第16話 龍之介と伊緒(前編)
学級日誌のその日の授業の主な内容なんて欄は本当に必要なのだろうか。
そんなことを書かなくても小テストがいつとか、課題の提出日とか、今後に活かされる情報だけを書くだけじゃ駄目だろうか。
または、授業の内容ではなく、その授業の評価を書くというのはどうだろう。わかりやすさ、板書の見やすさ、時間配分などの項目をその日の日直が評価する。
そんなどうでもいいことを考えているから授業の主な内容欄がいつまでたっても埋まらず、無駄に帰宅時間が遅くなってしまった。
学級日誌の廃止を公約に掲げる生徒会長が立候補したら、俺はそいつに投票したい。
玄関ドアを無言で開ける。
この時間は両親は仕事でいないし、七海姉さんだってまだ大学から帰って来ていない。
ゲームを始める前に数学の課題を済ませておかないとと思って靴を脱ごうとした時に見慣れないローファーが綺麗に揃えられているのに気付いた。
姉さんのものにしては小さい……まさか。
いつもなら自分の部屋へ直行するところだが、ローファーの主を確認するためにリビングのドアを開けた。
「おつー、日直にしては遅かったな」
マグカップにお茶を入れ、ソファーに深く腰掛けて背もたれに身体を預けた伊緒は自分の家にいるかのようにくつろいでいる。
「なんで勝手に俺ん
「勝手にじゃないよ。おばさんと七海ちゃんには遊びに行くって連絡したから」
「なぜ、俺にはしない」
「
眠そうな目をしながらお茶をすする伊緒。
「だいたいどうやって家に入った?」
「どうやってって、ボク合鍵持ってるもん」
キーホルダーの輪に人差し指を入れてくるくると回して見せる。
こいつがしばらく家に来てなかったからすっかり忘れていた。
先日の奉仕活動の時に伊緒は同中の好って言っていたけど、それは嘘ではない。
もっと正確に言えば、中学校だけじゃなくて小学校も一緒だし、その前から知っている間柄。
それを普通は幼馴染って言うのだろうけど、俺たちはちょっと違って血のつながりもある。俺の母親と伊緒の親父さんが従兄妹だから俺たちは
そして、幼いころからよく遊んでいたから伊緒は俺のことを龍君なんて呼ぶ。
でも、学校でそんなことをしては変に目立つし、俺たちが再従兄妹ってことが知られるのも面倒だから学校では俺は鷹見さん、伊緒は丹下と呼び合っている。
俺が中学の途中からボッチ道を進みだして、伊緒も家に遊びに来るなんてことはなくなっていたのにどういうことだろう。
冷蔵庫から作り置きの麦茶をいつも自分の使っているコップに注いで俺もソファーに座る。
コップ半分くらいの量を一気に飲むと取り乱した気持ちも腹の方に一緒に流れていって少し落ち着く。
「二年ぶりくらいか、家来たの?」
「そのぐらいかな。まったくひどい扱いだよ」
「どういう意味?」
「許嫁であるボクをずっとほったらかしにしてるってこと」
ブッッ!
麦茶と取り乱した気持ちが一気に逆流してきた。
「はぁはぁ……、それって、昔、母さんたちが茶飲み話にしてたやつだろ」
「知らないのか。口約束も契約として成立するって」
「そういう大事な話はお茶請けのお菓子感覚でしないから」
これは幼稚園児がシロツメクサで作った冠を渡しながら結婚しようなんていうのと同じようなものだ。
いや、そっちは自分からプロポーズをしているがこっちは外野がそんな話をしているだけだからますます以て効力は低いと言えるんじゃないか。
「龍君はボクを捨てるの」
泣きまねをしながら上目遣いでこちらを見てくる伊緒。
「やめい」
「うぅぅ、龍君に捨てられたら、次はハゲて脂ぎったおっさんと政略結婚させられる」
鷹見の家はもともと旧華族の由緒正しい家柄だけど、この令和の時代にそんなことはないだろう。
「おじさんがそんな事させるわけないだろ。それに俺たちは単なる再従兄妹――」
「い・い・な・ず・け」
「いや、せいぜい幼馴染で――」
「そんなにボクのこと嫌い?」
伊緒はきゅるんという効果音が出てきそうな濡れた目でこちらを見てくる。
チワワみたいな目で見るんじゃない。
それに、伊緒と疎遠になっていたのも嫌いになったとかじゃなくて、俺が勝手に周りとの関係を絶っただけだ。
「どこでそんなずるいセリフ覚えた」
「龍君がほっとくからぐれただけ」
ゲームでキャラの親密度が下がり過ぎると言うこと聞かなくなったりするやつか。
俺はおでこに手を当てながら残っていたお茶も飲み干した。
さて、このぐれてしまった反抗期の再従兄妹をどうする。
「それで、今日は何か用事でもあって来たのか」
「用事がないと来たらダメなのか?」
再びのチワワの瞳。
「あんまりその目で見ると目隠しするぞ」
「龍君がそういうのが好みならそれでもいいけど……、でも、ボクは痛いの嫌だから優しくして欲しい」
「何の話だよ。あと、頬を朱くしながら言うな」
伊緒は小さく咳払いをして、お茶を一口飲んでから続けた。
「最近、ボッチ街道を突き進んできた龍君が雫と急に親しくなったみたいだからどうしたのかなって」
――っ!?
