。ああああ、神々しい、うつくしい。
「……ありがとうございます、ゾフィさん。今日もお手数を」
万感の想いが脈打ちとどろく胸のうちとは裏腹に、ベッカの喉はがらがらひしゃげたような、低い声をひり出した。
「いえいえ。それじゃまた、次の資料がご
さらっと小さく
やや細身の黒い袋股引の脚が、しゃかしゃか進んで低い書架の向こうへ消える前、ふとくまとめた金の編み髪が、青い背中で揺れた。……ああ背後からみてもやっぱり美しい、何とほっそり優雅なくびれ!!
巨大な廻廊のようなところ。左右の壁は、弧をえがく丸天井ぎりぎりまで、書物のつまった棚になっている。
ここは長大な書店のどんづまり。窓からの光が明るい。壁ぎわにしつらえられた閲覧席のひとつに座したまま、ベッカは今度こそ、ふはーと嘆息をもらした。
まわりに人はいない。少し離れたところにぽつんぽつんと、ながーい中央書架にかがみこんで、立ち読みをしている客が二人いるだけだ。
正午をまわったばかりの時間帯である。
試験勉強をする騎士見習や、調べもの目的の学者の姿はなかった。
ガーティンロー随一の大手書商、キノピーノ書店の閲覧席と令嬢店員ゾフィさんの検索とを独り占めした気になって、ベッカはこれでも有頂天である。
彼女が置いて行った数々の資料を、そうっと手に取った。
『イリー地勢170』の古びた羊皮紙巻。
『深淵なる東部世界の慣習と文化』は、手あかの激しい布とじ本だ。
『ファダン人口白書』、これだけぱりっと新しい、
「……」
机上すみに置いた革鞄の中を探って、書きかけ筆記布の束と携帯墨壺を出し、右側にひろげる。
そうしてから、『深淵なる東部世界の慣習と文化』の分厚い頁を慣れた手つきでするするっと開けて、昨日までの読みさし部分に挟んでおいた紐の位置から、ベッカは読み始めた。
小さな
≪……。東部世界においては、主に二つの祭祀的存在が
世襲制で引き継がれているこれら役職を担う人物は謎に包まれており、我々の常識観念から総括できるものではない。
もう一つが、各種精霊たちを自由に使役する精霊召喚士、いわゆる精霊使いである≫
「これだね」
つぶやいて硬筆を手にすると、ベッカは筆記布に書き込んだ。
“
≪彼らの拠点は東部でも奥深き場所にあり、そこでは潮野方言もまじらぬ原ブリージ語のみが話されているという。筆者に好意的に話してくれた一長老の話では、東部大半島の南東先端付近に精霊使いの集落が、さらにその先“ダビル鼻”に声音使い一族の拠点がある、との事≫
――ほうほう、ダビル鼻ね…。
ベッカは羊皮紙巻の『イリー地勢170』を、ゆっくり広げた。備え付けの文鎮で四隅を押さえる。
――半島の、南東先端……深奥部……ほんと、
思いつつ、ふとい指先で地図上の集落を示す印を追ってゆく。
――この辺だろうか。というか、『イリー地勢』はイリー世界の地勢図なんであって、その範疇をはみ出している東部大半島の情報には、責任もってないかもしれない。適当表記って可能性もあるなあ。
首をひねりながら、ベッカは別の布をより抜いて、『イリー地勢170』の横に置いた。
最近購入したばかりのイリー白地図/テルポシエ近辺図である。右部分の東部大半島はまっさらだ。
その上に二カ所、ベッカは硬筆で丸じるしをつけた。
――イリー暦170年当時の地勢だから、ね。エノ軍首領・メインは、だいたい僕と同い年くらいだって話だ。彼の生まれた時点での、この地図があっているなら、精霊使いのメインはこの辺りで生まれ育った可能性がある。
それがどうして、賊の頭になったんだかな? おや、本の中では精霊使いは世襲制って言ってるぞ……それじゃあ、メインの父親、エノも精霊使いだったって事なのだろうか……? いや、全然そんな話は聞いていない。エノがねぐらにしていた土地も、調べた方がいいのかな。どこから来たんだろう、あの蛮王?
考えつつ、疑問を展開させつつ、ベッカの右手はたえまなく動く。細かい箇条書きで、筆記布はずんずん黒くなっていった。
――まあ、実際の調査に行くのは僕じゃない。どんなに遠い土地だろうが、危ないところだろうが、いいんだけど。……派遣される騎士は、気の毒だなあ……。
後ろにくくったはずの前髪がほよんとほつれた、そこにベッカはふっと息を吹きかける。
――僕は机上の調査だけ。それにしてもガーネラ侯は、ほんとに良い仕事を回してくれたものだ! 東部ブリージ系の精霊使いについて、とことん調べつくせ、なんて……。青きくびれのゾフィお嬢さんに、毎日のように会えてしまった……!
そうだ、ついでに精霊のことも、ざっと調べておこうかな? うん、そうしよう。あと七日くらいは、このキノピーノ書店に通えるぞ。うまい事いけば、ゾフィさんをお香湯に誘える機会が、あるかもしれない……。
脳裏に焼きついた青いくびれの残像に、思わずにやけそうになった彼のひとつ横、がだだっと音をたてて、学者風の老人が閲覧席に座りかけた。
「おいこら、若者」
反射的に、ベッカは顔を上げる。
「幅を利かしとるでないぞ……って。おや、官吏どのかい……ごくろうさん」
気難しくいちゃもんをつけかけた老人は、しゅうんと語尾を小さくして、おとなしく二つ横の席へ移った。
ベッカは反応しない、どうとも思わない。
その目に入った途端、きらんと輝いて老人のいじわるをいさめたのは、ベッカの深い
ぶったがいに配された二本の黒羽刺繍の上、銀の台座に貴石のはまった叙勲章が、縫いつけられているのである。
この国の人間なら一目瞭然、ガーティンロー文官騎士のしるしだった。
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