12. 傷痕

「……っ」

「そんな身構えないでよ。せっかく温泉で疲れを癒しているのに、人を食べようだなんて野暮はしないわ」


 そう言いながら、彼女はお湯に浸した長い髪の毛をすくい上げた。


 浴場のお湯に髪の毛を浸すのはマナー違反だって聞いたことがあるけど、モンスター相手に人間社会のルールを指摘するのもナンセンス。

 気にしないでおこう。


「ここでは争いごとはナシってことでいいですね?」

「当然よ。宿の主人にも迷惑だわ」

「ラミアが話のわかるモンスターで良かったです」

「それはこっちのセリフだわ。人間はそそっかしくていけないもの」


 相手に敵意がないことを感じられたので、あたしは強張った体の力を抜いていった。


 冒険者ギルドで話には聞いていたけど、実物のラミアを見たのは初めて。

 想像していた以上に、人間の女の人と変わらない見た目をしていて正直驚いた。

 顔の半分を髪の毛で覆っているけど、美人なのがよくわかる。

 しかも――


「何あれ。恵まれ過ぎでしょ……!」


 ――すっごくおっぱいが大きい。

 二つのたわわが、まるで風船玉みたいにお湯にプカプカと浮かんでいる。

 人間の女の人でもあんなサイズはそうそう見ない。


「うふふふ。ずいぶんわらわのことが気になるみたいね?」

「べ、別に……っ」

「視線を感じるわ。妬みと嫉みのこもった視線をね」

「はぁっ⁉」

わらわは美しいでしょう? この美貌につられた人間の男どもを、今まで何人も食らってきたわ。奴らは本当に無節操な生き物よね。あなたもそう思わない?」

「思いません!」

「あら、そう。体が貧相だから、まだ男の節操のなさを知らないのね」

「貧相ぉ⁉ そそ、それってどういう意味⁉」

「見たままを言葉にしたまでのことだけど――」


 ラミアは急に胸元で腕を組んだ。

 わざとらしく二つのお山を強調するかのように!


「――あなた、ずいぶんと体が軽いんじゃなくて?」

「な、何ぃ~~~~っ」

「誤解しないでね。別にあなたを揶揄しているわけじゃないのよ。ただ、まぁ、もう少し栄養のあるものを食べることね。種族は違えど、同じ女としてのアドバイスよ」

「ぬぐぐ……っ」


 完全に下に見られている感じがする。

 あたしよりちょっと胸がでかいからって、勝ち誇ったような笑みを浮かべちゃって!

 そんな大きな胸じゃ素早く動くこともできないだろうに、何がいいんだかっ。


 ……ぐぅ。


 食事の話をされたので、思わずお腹が鳴ってしまった。

 こんな時までお腹の虫が鳴るなんて、あたしってばほんと恥ずかしい。


「待って。今のって、もしかしてお腹の音?」

「そ、それが何かっ⁉」

「ちょっと、やめてよね。そんな音を聞かされたら、目の前の肉を頬張りたくなっちゃうじゃない」


 ラミアの両目がキラリと煌めき、口の両端から長い牙が見えた。

 とっさに身構えたものの、彼女はすぐに表情を緩めてケラケラと笑い始めた。


「冗談よ、冗談! まったく可愛いお嬢ちゃんだこと」

「子ども扱いしないで! あたし、これでも十六なんだから‼」

「私からすれば十六年しか生きていない人間なんて子どもよ。とはいっても、肉に変な癖がつき始める年頃だから好みじゃないのだけど」


 このラミア、さっきから勝手なことばかり!

 ……いや、相手にするのはやめよう。

 せっかく温泉に浸かってすっきりしようっていうのに、余計なストレスを感じたくない。

 モンスターと言い争ったところで得るものなんてないし、ここは無視が一番。

 別に戦闘が目的じゃないし、パン様も文句は――


『……』


 ――あれ?

 そういえば、さっきからずっと黙ったままだな。


「パン様?」

『……』

「パン様ってば」

『……』

「なんで黙ってるの」

『黙れ』


 あれー?

 今なんであたし怒られたの⁉


「黙れって一体――」

『パンが喋るのは不自然であろうが。他者の前で余の存在に触れるなっ』


 自分が不自然な存在っていう自覚はあったんだ。

 というか、人間でもないモンスターの前で何も本物のパンぶらなくても……。


「さっきから何をブツブツ言っているの? そんなに気に障ることを言ったかしら」

「えぇと……む、胸の大きさで女の価値は決まらない、ってことを言いたくてっ」

「あら。小娘のくせに言うじゃない」


 なんとか誤魔化せたみたい――と思ったら、ラミアの視線があたしの顔じゃなくて頭の上を向いている。

 もしかして気付かれた?


