モラトリウムを君と。

八木沼アイ

モラトリウムを君と。

 そこには海があった。地平線まで伸びる海がどこまでも続き、今までの苦悩を消し飛ばしてしまうほどの景色だ。爽快感に近い。視界には透き通った青色の海と淡い空の青色が、地平線を境界にお互い干渉せず、それらが自由にくつろいでいた。ざあ、ざあ、と波が音を周期的に鳴らし、海から来る緩いそよ風にあたりながら、俺は砂浜に腰を下ろした。ただ何も考えず海を眺めていた。


 「ねぇ、泳ごうよ」

 背後から君の声がした。「俺はいいよ、泳いできなよ」と答えた。

 「釣れないなぁ、じゃあほんとに私だけで泳いでくれるからね」

 彼女は気分を害して怒るのではなく、後から俺がついてくるのを確信して煽るように言った。彼女がはにかみながら海の方へ振り返ったのがその証拠だ。俺は彼女のあざとさに好意を寄せた。いや、もっと前から気づいていた。

 バシャバシャと水しぶきを上げ、笑顔ではしゃぐ彼女の水着姿を見ていたら俺もそこに混ざりたくなってきた。

「おーい!俺も混ぜてくれ!」

「え〜?聞こえな〜〜い」

 聞こえているのに聞こえていないと言う彼女は意地悪で小悪魔だ。

 しかし、そこが大好きだ。

 だから、満面の笑みで復唱する。

「だ〜か〜ら、お〜れ〜も、ま」


ジリリリリリリリ・・・

バンッッ

 

 左手で目覚まし時計を強めに叩き、その衝撃で目覚まし時計がベッドの横に落ちる。夢か、と独り言をこぼした。ここまで酷い目覚めは久しぶりだ、もしかしたら史上最高の不快さかもしれない。

 それも今日で終わりか、ため息のように呟き、落ちた目覚まし時計を踏まないようにベッドから出る。

 最初に目にしたのは破られたカレンダー。部屋の壁に仕方なくかかっているカレンダーは過ぎていった日に赤ペンでバツ印が記されており、今日の日にちにはまだつけられていなかった。だから、というわけでもないが机の上から赤ペンを取り、新しくバツ印を更新する。

 どうやら明日の分はないらしい。まるで次の日から存在しないようにそこから先の日はカレンダーが破られている。来月分もない。その次の月も、次の次の月も。意図的に破られている。

俺は疑問を持たず、洗面所へと向かう。回答は俺が持っているから。


 洗面所には歯ブラシが2本。1本は俺のもので、もう一方は無論彼女のだ。一昨日他の荷物と一緒に持っていくのを忘れていってしまったらしい。


 「今までありがとう、さようなら」


 左腕のアザを右手で隠しながら彼女は俺の足元を見つめながらそう言って、荷物を入れたバッグを持ち、ドアを開けて振り返らずに出ていってしまった。

 その時、喪失感と呆然とした気持ちで、俺は閉まっていくドアを見つめ、立ち尽くすことしかできなかった。


 顔を水で流し、鏡に映る自分と目があった。顔を洗ってもなおスーパーに並ぶ魚のような表情をしている自分に吐き気がした。

 そのままリビングに足を運ぶと、食卓には作り置きのラップされている白い米と味噌汁にお惣菜が寂しく置いてあった。

 彼女が作ってくれた最後のご飯だ。レンジで温めている間、それを眺めながら回想にふける。


 「うわ!また10秒チャージで昼ごはん終わらせようとしてる!」

 ゼリー飲料の何が悪い。彼女は良い意味でも悪い意味でもお節介だ。

 「別にいいだろ、実際これで足りてるし」

 「だめだよ体に悪いもん!待ってて、私がなにか作ってあげる」

 彼女は台所借りるね、と言った後、すぐに料理を始めた。俺は口に咥えていたゼリー飲料を両手で力いっぱい絞って喉に通し、ゴミ箱に捨てた。彼女の料理をするたち振る舞いは、そこら辺の女優を一蹴するほどの無駄のない動きだ。俺のカメラワークは彼女をしっかり捕らえて離さない。一つの映画を見ているようだった。

 この時間が永遠に続けばいいのに、と台本に用意されたようなセリフがよぎったが、まさしくその通りだった。そして...


