公爵令嬢、厩番に目を付ける
リース・ハーレイはニアクリスタルと共にこのセンぺドミニカ公爵令嬢のリザルド牧場へやってきた。七年前、ニアクリスタルが卵であった頃にゲムリザルディア子爵の運営する牧場へ新人として入ってきて以来ずっとリースはニアクリスタルの世話を見て来た。
勿論、最初の二、三年までは下働き、それこそリザルドの世話に必要な道具を持ってくるくらいしかさせて貰えず、実際にニアクリスタルに触れたのは彼女が四歳になった時だった。
けれどリースのリザルド飼育員としての人生はニアクリスタルと共にあった。
だからニアクリスタルがいきなり新造された牧場へ引き取られると知って、リースは一も二もなく自分の異動を申し出た。
元の牧場としてもニアクリスタルを全く新しい人員にだけ任せるのは不安が大きく、しかもリースは信頼こそあれ牧場での立場もそこまで高くはなく、抜ける痛手は許容出来る範囲でもあった。
こうしてニアクリスタルの世話を指揮する権利を勝ち取ったリースは、今も男らしい怒号でリザルドのリの字も知らない公爵令嬢の手配した牧場従業員に支持を飛ばしている。
「ったく、リザルドを馬や牛と同じように思いやがって、素人がよ」
リースは口汚く使えない同僚共に悪態を吐き、ぼさぼさの髪を掻き毟る。早く周りに仕事を覚えさせないと禿げそうだな、と一頻り苛立った後に自重する。
掌の抜けた髪の毛が、収穫の後も放置された藁のようにくすんだ色をしているのを見詰めて、こんな髪がなくなったってどうでもいいか、それよりもニアクリスタルの世話の方が大事だと気を取り直してその愛娘に目を向けた。
自分で地面を砕いて巣にしたニアクリスタルは丸くなって落ち着いている。賢いリザルドであるから住処が移動したのも受け入れてくれているようだ。
新人共がおっかなびっくり餌を用意している時も、人間が離れるまではじっとして作業が終わるのを待ち、人間が立ち去ってからのんびりと食事をしている。
「さて、と。今日はお嬢様から研磨しろって指示があったな」
ニアクリスタルがあの様子ならこれから準備してすぐ初めてもいいだろうとリースは算段を付ける。
研磨というのはそれこそ牛や馬とは違うリザルド特有の手入れだ。リザルドが体の表面に析出させた宝石や鉱石を研磨して輝きを出させる。
それは見栄えを良くするだけでなく、宝鉱石を磨かれた方がリザルドは力を増していくのだ。宝石や鉱石が元々魔力を秘めており、人類は研磨とカットでその力を引き出すのだから、リザルドの宝鉱石も美しい程に神秘の力を増すのも納得だ。
ましてやニアクリスタルの水晶は柔らかく丸みを帯びて透き通っていて、そのまま切り出しても最上級の宝石として扱われるような代物だ。
リースはガサツな性格を自覚しているが、ニアクリスタルの研磨に限っては別人のように丁寧を心掛けている。
「道具は何が必要なのかしら?」
「そうだな。石を析出したばっかりのリザルドなら貴石部の周囲に不純物の岩石部が出て来るからハンドリューターや
「あら、じゃあ手間としてはそんなにないのね?」
「ふん、仕上げ磨きはリザルドの美しさを決めるんだ。手ぇ抜いてニアクリスタルの水晶をくすませたら、素人だからって容赦しねぇからな」
リザルドの世話なんてしたことないから呑気なことを言う相手に多少の苛立ちを持ってリースは釘を刺した。リザルドの世話の苦労が七年掛けて身に染み付いた自分と、リザルドの世話をしたことがない連中との間で伝わり切らないものがあるから、ここ最近のリースは何時にも増してストレスが溜まっていたのもある。
ただリースはふと振り向いた先に豪奢な金髪と煌びやかな赤いドレスが視界に入って心臓が止まりかけた。
いつの間にか牧場にやって来てリースの独り言に言葉を返していたサンクトゥルシアは、急に無言になったリースに向けて小首を傾げる。
「どうしたのかしら。準備をするにも、道具が何処にあるのか指示をくれないと困るわ」
貴族に支持なんか出せるかー!、とリースは心の中で絶叫する。しかしそんな不敬を働けば首が飛ばされると良く理解しているので表情にはおくびも出さずに心臓をバクバクと鳴らしていた。
ついさっきまで散々乱暴な口を叩いてしまってもう手遅れかもしれないが、相手を公爵令嬢だと認識した後で下手なことを言ったらこの場にいられなくなる。
百歩譲って自分の将来が消し飛ぶのはまだいいとして、ここで自分がこの牧場から外されてニアクリスタルを素人集団に任せきりになどなったら死んでも死にきれない。
どうすればこの窮地を乗り切れるかという冴えた考えはちっともリースの頭からは出てきてくれなくて、ただただひたすら冷や汗が背中を濡らしていく。
リースの視界にはサンクトゥルシアの背後に涼しい顔をした筆頭執事の姿もあるが、彼に助けを求めても明らかに無駄そうだった。
完全に思考停止していたリースだったが、その耳にずさり、と重たい体が地面に擦れる音が届く。
リースはハッとしてサンクトゥルシアから動かせなかった視線をニアクリスタルに向ける。
「ニアクリスタル! ダメだ! ウェイト!」
ニアクリスタルの背後にバカが一人、不用意に近付いていた。手にスコップとバケツを持っているので巣の糞を取り除こうとしたのだろう。
巣に侵入する外敵と同じ動きをしたそのバカに向けて、ニアクリスタルが太い尾をすぐ振るえるように身動ぎしたのが先程の音だ。
