サードマン(仮)

あべやすす

一話

サードマン現象、というものがあるという。

人が生命の危機のような極限状態に陥った時、見えない第三者に導かれて生還を果たすというものである。登山家や探検家からの体験報告が多いが、事故や災害に巻き込まれた際に体験したという声もある。なんにせよ、存在しない者に救われたというところは共通しているのだ。

だが、極限状態にある人間において。

そこから生還することが、必ずしも救いになるとは限らない。

また、その者が誰かに導かれていたかもしれないということも、また否定できない事なのだ。




チャイムの音が鳴った。

暗闇の中に線が入り、それがゆっくりと上下に広がっていくのを自分の視界だと認識するのに少し時間を要した。

暑い。

駄々をこねる赤子、もっと相応しい例えを出すならひっくり返された虫のように手足をばたつかせ、中身が半端によった布団を乱雑に蹴って払う。と同時に枕もとを弄って携帯を探した。

青白いのは携帯の画面の光だけのせいではない、不健康そうな顔が暗い部屋の中にぼんやりと映し出された。画面に表示された日時を見て顔をしかめる。昔は一週間に一度のこの日が待ち遠しかった。だが今はそれよりも次の日から始まる代り映えしないサイクルのほうを憂鬱に思うようになってしまった。分厚いカーテンに遮られて気付かなかったが、太陽はとうに頭上を通り過ぎたようだ。それに伴って気分もどんどん沈んでゆく。違うのは、太陽のように朝になれば再び上がることはないということ。

携帯を軽く放り投げる。思ったより遠くに飛んでしまい、ああ、次はもっと手を伸ばさなければ、もしくは起き上がらなければいけないかもしれない、面倒だ、しかし、それも、もうどうでもいい……

チャイムの音が鳴った。

一気に現実に引き戻された。そうだった。目が覚めた要因を思い出させられた。

泥のように重く感じる全身に指令を出し、何とか上体を起こす。頭痛がする、そのせいで思考もまとまらない。

そもそも誰だ、相手は。わざわざ家に来る知人など心当たりはない。宅配?頼んだ覚えはない。家族?可能性はあるかもしれないが、それなら事前に連絡をよこすはず。サプライズなどいったくだらないことをするような間柄でもないし、そんななんの意味もないことをするほど愚かではない、と思いたい。では友人?もっとありえない。そんなに深い交友関係の友人はいないし、この程度の関係で家に来るような思慮の浅い友人を持った覚えもない。第一、わざわざこの家に来る理由がない。もっと別の何か……。警察?付近で事件が起きて、それの聞き込みに?自分で考えておいてなんだが、あまりのくだらなさにふっと声が出た。そんな妄想に至ってしまうほど、自分の脳は錆びついてしまっていたのか。仮にそうだとして、自分から得られる情報など何もない。せいぜい惨めな人間もどきが一人いることを世に知られてしまうだけだ。

チャイムの音が鳴った。

いい加減、不快に感じてきた。あえてそのように作られているのは理解できるが、かといっていつまでもこの耳障りな音を聞いてはいられない。わかったよ、俺の負けだ。こんなにもしつこく呼び出してくるのは、どうしても伝えなければいけないことがある者と、どうしても伝えたいことがある者だけだろう。

ゆっくりと起き上がり、もたつきながら壁をつたって玄関に向かう。いまだ覚醒しきっていない脳は、いくつかの情報をすっかりと思考から外してしまっていた。

一つ。寝床に入ったままの恰好であるということ。しかしこれはそれほど重要なことではない。来訪者にとって、家主が起き抜けの姿で対応してくることなど特筆するほど珍しくはない。

一つ。足の踏み場もないほど家が汚れているということ。これに関しても大したことではない。当人が気にさえしなければ、そこら中に散らばった残飯も蠢く黒い影もこれといった問題にはならない。もっとも、それを見た者の多くは顔を引きつらせてその場から逃げようとするだろう。むしろ好都合だ。

一つ。インターホンのモニターを確認しなかったこと。これがまずかった。

チェーンはかけたままドアを開ける。その10センチの隙間に現れたのは帽子をかぶった老婆。手には小さなパンフレット。しまった、と思った時にはもう遅かった。

「あらあ、こんにちは。いまよろしいかしら?」

なにがだ、白々しい態度しやがって。張り付いたような笑顔を浮かべているが、二つの目玉は口よりも雄弁に獲物を見つけたと語っている。それにちゃっかりドアの隙間に手をねじ込んでいる。周到だ。今これを思い切り閉じたら、どれほど愉快なことになるだろうか?

「すみません、そういうのには興味ないので」

閉めようとした扉は、何かにつっかえて止まった。手ではない。視線を下げると、わざわざこのために履いてきたのかと思うほど丈夫そうな靴を間に挟み込んでいた。随分と慣れた手つき、いや足つきというべきか。

「まあまあ、そういわずに」

強引にドアを開かれる。ついでに部屋の惨状も見られたようだ。別に減るものではないが、老婆によっては好都合なのだろう。こういうものほど引き込みやすい。そんなことを考えているんだろうなと、眼前の反吐が出るほど偽善ぶった顔を見ながら思う。

「あなた、悩みがあるんじゃない?なんでもいいわよ、言ってごらんなさい」

「いや、だから、ないですって」

頭痛がひどくなってくる。安眠、とまではいかないが数少ない休息の時間を邪魔された上に、なぜこんな仕打ちを受けなくてはいけないのだ。次第にふつふつと怒りが湧いてきた。