チンッッッ


 レンジの音で回想から現実へと引き戻される。リビングにその音が響き渡り、灰色がかったこの部屋を見渡すと、より一層孤独感が強まった。

レンジを開け、温まった朝ごはんを取り、彼女が一昨日洗ってくれたであろう箸があったので、それらを手に持って食卓へ向かう。

向かい合うように俺と彼女が座っていた椅子の片方には、もう誰も座らない。寒気がする。存外、口に運んでも味はしなかった。そうして、食べ始めてから食器を洗うまでは時間はかからなかった。

 食べ終わると自室に向かい、ベッドから落ちた目覚まし時計を横目に机の前の椅子に座る。関係ないが、俺は今、表情筋が働いていないこと、さっきから耳が聞こえづらくなっていくことに気づいた。頬に涙が溢れ、情緒が不安定になっていることを自覚する。俺は机に白紙のノートを広げた。


 ペンを持ち、まるでマークシートにズレがないか確認するように俺は彼女との過去を書き始める。


 彼女とは生徒会で出会った。彼女を初めて見たときは白樺の妖精かと思わせるほど綺麗な人で、まさに「白」を体現させたような人だった。

 ただ残念なことに彼氏がいた。俺はそれを聞いてがっかりし、諦めるほどヘタレな男ではない。いるのなら奪ってしまえばいい話だ。

 あれは暑い倉庫で起きたことだ。学園祭の準備している最中、倉庫に誘い込み、俺は彼女を彼氏よりも強かなチンポで服従させた。DVまがいの愛情表現が彼女の性癖のパズルピースにカチッとハマったらしい。ビンゴカードは最低でも5回目でビンゴになる。これは効率が悪い。つまり一回で5回開ければいい。だから俺は彼女に5回中出しした。

 倉庫の中で肌が激しくふれあい、響き渡る轟音は聞き心地が良かった。力任せに彼女を揺らす。窓から照らされた陽の光が彼女の体をなぞり、彼女を構成する肉と浮かび上がる骨が氷晶のように映し出された。まさしく芸術品。目に焼きつけなければいけない、いわば使命感すら感じた。

 この倉庫はルーヴル美術館を縮小化した、さして大差ない個展となった。一点を展示し、自然のライトが「それ」を照らす。家から出たことがないニートの肌とは逸した彼女の白い肌が、彼女を彼女たりえるものにしている。彼女は足を痙攣させ、もう立つことができず倒れ込んだ。最後に俺は彼女が倒れ込んで突き出した尻にピタッとチンポを乗せ、じっくりとぶっかけた。それはバニラアイスに氷を乗せる罪悪感と子供特有の好奇心に満ち溢れた行動に近しいものだった。

 これにより、彼女は俺のものであり同時に彼女に「なった」のだ。


 ペンを動かすと過去の記憶が次々と溢れ出していく。遊園地で遊びクタクタになって君の家に転がり込んだ日。公園のベンチで二人の未来について話し合った日。水族館に行った帰り道、妊娠を告げられた日。子供を堕ろせと言ったら「嫌」と反論した日。

 あの日は大変だったな。俺が癇癪を起こして、君のお腹を二発殴打した。二発目の殴った感触が今でも忘れられない。子供に当たったんだ。実際、お腹の中で子供が死んで、羊水と血が混ざった何かがダムを決壊するような勢いで出た。だらりと子供だったものが見え、複数個の未成熟の体片がベチャベチャと音を立てながら床に落ちた。肉片がホカホカと湯気を上げている。近づいたら暖かさを感じられるのではないかと「それ」を見て思えるほどに。ああ、綺麗なフローリングが台無しじゃないか。

 そんな日もあった。まぁ、俺に非はない。やるべきことをやっただけだ。


 しかし、その日から積み上げた世間体は地に落ちた。俺を異常者扱いする奴らが現れ、生活に支障をきたす嫌がらせを始めた。一番効いたのが、親が経営している店に団体で予約し、当日にドタキャンする嫌がらせだ。結果的に赤字が続き店を閉じることになった。家族関係は日に日に悪化し、それぞれが別々に生きることになった。俺はアパートを借りて生活を続けた。

