第6話
お風呂から上がったスタンはいたって普通の様子だった。
表情が別人かと思うくらいに柔和なものに変わっているのも、きっとこれが彼の普通なのだろうと思う。
水を吸って輝く黒髪も、意思のつよそうな眉も、生気を取り戻した真っ黒い瞳も、汚れが落ちてつやつやと輝く肌も。
年の頃は僕と同じくらいだろうか。もっと年上に見えていたのはきっと垢にまみれて汚れた肌や無精ひげ、ぼさぼさに伸びた髪の毛のせいだったようだ。
髪の毛はすっきりと切ってもらおうと思う。清潔感はお互い大事だから。
入れ替わりで僕も風呂に入った。僕の入浴中、悪い脚にも関わらず、扉の前で番犬よろしく待っていてくれたらしい。病み上がりの元病人が、髪の毛が濡れたままで寒い廊下に立っているのはいかがなものなのかと思ったけれど、それが彼の矜持なのだろうと思えば何も言えなかった。
部屋に戻ると、スタンはすぐに口を開こうとしたが、タイミング悪く宿のおかみさんが夕食を運んできた。僕が頼んでいたものだ。
さぁ食べようと、二人向かい合ってベッドに腰かけながら食べる。質素な食事だったけれど、おいしかった。
早々に食べ終わったスタンが僕の食事が終わるのをじっとまつ。
僕はじっと見られながらの食事に居心地の悪さを覚えたけれど、何も言わないで、できるだけ早くこの状況を終わらせるために、少しだけ急いで食事を終わらせた。
さて、今後のことを話し合わなければいけない。
彼を購入したのは成り行きだったから、どうやってこの先暮らしていくのかの、その方法を話し合う必要があった。僕にできることはさほど多くないから、協力していく必要がある。
その話を彼としようと思った僕が口を開くのに一足先んじて、スタンが話を切り出した。
すごく神妙な顔をしていた。
「もう一度お礼を言わせてください。今度は、心からの感謝をあなたに。本当に、本当にありがとうございました。あなたが助けてくださらなければ、私はあの時死んでいたでしょう。死んでも良いと思っていました。もう、全てがどうでもよくなっていたから。今でも、こうして生きていることが不思議でなりません。あの時、たしかに私は死を覚悟しました。それは、勘違いと言うにはあまりにも深刻な状況でした。確実に、命が終わるのが分かりました。こうやって何もなさずに死んでいくのだと、私は私自身の運命を恨みました」
一息に彼がそこまで話す。きっと、僕に話すことをあらかじめ考えていたのだと思う。
「私は、あの時、教会の鐘楼を見ていました。あそこから見える一番高い建物だったから。そうして、私はこの奴隷として過ごした年月のことを考えました。神を恨みました。そして、もう神は私を助けてはくださらないのだと、神はいないのだと思いました」
どきりとさせられるほど、強い言葉だった……。
「ですが、あなたがいました。あなたが私を助けてくださいました。ありがとうございます。なんとお礼を言ったらよいのか私にはわかりません。この気持ちをつぶさに表現する言葉を私は持ちません。ですから、代わりに何度でも言います。ありがとうございました」
そう言って彼は深々と頭を下げる。こちらが恐縮するくらいに、綺麗な姿勢だった。
「だからこそ、私はこのことを申し上げるのが心苦しい。あなたのために、命をなげうっても良いと思っています。ですが……。私は、あなたのお役にはたてないでしょう。でも、何かしらの力になりたい。今初めて、私は、この人生で初めて、誰かの役に立ちたいと思っています。何かを成したいと本気で思っています」
「それは、君の手足が不自由ということ?」
「はい。そうです」
そういうと躊躇うようにわずかに視線を落とす。
「僕は気にしないよ。僕自身、さほど立派な人間でもないし、力も強くないし、頭も良くないから。成り行きで君と一緒になったけれど、これからどうやってやっていくか、君に相談しようと思っていたんだ」
「ですが……。いえ、やはりこれは実際に見てもらった方が早いのでしょう。お目汚し失礼いたします」
そう言って、彼は腰かけていたベッドからやおら立ち上がると、服を脱ぎ始めた。
僕が事態がうまく飲みこめずにぽかんとしてる間に、彼は全裸になって、後ろ手を組む。
僕は息を呑む。
そこには……。
いくつもの酷いケガの跡があった。体中に。きっと背中にもあるのだろう。
そして。
あばらの浮いた上半身。臍の下からつながる黒い茂みのその先に、本来ならあるはずのものがついていなかった。
僕が彼の言わんとすることを正確に理解したことを、僕の表情から読み取ったのだろう。スタンはそのままベッドに腰を落とす。
僕は、彼にそのことを聞いて良いのかわからず、あの、とかええと、としか言えなかった。
「私が愚かだったのです。四年前のことです。私は当時十八歳でしたが、子供じみた根拠のない自信にあふれていました。たくさんの人を馬鹿にし、たくさんの人を傷つけました。そのことで、きっと色々な人から恨みを買っていたのでしょう。私は誘拐され、奴隷の身分に落とされました。奴隷商人が私に暴行を加え、私に無理やり契約魔術を締結させました」
思っても見ない告白だった。