「ないわけないでしょう?ほら、こんなにゴミが……」

うるさいな、なんでお前にそんなことを言われなきゃいけないんだよ。

「でもね、みんなそうなのよ。わかるわ。私たちなら、それをわかってあげられる」

何も知らないくせに。お前に何がわかるんだよ。

「こうなったのはね、元をたどればあなたのせいなのよ」

「うるせえな!」

自分が何をしたのかわからなかった。はっと我に返った時、目に映ったのは老婆の怯えた顔。そしてじんじんと痛む左手。どうやら怒りにまかせてドアを殴ってしまったようだ。道行く人たちの視線が自分に集まっているのもそのせいか。

「じゃ、じゃあ。月二回、集会もやってるから来てみてね」

老婆はしばし呆然としていたが、やがてドアの隙間からパンフレットを投げ入れるとそそくさと立ち去って行った。さも自らが何かに巻き込まれたかのような装いだった。ふざけるな、と思いたくもなったが、もはや怒りも湧かない。ただただ穴の開いた風船のように、感情は溜まることなく素通りしていった。

ドアを閉め、背中でもたれかかる。そのままずるずると下がり、腰が抜けたように玄関にへたり込んだ。

いつからこんなことになってしまったのか……。

何千、何万繰り返したかわからないこの自問自答。すぐに思考を中断しようとしたが、思い出したくもない記憶の奔流にそれすらも押し流されてしまう。ああ、ほらまた、忌々しい出来事が心を蝕む音が聞こえる。耐えられなくなった脳がわずかな快楽物質を分泌するまでの、精神的自傷行為にすら今はただ縋りつくしかなかった。




これから、夢のような生活が始まると思っていた。一年前までは。

田舎で暮らすこと18年。家族は優しかった。友達もいた。特段困っているわけではなかった。

ただ、不満はあった。物足りなさ、のほうが近いかもしれない。そして、ある時家族で都会に出かけた時に知ってしまった。圧倒的情報量。暴力的な程の人の量。そして、深夜になろうと騒音が止むことのない場所があること。自分の中の欠けたピース、その片鱗を確かに見た気がした。それから常に自分の中に、これでいいのかと現状を憂う焦りが生まれた。結局、それが最後の後押しになったのだろう。相当に悩んだが、県外の大学へと進学することにした。

初めての場所、初めての一人暮らし。両親は心配したが、自分の中に不安はなかった。もしかするとあったのかもしれないが、それを上回る期待と好奇心によって塗りつぶされていた。

実際、うまくやれていたのだと思う。新しいことの連続、小さな挫折は何度も経験した。今まで自分が培ってきた大半の経験は通じなかったが、それすらも学びになった。むしろそれに楽しさすら感じ、今まで自分ですら知らなかった新たな一面を発見したようで嬉しかった。

そしてそれらは次第に終わりを迎え始めた。

唐突に、ではない。明確な分岐点があるわけではない。まあ、現実はこんなもんだと言われればその通りなのだが。しいて言えば、僅かな歪みが積もりに積もった結果なのだろうか。

主観的客観的両方から見て、自分の顔は比較的整っているほうだった。とはいえ、テレビやSNSで人気の俳優やインフルエンサーには到底かなわない。あくまで、一般人の中では少し秀でているという程度だ。しかしそれは紛れもない武器だった。これのおかげで、大抵の人と接する時に第一印象を良く思われる。初対面の人と仲良くできるという自分の長所を大学に入学した直後に存分に発揮し、着実に知り合いの輪を広げていった。

やがて、現実が重くのしかかってくるようになった。まず、もともと怠惰な性格であったが、大学入学に浮かれていたことで傲慢さも得てしまったこと。これはかなりの過ちと言える。そして、その座に浮かれて自ら行動を起こさなかったこと。端的に言えば、勘違いしてしまったのだ。自分には自分以上の価値があると。

サークルに入るわけでもない。自ら話しかけに行くわけでもない。最初はそれでも、なんとなく近くにいるだけでグループの一員として扱ってくれた。そんな関係がいくつもあった。あの時、自分から動いていれば。属するグループを絞っていれば。思い返せば情けなさで笑えるほど自らの行動に問題点はあったが、その時は気づけなかった。もしかすると内心では気づいていたのかもしれないが、自覚することを自らのプライドが許さなかったのだろう。あまりにも矮小でくだらない理由だ。

白状しよう。講義室の隅に集まってゲームやアニメ、サブカルチャーで盛り上がっている連中を下に見ていた。そういった奴らはキラキラした大学生活を送っている自分のことがさぞ羨ましいだろうと思いあがっていた。最初から、彼らの眼中に自分など無かったのだ。本当に大事な輝きを、彼らはとうに見つけていた。

悟ってしまったのだ。ここは、何かを積み上げてきたものが楽しめる場所なのだと。与えられた座に胡坐をかいて、自ら動くことを放棄した自分のような人間が居ていい場所ではないのだと。受け入れるのは本当に苦しかったが、少しでもそれを理解しないと先に進むことはできないのだ。

それから、もう遅いとはわかっていたが挨拶を自分からするようにしてみた。相手もこっちを知らないわけではない。笑顔で挨拶を返してくれる。だが、その後こちらに一瞥もくれずに横の相手と今夜の飲み会の相談に集中しているのを見た時、もうすでに取り返しのつかないところまで来てしまっていたことを改めて自覚した。

入学して僅か数か月。この生活がこれからもまだまだ続くということを認識してしまったとき、自分の中の期待や希望が激しい痛みとともに別の何かに急速に置き換わっていくのを確かに感じてしまった。

そうして、今の現実がある。そう、現実なのだ。どうあがいても置き換わらぬ、決定してしまった事象なのだ。

19歳。あまりにも早すぎるが、惜しまれぬ一生だった。

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サードマン(仮) あべやすす @abyss_elze

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