第11話

翌朝。


スタンの右腕のマッサージをする。まだ効果はでない。


それから朝食を摂る。


スタンが朝の散歩にでかける。


先日買ったブーツを履いて。


僕はそれを見送った。


それから、僕も出かける。


噴水広場へ。


早朝だけれど、もう人の数は多い。


深呼吸を一つして、僕は耳を澄ます。


人々の声がする。人々は朝早くから活動的に過ごしている。


昨日に引き続きとても寒い。空一面を灰色の雲が覆っていて、今日も雪が降りそうだ。


すると、雑踏の中に、猫の声がした。かすかな声が、雑踏のざわめきの中で、か細くけれど甲高く聞こえてきた。


僕はその猫の声のする方へ行く。


細い路地に入る。曇り空で路地の奥は薄暗い。


道なりにジグザグジグザグ。


だんだん人がまばらになっていく。


朝の忙しい時間。みんな働きに出る時間。


でも、誰もいない。


路地の先にも。立ち止まって今来た道を振り返って見ても。


また猫の声。


僕は歩き出す。猫の声に誘われて。


そうして、十字路にたどり着いた。


その真ん中に、彼女はいた。


猫の姿を探している。耳を澄ませ、顔を巡らせ。


そして、彼女の緑の瞳が僕を偶然捕らえた。


彼女は少し驚いた風だったけれど、すぐに笑顔に変わる。


穏やかで優し気で。


「まぁ、あなたから会いに来て下さるなんて。嬉しい」


白髪の老婆が立っていた。


そして、相変わらず可愛らしい。


「僕にもいろいろと事情というものがありますので、あなたの到着を待っているのもどうかと思い、こちらから出向かせていただきました。ご迷惑でしたでしょうか?」

「いえ。ただ驚いただけ。よくここに私がいるとわかりましたね。私、家の場所をあなたに話したかしら?」

「いいえ。ですが、そんなものは関係ありません。全ては繋がっているのですから……」

「それが、あなたの本質なの?」

「わかりません」

「人が誰もいない。あなたがなさったの?」

「そうであると言えますし、そうでないとも言えます」

「どうしてここへいらしたの?」

「みなさんのご迷惑になってはいけないと思い、一番被害が抑えられる時間を選びました。あなたは夜は活動なさらないようなので」

「そうよ。夜は眠るものだから。あの黒髪の男の子は一緒じゃないのね」

「ええ。あの人には家族がいますから」

「あら、そう。家族がいなくなるのは寂しいものね」

「そうですね」

「友人がいなくなるのも、悲しいことよ」

「そうですね」

「てっきり、あの子も一緒だと思っていたのだけれど、私の見込み違いね」

「いなくても問題ありません」

「それは自信なの?根拠のない自信は、身を亡ぼすわ」

「はい。肝に銘じます」


静かに、世界が侵食されていく。即座に。


空気が一変する。


物理的な何かが変わったわけではない。何も変わっていない。街並みはそのままだ。


しかし、雰囲気が、大気に満ちる気配が、確実に、そして一瞬にしてその表情を変えてしまった。


僕は言葉を紡ぐ。


「最初、この街は平和に見えた。何の問題もない、穏やかに時を紡いで、時には大きな問題も持ち上がるだろうが、それでも長い目でみれば平和である、そういう街に見えた。だけど、何人も占いをしていて、徐々に、その裏側が見え始めた。あなたは実に上手く隠れていた。最初に僕が違和感を覚えたのは、結婚を間近に控えた女性が現れたときだ。彼女は言っていた。近所で不幸な出来事が続いていて怖いと。別におかしなことではない。冬で、人はみな体調を崩しがちだ。お年寄りや子供は容易く死んでしまう。けれど、彼女は心配だと言った。彼女は本質を見抜いていた。何かがおかしいと。だから僕のところにきた。逃れる術はないかと。だから僕は彼女にアドバイスをした。あなたもご存知だろう」

「ええ、そうね。赤毛のどこにでもいるような可愛い女の子。結婚を間近に控えていて、幸せそう」

「それから、幾人か、勘の良い人々が僕の元へきた。街に何かが起きていると、いち早く察知した人々。そういう人は稀にいる。今日のメニューは何がいいか。今日はどの道を通ったらいいか。些細なことだ。けれど、その些細なことが実は大きなものへと繋がっていることがある。彼らは無意識に恐れを抱き、その恐ろしい何かから逃れるために、おまじないを求めた」


僕は彼女に視線を向ける。彼女は薄く微笑んで、僕の次の言葉を促す。


「あなたは途中で気付いた。僕の存在に、なんとなく。あなたのやることを、遠回しに遠回しに邪魔している何かがいると気づいた。収穫をするつもりだったりんごが収穫できなかったから」

