サンスケ
小川かこ
第1話 小さな設計事務所
今時、FAXで送られてきた図面に白い三角形の棒を押し当てコロコロと回しながら縮尺を確認してスケールの比率を電卓で確認しコピー機の拡大縮小で調整する。
シトシトと降る雨のせいか心なし図面が湿っぽい。梅雨の時期は現場が滞りがちで、雨が一度降るとストップしてしまう現場が多い。ふいに現場が止まってしまうことが多く暇休期の事務所や工務店は多い。その間に設計は夏場前までに図面を作業や書類整理に勤しむ施工店の設計は多くのんびり作業できる。
正しい寸法。間違えの無い仕事。モノの大きさには用途毎にあった縮尺や単位がこの世の中に存在すると知ったのは仕事を始めてからだ。縮尺を合わせた図面の上で三角スケールをコロンコロンと音を立てて寸法を確認する。
「やっと二級建築士の試験か。今週末は試験勉強で休んで良いぞ。」
飯野所長は老眼鏡に拡大鏡の合わせ技で図面と睨めっこしながら若手にそう気遣てくれる。うちは設計施工を担う、一級建築士事務所として地域密着で運営している。少人数の会社なので所長と言っても気の良いおじさんで、俺はおじさんたちばかりに囲まれて仕事している。例年なら、ベテランの下で万年パシリとして雨が降るたびに施工途中の現場に防水シートを敷きに雨の中、走り回るのだが今年は違う。
「高卒の俺なんかが国家資格なんて取れるんですかね。大学や専門で建築のおベンキョーなんて全然してないっすよ。」
「あらぁ、全然大丈夫よ。この業界”空間デザイナー”と名乗ってる無資格設計者だって堂々とやってるんだから。私だって持ってないもの。」
優しい雰囲気でさりげなくフォローしてくれる女性はCADオペの派遣会社から育児後に転職してきた主婦の中込さん。恐しく素早い手つきでサクサク図面を仕上げていく。
「学歴も大切だけど現場が分かってないといけない業界だからな。あの世界の安藤忠雄だってプロボクサー出身で建築はズブの素人から始めてんだ。大丈夫!」
飯野所長が自信満々の顔で闊達に笑うが、試験なんで学生時代から大っ嫌いな俺にとってはプレッシャー以外の何者でもない。
「神レベルと比べられて安心しろと言われてもなぁ…。」
狼狽える若者の肩をバシバシと叩きながらみんな暖かい目で見つめる。
俺、三角光輔は母子家庭で経済的事情で進学が叶わずすぐにこの事務所に就職した。最初は施工の現場作業員だったがPCに強い今どきの少年だったのでCADの手伝い作業から徐々に設計を覚えていった。
「バイトから6年間、現場と設計を学びようやく資格取得に必要な年数取れたんだ。まだ25なら早い方だから取っとけ取っとけ。」
飯野所長は図面片手に老眼鏡を上下させる。
「飯野さんは一級取ったの40手前ですからね。あんときゃ独立かかってたから苦労しましたねぇ。」
と飯野所長の右腕の施工部長兼、監督の後藤さんが大笑いしながら割って入る。俺の一番最初の上司で合格したら飲み会をしようと画策している。
「ああそうだ。今度若い設計の男の子が入るわよ。」
中込さんと経理担当の所長の奥さんがお饅頭を頬張るのとおしゃべりを器用に同時進行しながら教えてくれた。
「大卒らしいからな後輩に負けんよーに頑張れよ!」
後藤さんはお饅頭を一飲みするとユサユサと俺を揺さぶって励ましてくれる。
「今週末くらいは現場は俺ら施工がバシッと見ててやるから必ず合格しろよ!」
現場で一緒に仕事をしていた時から高卒仲間で息子のように可愛がってくれてたので気合もひとしおだ。ずっと現場でことある毎に学や資格の重要性を解いてきた張本人なので思い入れや応援が一番重い。
「ははは。マジかよ」
ーーー
試験の明けの月曜日。開放感と共にジメジメしていた雨季の晴れ間は、雨で埃っぽいのが洗い流された瑞々しい空気と太陽の明るさが窓から室内いっぱいに広がりコンクリート打ちっぱなしの事務所のコンクリートの壁面に太陽光で白い部分とグレーの濃淡が刀の刃のように射し込む。明るい方に見慣れない若者がいてみんな取り囲むように光の中にいる。俺は涼しい日陰のグレーの部分からその様子を静かに伺う。「新しく入所した吉川です。よろしくお願いします。」晴れ間の日差しのように笑顔が爽やかでオシャレで、作業ジャンパーにGパンの俺がダサく感じる。みんな簡単な挨拶を順番にしていく。
