ジュブナイル

天野いあん

ジュブナイル

 ああ、三月に、雨が降る。雨雲が空を覆う。車が通るたび、タイヤが水の上を走る音が過ぎていくのを聞く。赤く点滅する信号機と、ぼやけたような視界。肌に触れる冷たい空気を、強く感じていた。

 そうだ。地球は、一年をかけてここに戻ってくるんだ。一年というのは、確かに回転していて、いずれ桜が咲けば、それをまた感じ取ることができるだろう。だが、温暖化による気温の影響で、まだ桜は咲かず沈黙している。ああ、その三月に、雨が降る。バスに乗り遅れて、雨の中立ち尽くす。そのうち、気がついたら私は、バスに乗っているだろう。気がついたら私は、家についていて、気がついたら私は、部屋の中の布団を深く被って、温かい眠りについているのだろう。小さな屋根の下の、バス停のベンチに座って、車が過ぎていくのをじっと見た。私は目を閉じる。


 シャワーを止めて、シャンプーを手にとって、頭になでつける。無理やり力を入れて大雑把に洗い、流して、体を洗って、湯船に浸かる。天井を見上げると、ランプから水滴が落ちていく。水音が一定のリズムを刻んでいた。学校、バス停、風呂場。モニターに写るそれを、ぼんやりと眺めているだけのような感覚。ふと、目を閉じて、それを巻き戻した。


 青春、私のジュブナイル。目が覚めるような美しい光景が目に見える。私は息を呑む。光が射し込むように、ピンク色のふわふわが身を包むように、温かい春風が吹くように、私の視界はあたたかくて、熱を持って、世界が色づくように、街にいっぱい、花びらが降ってきそうな、そんな、私の、確かにあった日。これまでの過去を振り返ると見える、あの目の覚めるような光景。私の体が祈りや恋という、脆い飴でできていることを、私以外は誰も知らない。私はどうしてか、哀れみを向けられるのを一番に恐れていた。泣きそうな目を擦った。お風呂を出たあと、つけていたテレビを消して、部屋に戻りベッドの上に寝そべり、目を閉じた。


 拙い足取りで歩道橋を登りながら、小学校の校庭で、子どもたちがはしゃいでいるのを見る。卒業した後、改装されて、今では役所みたいな見た目をしている。もう今の子達は知らない。昔は、もっと立派じゃなくて、古くて、狭くて、でも、花壇が少し。この歩道橋を降りて、学校の入口に入れば、春は、満開の桜があった。そういえば、あの桜はどこに行ってしまったのだろうか。目を閉じれば、頭の上いっぱいに桜が咲いている景色が、今でも見えるというのに。


 夢は、寝ている間に、物語の展開通りに上映される映画のようなものではなく、起きる瞬間に、心に落ちてる要素を拾って、物語が生まれる。現実も、そうだとしたら? 私のこの日々も、目を閉じていれば過ぎていく。また目が覚めたら、私は一体どこにいて、誰と話して、どんな景色の中にいるのか、どんな世界にいるのか、わからないけれど。それって多分、偶然じゃない。今私がいる世界、この景色、この世界。私がちゃんとここまで歩いてきたことも、ほんとはわかっている。だけど、どうしたって、現実は呆気なく過ぎて、私が苦しんだ朝も、泣いた夜も、楽しかった日も、一枚の写真みたいに、ただの一瞬になってしまうから。それが、恐ろしいと思っていた。


 名前を呼ばれて目を開けると、呆れ顔の先生が居た。少しずつ状況を理解していく。今は授業中だった。クラスの皆の優しい笑い声がする。眠気のせいか、気持ちも頭も、ふわふわと、宙を浮かんでいる。先生の話は次第にまた遠くなり、静かに私は目を閉じた。


 懐かしい夢を見た。忘れられないことが沢山ある。思い出しては、苦しいと感じることもある。だけど、目を開けるとまた、私は今までしてきたことを知る。どうやってここまで来たのか、私だけが知っている。きっと前の私じゃ、想像もできなかった今。そこに私はいる。嬉し涙を隠して、そんな当たり前に、怯えながら、喜びながら、私はまた、眠りにつく。 


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ジュブナイル 天野いあん @amano_ian

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