第4話
「大丈夫ですか?」
後に残された僕は、同じく後に残されたその人に声を掛ける。
しかし、相手は全く反応を返さない。
男たちの手によって、壁にもたれかかるように座らされたまま、身じろぎもしなかった。
僕は不安になって近づいてそっと声を掛ける。光を失った目は何の感情も宿してはおらず、見てる間に男はずりずりと体勢を崩していく。
僕は慌てて男に手をかけ、軽く揺さぶった。
そしてやっと気づく。呼吸が荒い。
とっさに手の平を男の額に当てると熱い。もう何日も身を清めていないのだろう、肌が黒ずんでいて顔色が全くわからなかった。
僕はすぐに流行り病だと見当をつける。
僕よりもずっと背が高いけれど、がりがりにやせ細っているため、なんとか担ぎ上げることができた。お互いの身長の差はいかんともしがたく、僕は無理やり男を背負うと両足を抱えて、とりあえず休めそうな宿を探す。
一軒目で、病人を連れていると知られるとすげなく宿泊を断られ、二軒目でも同様に冷たくあしらわれ、三軒目ではけんもほろろに追い出された。
途方に暮れた僕は、教会へ行こうと思い立つ。きっと教会なら受け入れてくれるだろうと思えた。
しかし、教会に併設されている貧しい人のための施設はすでに人がいっぱいで、ベッドが無いからと断られてしまった。僕はなんとか床でもいいのでと頼み込んだ。冷たい風をしのげればいいと懇願すると、相手も僕のしつこさに折れてくれて、馬小屋の隣の物置小屋なら使っても良いという許可を取り付けることができた。
案内されて行ってみると、小屋と呼んでよいものか疑わしいあばら家で、壁の木板は隙間だらけで、冷たい風が吹き込むような作りだった。それでも、外よりは幾分ましだろうと思い、お礼を述べると、家畜の飼葉の麦わらをいくらか分けてもらうことができた。
僕はそのからからに干された麦わらを男の体に乗せ、少しでも寒くないように工夫してみたが、大した意味があるかは不明だった。
僕は男にまだ息があることを確認すると、心から安堵した。
まだ助かる可能性はある。
そう思うと、苦い後悔が押し寄せてきて、それを振り払うように幾度か頭をふる。余計な考えは集中を乱すから。
男と目が合う。けれど、やはりその目には何の感情も現れていなくて。男が生きるのを放棄しているのが分かる。
僕はこういった目を何度か見て来た。
でも。
僕はそっと男の額に手を当ててその熱に、男が生きている証である燃えるような熱に意識を集中する。
神よ、どうか……。
僕は男が少しでも回復するように祈りながら、そっと目を閉じた。
一昼夜僕は片時も離れることなく男の側についていた。目を離したら、その間に死んでしまうような気がしたから。
看病といってもほとんどできることといったら額に手を添えたり手を握ってあげたりすることと、水を飲ませること、炊き出しの粥をもらってきて口に流し込むことだけだった。
二日目の朝、やっと男の熱が少し下がったのが分かった。
僕はもっと滋養のあるものを食べさせるべく、後ろ髪を引かれるよな心地で、けれどそれを振り払って教会へ向かうことにした。一文無しになってしまったから、お金を工面しなければならなかったからだ。
改めて見上げた教会は僕を圧倒した。
最初ここにきた時、僕はあまりに慌てすぎていて、じっくりと見る時間がなかったから、これほどとは思わなかったのだ。
初めて足を踏み入れた大伽藍は巨大の一言だった。
そして、同時に恐ろしいほどに荘厳で、とても素晴らしかった。天上の楽園を地上に体現したかのような、白亜の柱と光を受けて輝くステンドグラスが、この世の物とは思えないほどに美しかった。
美しくて、それなのに、病人一人を受け入れるのもやっとなほどであるというちぐはぐさが、僕には理解しがたかった。
教会関係者を捕まえて、教会の横で商売をしても良いか尋ねてみた。
何をするのか問われたので、占いですと答えると、ちょっと怪訝そうな顔をされたが、変な騒ぎを起こさなければ、教会の関与を謳わなければ構わないと許可をもらうことができた。
僕は早速教会の入口側、大通りで占いを始めることにした。
母から教えてもらったおまじないの一つだった。
当たる当たらないは気の持ちようであるが、母の占いは人気があった。その母から教え込まれたこのおまじないに僕はそこそこ自信があった。
僕の占いは魔法の一種で、道具が無くても問題はないので、手ぶらでできるのが良かった。僕の呼び込みに興味を持ってくれる客がいさえすれば、なんとか糊口は凌げると踏んでいた。
ただ、母のような神秘的な見た目を持っているわけでもなく、なんの変哲もない若造の僕の占いを、にわかに信用するのは難しいのだろう。客はぽつぽつとしか現れなかった。占いという神秘に頼る技術は、見た目も神秘的でないと客が寄り付かないのよと、母がよく言っていたのを思い出す。
それでも、数人から手数料をもらって、それを握りしめて市場へ走った。病人にも食べやすいものを。少しでも滋養のあるものを。