「ども、三角です。」
「三角も二級の試験終えたばかりで疲れているだろう。同い年だし事務所内の説明しながら飯でも行ってきなさい。」
軽く会釈をする俺に所長が3千円ほど押し付けてくる。
「え?まだ二級取ってないんですか?」
聞けば吉川君は院卒のエリート。卒業してすぐ一級に受かっているらしい。
「あとは実務年数をこちらで取っちゃえば免許証取れるんですよ一級」
「そっかすごいんだな。」
エリート様のお話を聞きながら事務所内の間取りと席を案内してパソコンのセッティングを終える頃にはちょうどランチの時間になった。
「なんか食いたいのある?」と所長から預かった千円札をヒラヒラさせる。
食い盛りなので普段は安い弁当屋やチェーンの牛丼かラーメン屋だけど、懐の暖かい今日は遠慮なく少し良い定食屋に入る。
「これが卒制作品。こっちはデザインコンペでいけると思ったんだけど入賞止まり。結局海外デザイナーで有名な…ほら!この人に取られて悔しいんだけど仕方ないっかって…。」
スマホ片手にデザインや海外の話を聞かされる。自慢げに出されたパースは芸術作品のようだ。
「どうやったら[作れるのか]想像もできないよ。」
夢のような建物は俺の想像力では思い付かないものばかりで縁のない世界だ。このパースだけ見せられても施工方法が思いつかない。吉川は、ふふん。と自慢げな笑みを浮かべながら「まぁまぁ美味いね。」とトンカツ定食を遠慮なく食らう。俺は領収書を綺麗に畳みながらそぅっと胸ポケットにしまった。
ーーー
数日後
「こんなCADオペ仕事はデザイナーの仕事じゃないですよ。」
口をだらしなく歪めて呪詛のような文句ばかりでデスクに突っ伏している。中込さんはいつも通り背筋をシャンと伸ばしてピアニストの超絶技巧のようなタイピングで一心不乱に図面を進めている姿と並ぶと同じ仕事をしているとは到底思えない。
「吉川君は余裕ありそうだけど終わったのかな?」
飯野所長が穏やかな調子で声をかける。仕事内容は古い建物の改修工事用のCAD起こしだ。平成初期でまだ手書きの時代の青焼図面を設計図書を見て平面図をCADデータに起こす作業は印刷で掠れていたり、畳まれていたA1の図面の古いインク同士がくっついていて判読が大変だが新人向けのそんなに難しい作業ではない。中込さんはコピーで読みづらい部分をマーカーしたり数字の不整合部分や掠れている箇所を赤ペンで計算してから作業をしているが、吉川のコピーは綺麗なまま作業している。製本された古い設計図書の背表紙を撫でながら柔らかい物腰で尋ねる飯野さんの問いに、吉川君は先ほどと同じ「CADオペ仕事で非効率」の愚痴をこぼしている。
「ありゃぁダメだな」
後藤さんはクーラーの効いた施工部の部屋で缶コーヒーを飲みながら出来上がっている分の図面を眺め嘆息する。
「今の子はCADしか触らないですから。漢字もPC入力でしょ?[図面が読めない]んですよ。ここ排水溝の入り口の蓋の線。窓の部分で明かに[金網]なのに掠れた手書だから[金鋼]に勘違いしています。」
字だけじゃなくで明かに図面をなぞってるので、インクがくっついていた部分の線が入り混じり横に書いてある寸法と比べて成立してない。意味のない線があちらこちらに散っている。
この図面がしっかりできないと、次の改装工事ができない。
「壁の詳細図はLGSとCチャンの区別ついてないのか。参ったな。おい三角!手直してやりながら金物のJIS規格から説明しなさい。」
図面をキッチリ整え直し机上でトントンと鳴らす音が図面の枚数の厚みの分だけヤケに重い。一分の狂いもない紙の束をWクリップで留め渡し命じる。その図面の束の断面はかつてそのビルを設計した本人の図面の線のように、触ると指が切れそうなほどシャープに綺麗に整っていてる。
「まだ身が入ってないなぁ。」
つい、パーテーション越しに筋骨隆々で頼り甲斐と背中に書いてある後藤さんと丸まったひ弱な吉川君の背中を見比べてしまう。
俺は、院卒の一級建築士様に何を説明したらいいのか目を白黒させながら吉川君の隣の席に腰掛け声をかけてみる。