リースの咄嗟の号令を聞き入れたニアクリスタルは、リースの瞳を見詰めながら地面から数ミリメートル持ち上げていた尾を丁寧に降ろし、四つ足の強張りを解いた。
ニアクリスタルはリースから次の指示があるのかどうかと注視している。ニアクリスタルが賢いのに加え、彼女がリースを深く信頼しているからこその振る舞いだ。
リースはそのままだとニアクリスタルに手をゆっくりと降ろすハンドサインで伝えつつ、考えなしのバカに向けて努めて平坦に抑えた声を向ける。
「お前、ゆっくり、ゆっくりだぞ。ゆっくり後ろに下がってニアクリスタルから離れろ」
この数日でリースの言うことを聞かなかった者がどんな目に遭ったのか、そしてリースの言うことを聞いた者が安全を確保していたのを何度も見ていたその従業員は言われるままにそろそろと後退りしてニアクリスタルの砕いた岩から作り立てで真っ平な地面に足を降ろす。
その瞬間、リースはそのバカに駆け寄って胸倉を掴んだ。
自分よりも背丈のある相手を、リースは腕の力だけで持ち上げてその足を地面から離れさせた。
「馬鹿野郎! 死にてぇのか! リザルドの後ろに声もかけずに近付くんじゃねぇ!」
「すっ、すみません!」
二十歳前のリースに罵倒されて四十近いその従業員は涙目になりながら謝罪する。
「済みませんじゃねぇ! きっちり何度も復唱させたことは守れ! ニアクリスタルに事故なんか起こさせんな! わかってんのか!」
更に怒号を重ねるリースに不手際を起こした従業員はもう声を失って怒られるがままになる。
相手が言い返さず、反省の陰を全身に落としているのを見てやっとリースは彼を地面に降ろした。
「いいか、糞の除去はリザルドがいない時にやれ。ニアクリスタルに動いてほしいならオレに言え」
「は、はい……」
リースは伝えるべきことを伝えたところで疲れたように溜め息と一緒に首を振った。
そして間髪入れずにカルペディエムがやらかした従業員の肩を叩く。
「君はこちらに来るように」
彼は言い逃れも出来ずに黙ってカルペディエムに連れ去られていった。
その後どうなるのかを予想してリースはやっちまったと舌打ちする。牧場主のお嬢様が見ている前で怒鳴ったせいで即処分になってしまった。叱責されて行動が直されればそれで良かったのに。
「今の人の処分だけど」
後悔を顔に滲ませるリースに、騒動で出来た距離を詰めてサンクトゥルシアが声を掛ける。
人手が減る報告をしてくれるなんてお優しいことで、とリースは斜に構えた嫌味を喉の奥で飲み込んだ。
「三日程の謹慎なら妥当かしら?」
「は?」
「いえ、は、ではなく、今教えてくれないとそのまま適応されてしまうのだけれど」
リースはサンクトゥルシアが何を聞いてきているのか全く理解が出来なくて頭が真っ白になってしまった。
貴族が、平民に意見を求めるだなんて、前の牧場でも有り得なかった。それなのに公爵令嬢が金に物を言わせて道楽で作ったこの牧場で、しかもその公爵令嬢本人が自分に自らの声を聞かせるだなんてリースは夢にも思ってなかった。
一応、念のため、視線を左右に振って周囲を確認するが、近侍が事務所へと行ってしまった現状で声の届く範囲にいるのはリースだけだ。
「平民の意見を聞いてるのか?」
リースは自分でも間の抜けたことを訊いていると思いながらもそれしか言葉が出なかった。
そんなリースに向けて、サンクトゥルシアは呆れを全面に出して肩から息を零す。
「リース・ハーレイ。ニアクリスタルの世話の監督を任せたと私は記憶してるわ。彼の処遇が適切かどうか、これ以上に正しく判断出来る者が他にいて?」
まさか自分の名前をサンクトゥルシアが覚えているなんて思ってもみなかったリースは驚きで目を見開いた。不遜ながら、なんだ、こいつ、と不躾に彼女の姿を頭の天辺からヒールの下に伸びる影までまじまじと見てしまう。
「質問に答えられない無能だと、私を失望させるのかしら?」
しまった、とリースは自分を叱責する。サンクトゥルシアに見捨てられたらニアクリスタルの側にいられなくなる。
リースはぴしりと背筋を伸ばして両手を体の脇にぴったりと付けて直立不動の体勢を取る。
「いえ! ……彼はリザルドの知識は乏しいながらも自分の仕事を自ら考えて行動する、見込みのある厩務員です。まだまだ共に働きたいと自分も思っています。……一度の失敗で除籍しないでいただき、お嬢様の懐の深さに感謝します」
リースの前の職場では、たまたま貴族の目に失敗が止まっただけで二度と会えなくなった同僚が多くいた。それも誰もが気を抜いたり疲れていたりしたらやってしまうような失敗でも、だ。
でもこの公爵令嬢はそんなリースの見て来た貴族とは違うのかもしれない、と言葉を選んで想いを率直に伝える。
「人の替えは利くけれど、替えてばかりではあの子やこれから生まれてくる子供達の世話が滞るでしょう? リースにもしっかりと働いて貰うわ。必ず此処で、国宝を生み出すの。出来る?」
「やります」
そんな素晴らしい仕事を提案されたら、リースは食い気味に賛同するしかない。
サンクトゥルシアは言葉尻に食い付かれた格好になったのにも不機嫌にはならず、むしろ機嫌良さそうに目を細めて頷いてくれた。
ただ、貴族を目の前にするのになれていないリースからすると、そのサンクトゥルシアの目付きは鋭過ぎて恐ろしくて仕方なかったのだけれども。
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