「私は愚かにも逃げようとしましたが、果たせませんでした。当たり前ですが。その罰として、私は左足を折られました。適切な処置があれば骨折しても大きな後遺症は残りませんが、私は放置され、変につながってしまった足の骨のために、私は歩くことが困難になりました。それから1年ほど経って、私は次の主人へと下げ渡されました。二番目の主人の奥方が、私をひどく気に入り、傍に置きたがりました。私にはどうしようもなかった。逃げることもできなければ、拒絶することもできなかったからです。そして、私は去勢されました」
言葉には何の感情も込められていなかった。壮絶な過去を話しているのに、スタンはただ淡々と過去に自信に起きた不幸なできごとを、さも他人事のように語っている。
「それからすぐに私は三人目の主人のところへ移されました。私は、足が悪く力仕事ができなかったのですが、幸いなことに学はありましたので、そこで頭仕事を任されました。帳簿の管理補佐です。間違った部分を見つけ指摘する。そんな仕事でした。ですが、私はそこでもなにか恨みを買ってしまったのでしょう。もう、逃げようと思ってもいなかったし、過去の傲慢さはすっかり鳴りを潜めていました。日々を必死にいきる小さな人間になっていました。もしかしたら嫉妬だったのかもしれません。同僚のたくらみにより、私が帳簿の改竄をしているとされてしまいました。そして、私は右手に罰を与えられ、後遺症が残りました」
そう言いながら彼は自分の右手をさする。無意識に。
「そうして使い物にならなくなった私は、こうして再度奴隷商人に売り渡され、四人目の主人に買われるべくこの街まで連れてこられました。ですが、流行り病に罹ってしまいました。当然のことですが、体調も悪く、手と脚に問題のあるということで私は売れ残りました。彼らはそんな私にひどく腹をたてました」
スタンが僕をじっと見つめる。
「私のこの四年間は、ほんとうにみじめで辛く、永遠のように長く感じられましたが、いざこうして言葉にすると、なんとあっけないものなのでしょうか。人生とは、きっとそういうものなのかもしれません。空虚で長く、でも語るには短く。私はあの時もう死んでもよいと思っていました。ですが。やはり神はいらっしゃった。私はこうして最後の時に、一筋の光を掴んだのです」
強い決意の込められた瞳だった。そして同時に、大きな不安に揺れているがわかった。ランプの灯が細かく黒い眼の中で揺れている。
「私は、何の役にも立たないでしょう。ですが、もしあなたが私のことを側に置いてもいいと思うのでしたら、この命でもってこの御恩に報いるつもりであると誓います。そして、あなたが私のこの状態を正確にご存じないままこの話をするのは、正しいことではないと思い、こうして恥ずかしながら、私の身の上を語らせていただきました。お目汚しお耳汚しご容赦ください。もちろん、こんな私にあなたが失望されたとしても、私は何も思いません。それが当たり前だからです。どうぞ、正直に仰ってください。私のことが必要でないと仰るのなら、その時は命を差し出しても構いません」
僕には何も言えなかった。何も言えなくても、何か言わなくてはと思って……。
「さぁ服を着て」
スタンは僕をじっと見ている。最後の審判を待つ哀れな子羊が震えてその言葉を待つように。
「病気がぶり返したら大変だ。服を着て」
彼はしぶしぶ服を着る。答えを僕から引き出すまでは諦めないという風に。
「ベッドに横になって」
怪訝そうな顔で、けれど僕の言葉に従って彼が、彼の身長には些か長さの足りないベッドに仰向けに横になった。
「悪いのは左足だったよね?ちょっと見せてもらうね。あぁ、本当だ。なんだか骨が、ゆがんでいるようだ。上手く脚に力が入らない?」
「……ええ、そうです」
「知ってる?麻痺した手足も長くマッサージを続けると動かせるようになることがあるんだって」
そう言って僕は彼の左足をなでる。優しく、強く。
「いえ、それは、えっと……。筋肉の方に問題がある場合ではないのでしょうか?私の場合は骨のほうですので……マッサージは、その、効果が期待できないと思われますが」
「もしかしたら効果があるかもしれないでしょう?神様があなたを助けたのなら、この足も神様が癒してくれるかもしれない」
スタンは信じないという風で、でも主人である僕に強くでられなくて。
「……ええ。そういうこともあるかも、しれません」
「でしょう?だから、今日から僕がこうして君の足がよくなるようにマッサージするよ。朝と夜」
「そんなことはさせられません。マッサージなら自分でもできますので」
「でも君は右手が良くない。そう、さっき君は言っていた。だから僕がやるよ」
「いえ、滅相もない」
「じゃあ一週間。一週間様子を見よう。それで効果が無かったら止める。ね。それでいいでしょ?」
「……わかりました」
「もしかしたら……、奇跡がおきるかもしれないから」
納得していない表情のスタンに僕は話しかける。
「さぁ、目を閉じて。ゆっくり休んで早く体調を万全にしないと。明日から、君も僕も新しい生活が始まる。良い一日にしよう。そのために、さぁおやすみ……良い夢を」
僕がそういうと、スタンはあっという間に夢の淵へ沈んでいった。
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