僕はいくつかの野菜や穀物を買い、教会で調理設備を借りると、温かい粥を作って、男に食べさせた。
僕がいない間に熱が上がっているかもと心配したけれど、運よくそんなことはなく、食欲が満たされた男を介抱しながら、再びまだ熱を帯びる秀でた額に手の平を沿わせた。
神よ……。
僕はただ、この人が良くなるようにと祈り続けた。
翌日には微熱まで熱が下がり、その翌日には完全に平熱となった。まだ咳があるが、直に収まるだろう。
ここへ来てから初めて男の意識が回復した。良かった。
「大丈夫ですか?」
僕が声を掛けると、男がその瞳に人間らしい輝きを取り戻しているのが分かった。
自分に何が起きたのかを確認するように周囲を窺い、そこが今にも崩れそうなあばら家の中で、自分が麦わらの中に寝かされているのを認め、それからこちらの動向を伺うようにして見上げて来た。
「あなたは……?」
声は少しざらついていたが、低く落ち着いていた。男らしい太い声の中に、少しだけ甘い響きがあった。
「ここはどこでしょうか?」
「ここは教会の敷地内にある物置小屋です。ここしかあなたを寝かせる場所が無いと言われたので、ここへ連れてきました。体調は大丈夫ですか?」
僕の言葉を聞いて男が、体を起こす。熱が下がったとは言え、体力は落ちたままだ。男は眩暈を感じたようにバランスを崩す。
僕は慌てて男の上半身を支えると、そっと横になるのを手伝った。
「すみません」
「まだ熱が下がったばかりで、体調は万全ではないのです。ゆっくり休んでください」
「ですが……私の主人が……」
「大丈夫ですよ」
「私は奴隷なのです。主人から離れてこんなところにいるのが知れたら、あなたにご迷惑が掛かってしまいます」
自分の主人が僕に変わったことを知らないようだった。さもありなん。仕方ないともいえる。
「大丈夫です」
焦り始めた男を落ち着かせるために、極力刺激しないように意図して優しく聞こえるような声音で話しかける。
「しかし!」
「あなたは覚えていらっしゃらないでしょうが、奴隷契約に変更がありまして」
不思議そうな顔が僕を見つめる。その黒い瞳はとても美しかった。
「僕があなたの主人になったのです」
「え?」
ぽかんと口を開けて呆けたその顔が面白くて、ぼくはつい笑ってしまった。
「僕があなたを買ったのです。だから、もうあなたは誰からも叱られたり殴られたり蹴られたり、酷いことをされたりはしないのです。だから、安心してここで休んでください」
それを聞いた男は即座にがばりと起き上がると、僕の前で土下座をし、額を地面にこすりつけながら申し訳ございませんと大声で叫んだ。
それは突然のことで、僕には何が起きているのか理解しかねる状況だった。
「顔をあげてください」
僕の言葉に男が顔をあげた。ありありと困惑の表情が見て取れる。
「落ち着いて下さい。体に障りますよ」
「信じられない……」
「本当のことですよ。覚えてませんか?」
「そんな……でも。でも、そう言えば……。では、昨日のあれは夢では無かったのですね?」
本当は三日前のことなのだけど、気づいていないらしい。それでも朧げながらあの日のことを思い出せたようだ。
僕は安心させるために頷いてみせる。
「あ、新たな主人であると露知らず、このようにのうのうと眠りこけて、あまつさえ大変な無礼を働き、本当に本当に申し訳ございません。どのような罰も甘んじて受け入れます。ですが!今後誠心誠意あなた様にお仕えすると誓います!だから、どうかどうかご容赦賜りたく!」
彼の全身がぶるぶると震えている。それはいっそ痛々しいと言っても差し支えのない様子だった。
「いや、そんなこと気にしなくても」
そう言って落ち着かせようとするけれど、彼の目には警戒の色が濃い。ますます声は大きくなり、もはや悲鳴のようだった。
「いえ!いえ!許されません!わかっております。ですが、どうか!どうか!」
僕は男の頑なな態度に混乱しながら、彼を必死になだめるほかなかった。
あなたを痛めつけるつもりは毛頭ないことを繰り返し言って聞かせたが、全く信じてくれるそぶりは見せなかった。
あまりに彼が大声を出すものだから、教会の人が何事かとこちらにやってきてしまい、更に男を恐縮させるという事態になってしまった。
教会の人の登場で状況が一旦落ち着いた。
僕はふらつく彼に黙って横になるよう命令した。そして考える。
とりあえず彼が動けるようになったことで、もっとましなところに移動する必要があるだろう。何せ病み上がりなのだ。もっとしっかり休まなければ病気もぶり返してしまうだろう。それにもう病気の症状はおさまったのだから、宿に泊まることもできると思った。
そうと決まれば行動は早い方がいい。
未だ病み上がりに活動を始めようとする彼を無理やり魔法で眠らせ、僕は必要なものを揃えるために、自分にできることに精を出すと決めたのだった。
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