「ええ、そうよ」

「だから、あの日あなたは僕に会いに来た。そして、運命は繋がってしまった」

「迂闊だったわ。つい、どんな人が私の邪魔をしているのか確かめてみたくなってしまって。意識して邪魔しているのか無意識に邪魔をしているのか確認せずにはいられなかった」

「エリーは見つかりましたか?」

「いいえ」

「そうですか」


沈黙。


その間も、彼女の力は止まらない。熟れた果実の匂いが鼻をくすぐる。


「そして、あなたはついに僕に我慢がならなくなった。そのため、強硬手段にでた」

「ちょっとした実験よ」

「そう。実験だ。本当に、僕にあなたの邪魔をする力があるのかを見極めようとした。そうですね?」

「ええ」

「それで、どうですか。どういう結論に至りましたか?」

「今、ここで私があなたに対峙しているのがその答えよ。私はあなたを消す必要を感じました。そして、できると踏んだ。だから、あの父親に伝言を頼んだの」

「わかりました」


彼女は僕がくる以前からこの街にいた。だから、この街中を自分の物とするための準備はとっくに済んでいた。いたるところに自らを侵食させていて、それは一つの大樹が大地に深く深く根を下ろすようなものだ。


けれど、彼女の賢さは本物で、目立つことを良しとしなかった。だから、目立たぬよう目立たぬよう振る舞った。


彼女にとってこの街の住人は、その枝に実った果実だ。いつ収穫しても良い。好きなときに好きなだけ。


でも彼女は賢いから、ばれないようにばれないように、ちょっとずつちょっとずつ。タイミングをずらして。


そう、彼女は庭師だった。果樹園の管理人と言っても良いかもしれない。


赤く熟したりんごが、茶色く腐る前に収穫する。


彼女は僕の質問にとっさにいくつか嘘の答えを返した。嘘つきが、真実の中にこっそり嘘を混ぜ込んで人をだますように。僕に直接会った段階で、それは大した意味をなさないのだけれど。


彼女の変化の直接の原因は何か。おそらく猫。


愛する猫がいなくなり、正気を保つことが難しくなった。娘さんの死の悲しみを癒してくれた猫を失って、暗闇に囚われてしまった。家族思いの女性。


きっと最初、彼女はこの街を守っていたのだ。彼女は愛情深くて、この街の小さな異変も敏感に感じ取り、ことが大きくなる前になんとかしたいという、そういう強い気持ちがこの力の本質。


愛。


それが、娘を失ったことでおかしくなってしまった。家族が恋しくて、人を殺すのだ。目に付いた人を。


石畳にびっしりと根が張っている。それが今、はっきりと見える。僕の足のほうへ伸びてくる。


「逃げられないわ」

「そうみたいですね」


僕の足元には、植物の根が石にびっしりと食い込むという、本来ならあり得ない出来事が広がっている。そして、その何かの植物の根がするすると伸びてきて僕の足を掴む。


僕は小さな小さな火でその触手を焼く。その根はすぐに燃えて灰になって空中に消えてしまう。


「器用なことをなさるのね」

「僕は初歩的な魔法しか使えないんですよ、残念ながら」


さらに追撃がくる。僕の腕を、足を胴体を絡めとろうとしている。それを僕は小さい炎で焼いていく。何度も、何度も。


「いつまで頑張れるかしら」

「わかりません」


正直に答えた。実際僕にできることは時間を稼ぐことだけだったから。


その時がくるまで。


何度も何度も。同じ攻防。


とうとう彼女のりんごの木が姿を現す。


彼女は、その太い幹から枝分かれした梢の一つに腰かける。


そして、そのままどんどんと昇って行って、高い高いところから、彼女は僕を見下ろしている。


もはや彼女の木は、街の空全体を覆い隠さんばかりだった。


「飽きてきちゃったわ。それに疲れちゃった」

「僕もです」

「あなたの実力は分かりました。本当にささやかな力なのね」

「そうですね」

「どうして逃げなかったの?逃げることくらいならできたでしょうに」

「僕とあなたが繋がってしまったから。それは避けなければいけないことだった。こうなってしまった責任を僕はとらないといけない」

「責任感が強いのね。かわいそうに。それでは、さようなら」


彼女がそう言うと同時に、地面が盛り上がり、土の下に眠っていた太い太い根が一気に露わになる。それは、石畳の下からだけではなく、通りに沿って立ち並ぶ家々の壁の煉瓦や石を破壊して姿を現した。