「な、なんですか⁉ そんなにあたしのことジロジロ見て!」

「あなたじゃないわ。さっきから気になっていたのだけど、頭の上に乗っているそれ――」


 ラミアからパン様のことを指摘されてギクリとした。


「――一体どうしてパンなんて乗せているのかしら?」


 ……まぁ、そう思うよね。


 そもそも頭の上にパンを乗せていること自体がおかしい。

 嫌でも目立つし、お風呂に浸かっている今も乗せているんだから不自然さは極まっている。

 ラミアが気にするのも当然のこと。


「えぇと、こ、これは――」


 ……考えても妙案なんて思いつかない。


「――あたし、パンが大好きで! いつでもどこでもパンを持ち込むのが癖になってるんですぅ‼」


 苦しい言い訳を吐き出しながら、パン様を掴んで口元に引き寄せた。

 心なしか指に振動が伝わってくる気がする。

 勝手に掴み取ったこと、怒っているっぽい。


「……呆れた子ね。それほど食い意地がはっているくせに、そんな貧相な体であることが不思議でならないわ」

「余計なお世話ですからっ」


 さっきから貧相貧相って、人の気にしていることをズケズケと……っ!

 あたしだって好きで絶壁やってんじゃないんだからね‼


「あなた、パンが好きなの?」

「そりゃもう‼」

「ふぅん――」


 不意に、ラミアが唇を長い舌で舐めるのが見えた。


「――人間の町にこっそり忍び込んだ時に何度かパンを食べたことがあるけれど、形が悪くて大した味がしなかったわ。でも、あなたが持っているそれは形も整っていて非常に質が良さそうに見えるわね。一口くださらない?」

「えっ‼」

「いいでしょう。なんなら一口といわず、それ一つまるごとちょうだいな。お金なら相応の額を払ってあげるわよ」

「いやぁ、それはちょっと……」


 まさかラミアがこれほどパンに食いつくなんて。

 てっきり肉しか食べない種族と思っていたけど、実は雑食だったの?


「いいじゃない! 俄然興味が出てきたわ‼」


 うわっ!

 ラミアが身を起こしてこっちに近づいてきた。


 大きなおっぱいが左右にぶるんぶるんしていて圧巻――じゃなくて、腰から下が本当に蛇の尻尾になっていて、身近で見るとすっごい筋肉量に圧巻‼


「ちょっと⁉ 近づかないでくださいっ」

「何を気にすることがあって? 女同士、同じ湯に浸かった同胞じゃないの」

「いやあぁ~~~っ」


 ラミアの豊満な胸が近づいてきて、その圧に思わず手元が緩んでしまった。


 ……ぽちゃり。


 うっかりパン様を落としちゃった。


『うぎゃああぁぁぁっっ‼』


 お湯に触れた途端、パン様が悲鳴を上げながら湯面を跳ねて夜空に跳び上がった。

 それを見てあたしは言葉がないほど驚いたけど、それ以上に驚いたのは――


「なぁっ⁉ なんなのっ‼」


 ――ラミアだった。


 彼女は跳ね上がったパン様からとっさに身を躱し、背中から湯面に倒れ込んでしまう。

 凄まじい量のお湯が飛び散る中、あたしは頭からびしょ濡れになってしまった。


『グゥ! 貴様、余を水場に落とすとは何事かぁぁぁ~~~‼』


 直後、あたしの後頭部めがけて空からパン様が突っ込んできた。

 まるでハンマーに殴られたかのような衝撃を受けて、あたしもお湯の中に沈んだ。


「げほっ、げほっ! こ、殺す気ですか⁉」

『愚か者め、死ねぃっ‼』

「酷いっ」


 パン様は岩場に乗り上げていて、あたしを睨みつけていた。

 ……顔はないけど、そんな感じがする。


『湯が内側に染み込んできて非常に不快だ! 事もあろうに余を辱めるとは……それが忠実なしもべのすることか⁉』

「あたし、いつしもべになりましたっけ……」


 たんこぶができた頭を撫でながら起き上がった際、ちょうどラミアと目が合った。

 視界に映るその顔を見て、思わず身が固まってしまう。

 さっきまで髪の毛に隠されていた顔半分が露わになり、そこに酷い火傷痕が残っているのを見てしまったから。


「……っ‼ 見たな⁉」

「えっ。いや、見たけど、今のはフカコーリョクというもので――」

わらわの汚点を! 醜い傷痕を‼ よくも……っ‼」


 湿っていたはずのラミアの髪が不気味に動き始めた。

 湯に沈んでいた髪は浮かび上がり、一本一本の髪の毛がまるで針のように鋭利に尖っていく。


「ちょ、待っ――」


 ラミアの髪の毛が一斉にあたしへと向かってきた。

 とっさにお湯から転がり出て助かったものの、髪の毛針に突かれた床は粉々に砕け散ってしまう。


わらわの恥部を見た者は生かしてはおけないわ! 死んでちょうだい‼」


 お湯から這い上がってくるラミアと対峙するさなか、あたしは傍に落ちているパン様に目配せした。

 すると、彼はそっぽを向くように先っぽを背けてしまう。


「何もこんな時に拗ねなくても‼」


 せっかくの温泉なのに、もうめちゃくちゃだよ‼

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