「図面確認したんだけど今度現場見てみない?」
現場を見て覚えるのが1番だ。所長の大量の赤ペンと手書きの説明文の山に辟易しながら吉川君は青焼図面のように真っ青な顔で図面を握りしめる。握っている指の下の図面枠に記載されている[設計者:飯野 正和]の名前にまだ気づいていない。
翌日、飯野所長が主任設計として携わってる現場に後藤さんが施工で入っている。ゴールデンコンビだ。RC造のマンションでコンクリートの基礎が立ち上がっている。「やっぱ現場はいっすね。」試験以降久しぶりの現場だ。事務所の刺繍入りの上下の作業着に作業ベルトを締めて安全靴を履き、ヘルメット姿で出来立てほやほやのコンクリートの硬化状況やクラックの有無を確認する。
「おめーも手伝え」
後藤さんが満面の笑みで軽トラの荷物を手渡す。
「もちろん!」
モノを作るのは大好きだ。馴染みの現場のおっちゃんたちにアレコレいじられる。現場で、ひとりヘルメットと不釣り合いなオシャレファッションに身を包んで所在なさげな吉川君を案内説明しながら墨出しをする。墨出しは設計も関わることがあり躯体が設計通りなのかは、重要な工程なので真剣に教える。
「このレーザーで水平位置をとって。水勾配確認するから。」
マーカーで躯体に墨出しの基準ラインや数字を書き込む役をお願いする。吉川君はデザイナーズブランドものの服が汚れる事を明かに嫌煙しているが、現場にオシャレは不要だ。ずっと
「自分ならこんなオシャレなデザインにするんだけどなぁ。」
1人てブツくさ言っているがそんな予算はない。
「金を出すのはオーナーだから、やりてーならテメーで金出して建てな。」
後藤さんは一瞥もくれずに嗜める。
「ちなみにこの1案件で約3億近くかかってる。お前の言うフツーの面白みのないマンションに3億円。」
と後藤さんは呟きながら墨出し線をピンっと張る。俺には出せないのでミスしないように粛々と身の丈に合った普通の仕事をするしかない。阿吽の呼吸で通り芯を墨出していく。
「普通の人が住むマンションを、普通の人が仕事をして給料もらうのに3億円か。宝くじみたいだよな。」
さすがに6年も現場も設計もやってるので都内ではこれが普通なのは分かるが改めて向き合うと冷や水を被った感覚になる。
「今のお前に3億出してくれるお客さんがいるなら好きにすればいい。」
それはつまり飯野所長や事務所の上の人間に宝くじを渡す人がいるということだ。後藤さんは糸のたるみが無いか指で引張力を確かめる。夏場まる一日作業をし汗だくの中、真剣な眼差しで図面の寸法とズレがないか弦楽器を演奏するような姿で確認する。張りつめた墨出しの糸が振動する。真っ直ぐに引かれた墨出し線を引くと建物の間取りが見えてくる。俺の立っている場所はどんな部屋になるのだろうか。
コンクリートが夕日で赤く染まる中、吉川君は現場の掃除すら手伝わない。無言でタブレットにアレコレ書き込んだり写真をとって真面目そうに勉強をしているので放っておく。ガラ袋にゴミや資材を詰め込み
「俺がいつか設計した自分の家建てるときは後藤さん建ててくれますか?」
「いいぞ。日当まけてやる代わりにオメーも身体動かせよ!」
日に焼けた顔をくしゃくしゃにし、ニカっと歯を見せ笑いながら冗談を言い合う。
「じゃぁ僕が腕によりをかけて赤ペン先生をしてやろう。」
軽トラの横に止めた車から所長がぬぅっと差し入れ片手に姿を現す。
「うへぇ、こっわ!」
「人をお化けみたいにいうなよぉ。」
口をへの字に曲げながら俺の好きなジュースを放り投げ渡してくれる。俺にはこんなマンションやビルは難しいけれど、あったかい家くらいは自力で建てれるように頑張って稼ごう。
ーーーー
「…よく耐えられんな。」
クーラーの効いた事務所で翌朝、コンビニのアイスコーヒーを飲みながら吉川君がボヤく。
「何が?」
聞けば有名大学院卒のプライドに街の事務所の普通のおっさんの赤ペン攻撃や現場の学のない俺らみたいなのやおっさんが偉そうにアレコレ指示してくるのがプライドを傷つけているらしい。よくいるデザイナーの愚痴だが今回は後輩なので参った。
「現場で30〜40年やってる人たちだから色々教えてくれるよ。言い方は雑だけど。」
