存在はン証明 序

私は怖いものを知っている。


 朝、教科書の詰まったバッグにお弁当を入れて家を出る。始学のチャイムまであと45分。家から教室までの移動時間は徒歩30分。少しよそ見するくらいの時間はある。

 家から学校までに通る幾つかの道の一つ。30分かかるのは最短の道、35分くらいかかるのがあそこを通る道。


 今日の天気は薄雲が掛かった晴れ。陽はまずまずで風が少し肌寒い。初めてあそこを見つけた時とは真逆の季節。


―――――――――――――――


 中学一年生の夏。夏休みに入った次の日、学校に忘れ物をしていることに気が付いた。それが面倒な宿題だったから面倒に思いながら家を出た。外は太陽の主張が鬱陶しくて日傘越しでも分かる存在感に死んでほしいと思った。早く家に帰ってクーラーの付いた部屋で今日分の宿題を終わらせて溜め込んだ小説でも読みたい、そう思いながら早足で学校に向かった。


 学校に着くと野球部の暑苦しい声が聞こえてきた。その声だけで汗をかきそうだったから急いで校内に駆け込む。校内にはあまり人が居なくて少しだけ涼しく思えた。

 職員室に行って教室の鍵を貸󠄀りた。先生達は夏休みだというのに職員室に箱詰めでクーラーが付いているのに熱そうだった。廊下に出るとお昼なのにやっぱり静かでクーラーの付いている職員室より心地良かった。


 教室の鍵を開けて中に入る。中は電気を付けなくても充分明るい。窓はカーテンで閉じられていて薄らと光が差し込んでいる。そして、人が全く居ない。

 木製の床を踏む感覚はいつもと違った。他の重りが無いだけで幾分も大きく、分厚く感じられた。固いシューズの底がさらに固い床と反発し合って、少し不安で、少し安心する。良い気分だった。

 問題集を取り、無人の教室に後ろ髪を引かれながらも鍵を閉め、職員室に鍵を返しに行った。職員室はやっぱり居心地が悪いと思った。


 学校を出ると太陽が少し雲に隠れていて、暑さもその分だけ軽くなっていた。

 蝉の声はまだ全盛期じゃない。まだ心地良く聞こえるそれを暇つぶしにしながら、少しだけいつもと違う帰り道を通る。もう少しだけ一人でいたいと思ったから。


 雲が掛かったとはいえまだ暑くて、自販機で飲み物でも買おうかと思っていた。

 そんな時、石塀に囲まれた狭い路を抜けた先、一棟のアパートが目に入った。壁は白く、素朴で、ボロくて。お金の足りない人が住む所なんだろうなと思った。敷地には雑草がけっこう生えていて駐輪場の自転車には埃が掛かっていた。

 ハッとした。いつの間にか私は自転車の埃が見えるくらいまで近くに来ていたらしい。近くから見るアパートはやっぱりボロくて、狭くなった視界に収まりきるくらい何の面白みもない。壁に這ったツルは小さなアパートをより矮小に見せ、所々ヒビの入った壁の塗装はそのオンボロさを際立たせている。

 ボーッと見ていたら陽に当てられてしまったらしく頭がクラッとした。自転車のサドルに手を着くと被っていた埃が私に移った。ちょっと申し訳ない気持ちになってパンパンと手を払った。


 アパートは二階建て、一階と二階を繋ぐ階段は鉄骨製で赤錆が生えている。下手な登り方をしたら落ちてしまいそうなほどボロボロだ。木製の扉も朽ちかけていて扉横の名札入れには何も入っていない。そんな部屋ばかりだった。 その中に一つだけ名札の入っている部屋があった。そこには私と同じ「葛西」の名字があって、少しだけ、どきっとした。