「おっと、これはまさかの図星か。自分で友人関係全部切って、ボクもほったらかしにしていたのにどういうことだ?」
コップをローテーブルに置いた伊緒は俺の方を向いて今度は逃がさないという視線でいる。
伊緒の言っていることは事実だけど、ここで俺と綿矢さんの関係を下手に話すと綿矢さんの聖女様モードがただ猫を被っているだけってことまでバレるかもしれない。それは何としても避けないと。
「綿矢さんはみんなに優しいから。奉仕活動を手伝ってくれたんだろ」
「そうかな。こないだ体育の授業が終わった後に雫が龍君のジャージを着て更衣室に戻って来たのはどうして?」
「そ、それはちょっとアクシデントがあって、綿矢さんの体操服が濡れたから貸しただけだ」
まさかあれに伊緒が気付いていたとは。
「今までの龍君ならジャージを貸したりしない」
「俺だって困っている人がいれば助けるくらいの優しさはある」
「それなら今日の昼休憩は? どうしてすぐにあの場を離れなかった?」
それは綿矢さんがなんて返事をするか気になっただけで……。
綿矢さんが言うところの自分の友達が知らない誰かと仲良くしてたら嫉妬するってやつだ。
「ちょっとくらいは野次馬根性があったりするだろ」
この際、ちょっとの嘘は許して欲しい。
伊緒は、うーんと唸りながら嘘発見器がスキャンするように見つめてくる。
「おかしい。今までの龍君にそんな野次馬根性はなかったはず」
「俺の野次馬根性まで把握しているのかよ」
「野次馬根性というより、他人への関心かな。……もしかして、雫に惚れたか。今、正直に言えば、浮気扱いにしないでおくが」
「ちょ、ちょっと、待った。浮気って!? それに惚れたってわけじゃないから」
言っておくが、俺と伊緒はもともと付き合ってなんかいないし、幼馴染のような関係だ。綿矢さんと友達になったからといって、浮気と言われるような関係じゃない。
「惚れたってわけじゃないってことは他に何かあるってこと?」
しまった。浮気って言葉はこっちの動揺を誘うためのフェイクか。
これ以上、下手に誤魔化そうとすればどんどんぼろが出かねない。
「友達……、綿矢さんとは最近友達になったんだ」
伊緒は視線を足元に移して、歯を食いしばってから言った。
「ボクを蚊帳の外に置いたままにして、雫とだけ友達になるなんて。ボクは龍君が昔みたいに、またボクをかまってくれる日が来るのを待っていたのに」
自分から友人関係を切って二年以上すれば、みんな俺のことなんて忘れているだろうと思っていたし、それでいいと思っていた。だから、伊緒だって俺のことなんか遠い親戚の一人程度としか思っていないと考えていた。
「すまない。伊緒がそんなふうに待っていたなんて知らなくて」
「本当にすまないと思ってる?」
「もちろん」
「それなら、お詫びにお願いを一つ聞いて欲しい」
伊緒は俺の方に向き直して俺の目をまっすぐ見る。
― ― ― ― ―
今日も読んでいただきありがとうございます。
皆様の応援が何よりの活力でございます。
次回更新予定は12月16日AM6:00です。
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