本当にこの街のすべてに根を張っていた。


それが一斉に僕に襲い掛かってきた。


逃げられそうになかった。


「ユージン!!」


悲鳴のような声の後から突然の衝撃。


僕はその勢いに投げ出され、地面を転がる。


次の瞬間、僕が立っていた場所に、太い根が打ち下ろされた。衝撃と砂埃。


眩暈に一瞬状況がつかめないでいると、自分の体が浮き上がる気配がした。誰かの腕で抱き上げられるのがわかった。


「何をしているんですか!あなたは!」


知っている声がする。


「スタン??どうしてここに」

「なんとなく胸騒ぎがして、朝の散歩を切り上げてもどってきたんですよ。そしたらあなたはいない!私は!私は!」


とても怒っている声。


「でも、どうやってここに?」

「符丁と連想ですよ!あなたが言った!」


まさか、あのおまじないをやったのか。しかも、ここまでたどり着くなんて。なんという運の良さ。


昔みんながやっていたおまじない。誰にでもできるけど、当たる確率はさして高くない。気休め程度のものだ。僕や母ならいざしらず、何も知らない素人が占いを成功させるなんて。


「とりあえず逃げますよ!」

「いや、スタン、無理だよ。逃げられない」

「逃げられないのなら戦うまでです」

「無理だよ。君にだってどうにもならない。僕を置いていきなよ」

「無理だとしても!」


さらに大きくなる怒声。耳が痛いくらいの。


「たとえ無理だとしても、私は!あなたを守らないといけない!私は誓いました!あなたは聞いていましたか?!私の言葉を!馬鹿にしないでください!私は命であなたに報いると誓った!それを今果たそうとすることを、あなたは否定するのか?!今やらなければ!今以外無い!俺には!今しか無いんだ!」


そう言ってスタンが僕を担ぎ上げたまま走る。


衰えた脚で、駆ける。駆ける。駆ける。


後から彼女の攻撃が追いかけてくる。背後から、空を切って地面を何かが叩きつける音が届く。


スタンが忙しなく後方を確認しながら、彼女の攻撃を必死に躱して、必死に躱して走り続ける。


何度も足がもつれ、バランスを崩して転びそうになった。


けれど、スタンは走ることを止めなかった。


スタンの足が、体力が限界だというのは分かっている。でも、だから止めてとも言えなかった。


彼の必死さが……彼の気持ちを表していたから。


僕はスタンの邪魔にならないよう、ぎゅっとしがみつく。


彼の呼吸が、限界を訴えている。


激しく胸が上下しているのが伝わってくる。


空気を求めて、限界まで開かれた喉を、彼の熱い息が通り抜ける。


これほど辛く荒い呼吸音を僕はきいたことがない。


諦めないという強い意思がそこに見えた。


そして。


彼女の攻撃がとうとう僕らに届いて、二人そろって吹き飛ばされた。ものすごい衝撃と全身の痛み。


「ユージン」


投げ出される瞬間スタンの声が耳に届いた。


気付くと僕は石畳の上に投げ出されていて、全身を強く打っていた。体がしびれたように動かない。


なんとか周囲をみると、背中からもろに攻撃を受けたスタンが、建物の壁に激突して地面に頽れるように落ちていた。動かない。


まさか。恐怖が全身を包む。


けれど、次の瞬間スタンが小さく呻く声が聞こえた。


良かった。


頭を打って意識が朦朧としていたけれど、彼女が最後の一撃を繰り出すのがわかった。


重い一撃は僕に直撃するだろう。


しかし、僕は目を閉じなかった。


諦めは、スタンに対する裏切りだから。




その時。


ぽつり。


何かが顔に当たった。


ぽつり。


それは雫となって頬を流れ落ちる。


間に合った。


「終わりだ」


僕の声は小さかったけれど、彼女に届いたらしかった。


「何を言っているの?」

「時間稼ぎは成った。ほら、見て」


僕は空を見る。


彼女も、警戒しながら空を見上げる。


ちらちらと、白い雪が降って来ていた。


それは石畳の上に、僕らの上に、彼女の枝葉の上に、ぽつぽつと小さな染みを作っていく。


触れるとすぐに解けていく。まぼろしのように。


静かに静かに舞い降りてくるその雪は、彼女のりんごの木に冬の冷たさを運んだ。


「冬の寒さに、植物は眠りにつくのが決まりなんだよ」


言葉が世界に染み込んでいく。


見る間に、僕の言葉に反応したように、彼女の大樹が震え萎びていくのが見えた。さらに一本一本の梢から葉が落ちていく。


街全体に、葉が降り注ぐ。


急速に枯れていくのが分かった。


声もなく、彼女は力を失っていく。


彼女は、自らの乗った枝とともに地面に落下して、赤い花を咲かせた。

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