 それまで何も無かった所が、空いていた穴が、何かで埋まった気がした。


 ここはきっともう人が住んでない廃アパート。何年か前に住んでいた人達もきっともう居ない。


「私だけ」


 ぽろっと出た言葉で変な気分になって、私はそっぽを向いた。見せられない顔をしていると思ったから。


視線を感じた


 気がした。後ろを振り向いてもアパートがあるだけ。121号室の中には誰も居ないはず。

 でも、私は怖くなって、走ってその場から逃げた。


 太陽はいつの間にか勢いを取り戻していて喉をパサついた熱気が焼いた。吐く空気が熱くて、息をしたくないけど頭が熱くなってて下手な息をする。拳をぎゅうと握り締めて家に早く着けるよう走った。でも、野球部の人達みたいに元気じゃないから3分くらいで心臓が裂けた。

 膝を着いて、したくもない熱い息を溢し溢す。手のひらがじんわりと熱くなって、震える膝に手を置いて、なんとか立ち上がった。

 空気も熱いのに吸わずにはいられなくて、柄にもないことをしたと思った。でも後悔はなかった。

 これが良い汗をかくってやつだと、ハイになった頭で久しぶりに笑った。


―――――――――――――――


 今でも思い出す四年前のあの日。握ってくしゃくしゃになった問題集は今でも取ってある。あれから、時々あの廃アパートに立ち寄っては121号室を遠目から見たりしている。何回見ても変わらない、今にも潰れそうなアパート。あの日以来、あの時ほどアパートに近付いたことはない。遠くから見ているだけで十分だし、もし近付いて何かあったり……なんて考えると怖くて頭が固まってしまう。

 夏のあの日みたいに、頭を揺らす陽光も無ければ控えめに鳴く蝉の声も無い。冷えた頭でこの場を訪れて、傍観者で過ぎる数分だけの寄り道に価値はあるのか、 ……分からない。ここに来れば何かが足りる気がする。私が他人に意気揚々と話せることはきっとこの事だけだから。言いたくはないけど。


 2、3分だけのアパート観察が終わると大人しく登校を再開する。今日はきっとこれから冷え込む。マフラーを少しだけ締めて4歩目までだけ急いで駆けた。



 学校終わり、夕暮れ。図書館で本を読んでいたら少し帰るのが遅れてしまった。今日は冷えると分かっていたのに、失敗した。まだ夕陽が出ているうちに帰ればマシなはず、そう思って学校を出たけど今年の春はまだ肌寒い。夕陽なんてすぐに落ちてしまうもの。時間にすれば30分あるかも分からない。だからなるべく早く帰ろうとしていたはず。なのに、私はあの廃アパートを訪れていた。学校でのことが引っ掛かっていたから。


 教室の男子達がいつも通り話をしていた。休み時間、授業と授業の合間、雑談が飛び交う時間。大した意味も含まない言葉の応酬の内、男子の一人がさらっと言った。「学校に幽霊がいるかも」なんて。それに対する返答と私の内心が重なった。


「「そんなの、いるわけないじゃん」」


 思った。幽霊なんていないって。でも、後になって気付いてしまった。それは私の信じるこの廃アパートの存在にだって適用されてしまうんじゃないかって。

 そう思ってから今日の私はいつも以上に一人閉じ籠もっていた。どれだけ本を読んでも忘れることができなくて、没頭するがあまり帰るのが遅くなって、ついここに来てしまった。


 そもそも私はこれが何なのか定義すらしていなかった。幽霊なのか、妖怪なのか、怪異なのか。そんなことも考えず、ただ怖いものとだけ思ってきた。だって一度もその正体を見たことがなかったから。偶然見つけたアパートに偶然自分と同じ名札があって偶然視線を感じたから。それで何か、足りた気がしたから?


 廃アパートに夕陽が差している。薄汚れた白をぼんやりと映えさせる日差し。私はそれを端から見つめている。夕日が最後の瞬きを終えて、熱を失っていく様子も。私は端で見ていることしかできない。


「私は――」


 121号室を最後の夕陽が去る。

陽の落ちた閑静な住宅街の狭間、少女が一人立っていた。

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