俺が事務所入った時なんてCADの本と参考書の2冊に大量の設計図書を置かれて[読め]のポストイットだけだった。
「それって教育体制とかどうなってんの?パワハラじゃね?」
「まぁ職場は学校じゃないし。」
赤ペンで指導内容まで丁寧に書いてくれてるのは飯野さんなりの優しさだ。聞けば資料を貸してくれるし、何が分かってないかを理解して必要なことしか書いてない。自分で直した方が明らかに早かろうに、先日の修正指示をペラペラめくると前髪がフワッと舞う。
「これ書いてくれんのだって大変なんだけどな。」
聞こえるか聞こえないかの声量で呟き、昨日の現場の写真の整理を始めることにした。
正午ピッタリに吉川君がランチに出ると、お弁当片手に中込さんが吉川君のデスクを覗き込む。
「図面を真剣に読まないと。ぼーっと見てるだけと大違いだわ。」
ちっとも進まない作業の進行を実質賄っているのは中込さんだ。主婦をしながら派遣をしていたが、仕事は真面目だし勉強をしているので育児明けとは思えない能力で、学歴を鼻にかけてばかりの吉川君に思うところがあるようだが、爆速でマニュアルを作ってくれてる。さすが大企業で長年派遣をしていただけあって人に教える材料を作るのに慣れてる。
「良くも悪くも育てるのは周りの人間次第だから何も知らない子供にあたっても仕方ないわ。可能な範囲では面倒見るしかないわよ。」
母親のような面差しで困ったように眉を顰める。俺もお世話になったものなので感謝しかない。マニュアルをコッソリ作ってあげるのに主婦の中込さんは残業。吉川君は定時で帰っている。翌朝、資料やマニュアルに呆然としている吉川君。
「教育体制ってやつ。一応、そこそこのゼネコンと同じレベルの用意しておいたわよ。」
中込さんは、吉川君ご不満の教育体制をかつての古巣の資料を思い出しながら作ったらしい。みんな吉川君のために頑張って用意しているんだけど、流石に愛情過多。『びっくりする気持ち分かるよ』と同情の眼差しを向ける。しかし、吉川君はマニュアルを一瞥して
「はん、こんなの知ってますから」
せっかくの資料をパラパラめくってぽいっと投げた。
その日の夕食はひときわ温かく感じた。「かあさんメシ旨かった。ありがとう。」皿を洗いながら呟いた。
「急にどうしたの。」
ほわっと微笑みながら、嬉しそうに俺の好きな惣菜ばかりを聞いてくれる。今も働きながら食事や家事をしてくれてる上に、おれの試験勉強で夜食の用意などまめまめしく世話を焼いてくれる。
「大学行かせられなかったからねぇ。」
少し影のある笑みを浮かべ受かってもないのにアレコレ世話を焼いて応援してくれる。俺は黙って出されたおにぎりと味噌汁を食べるしかなかった。中込さんの面差しがなんとなくかさなった。
「頑張って家建てるよ。」
「…なによ急に。そーゆーのは試験に合格してお嫁さんに言ってあげなさい。」
そういえば、俺は母さんの好きなおかずを知らないことを思い出しながら、吉川君に思う事はあってもバカにできないドロドロした気持ちを食器洗剤の泡のようにフワフワしていた過去の自分ごと水で洗い流してしまいたくなった。
ーーー
吉川くんは相変わらず生意気にデザイン論を語っている。先日のマンションのイメージパースの仕上がりは随分と綺麗だ。3Dは得意なようでみんな感心している。
定時に帰って自分の理想の建築のパースをひたすら作ってストレス発散してるそうだ。
みんな目標に向かって頑張ってんだな。実際に施工できる図面書いて欲しいけど。
「やー若いっていいねぇ。どんどんイイもの作ってこうなぁ!」
所長は吉川くんに檄を送りながら俺の背中をバシッと叩く。吉川くんは耳を真っ赤にして照れくさそう笑う。
「自分最高なのしか作る気ないっす。」
「俺はフツーのしか作れそうにないっす」
「いーのいーの!」
満面の笑みで飯野所長はカラカラと笑ってなんだかどーでも良くなっちまった。
コロコロ転がる三角スケールを握りしめ、大きくなったり小さくなる目盛りを紙に当てがい必要な寸法を記入する。
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