 文字通り最悪を積み重ねる日が続いた、あるメンタルが壊れかけた日。その日に彼女から別れを告げられた。それが一昨日のことだ。亀裂が入ったガラスに大谷翔平が全力投球で野球ボールを当てた結果と同様、みるも無惨に砕け散った。

 俺のメンタルを例えるなら、まだ頑張れるよ、と言ってくる人間の家族を造作もなく消せるといったところまできていた。

 俺は気づいたんだ。彼女の存在は俺にとって大きかったこと、俺を構成する一部分になっていたことを痛切に感じた。


 ふと顔を上げ、窓の外を見てみると夕方になっていた。少し遅くなったなと思う。

 椅子を部屋の中央へ運び、ベッドの下からロープを手に取る。死による恐れは如実に体に現れた。手は震え、足も言うことを聞かなくなった。もう少しだ、と自分を鼓舞した後、椅子の上に立つ。手足の震えは止まず苦労したがなんとか定位置にロープを結び、形を整える。

 ちょうどロープの輪のところに夕日が入り込み、まるで卵焼きみたいだな、という印象が残った。輪に首を通そうとすると首の贅肉が邪魔をする。

 こんなところで自分の体を呪うことになるとは思わなかった。無理に首を通すと、残るは一つの手順。後悔なんてしていない。夕日に充てられ部屋が赤みがかり、堕した子供を思い出す。暖かい、でも少し寂しい。目を閉じ、輪っかが引っ掛かりしずらい深呼吸をすると、覚悟を決めたかのように乗っている椅子を蹴り飛ばす。最初、重力に引っ張られるのを感じ、次に苦しみや辛さが追ってきた。


 こんなときに朝の夢を思い出す。強烈だったからか鮮やかに記憶に残っている。現状の苦痛とあの夢の充実感と幸福感はどちらも代え難いものだ、しかし今の俺が受けるべきものは前者であることを当たり前に感じさせる。それぐらいのことを俺はやってきた。

 つまり、今、罰を受けるべきなのだ。肺に酸素がなくなって、意識が朦朧としてくる。目がチカチカし、周りが暗闇が視界の端から侵食を開始する。ここにきて俺は生に飢えた。暖かさが身を包むこの部屋で、赤い着色料を入れたプールで溺れているように、空中で手足をバタバタと動かしまだ死にたくないと意思表示している。まるで子宮で死んだ子供と同じ状況だ。因果応報。実に滑稽だ。自分の臆病さと情けなさに自嘲気味に微笑む。

 徐々に体が生を否定することを止め、死を受け入れる体勢に入る。さっきまで切れかけの豆電球のような視界だったのだが、暗闇に覆われた。


 そしてそのまま、俺は息を吐いて、体は冷たくなった。


 私は歯ブラシだけを取りに、彼の家を訪れた。合鍵を持っていたので入ると、慣れるように洗面所へ行き、目的のものを回収する。すると、彼の部屋から目覚まし時計の音がした。その音が壊れかけのオルゴールのような、大雨の日に見るテレビのような、老いた猫の鳴き声のような特徴的で周期的ではない音が気になり彼の部屋の前へと足を運ぶ。目覚まし時計を止めない彼に疑問を持ったが彼の間に相対するのを想像すると恐怖で足がすくむが、部屋をノックしドアノブをひねる。

 耳に残る機械音がその部屋では意味をなさない。その前に人であったものが浮かんでいる。私はその映し出された光景を意外にもすんなりと受け入れてしまった。音の在り処を見つけてスイッチを押す。静寂が流れるこの部屋で、また彼を見つめる。

 恐る恐る、彼の手に触れてみると油でベタベタして気持ちが悪い。温い牛脂を手に乗せているような感触が残り、なんとも不快感が否めない。でも彼の顔はどうしても見れない。見てしまったら、きっと、言葉では言い表せない感情で私自身がどうなるかわからないから。壁にかけられているカレンダーは今日の日付からその先が破られていた。自殺者が生前に行う、行動様式に近いものを感じる。

 見渡すと机にノートと横に添えられてある遺書があった。白い封筒を開け、折られた遺書に目を通す。遺書の内容は簡潔に、去ってしまった私への謝罪と、離れ離れになった家族への謝罪。最後には、贖罪として自分の命を断ち切ることを締めに書かれてあった。

 私はこの場で遺書を破り捨てたかったがなんとか堪えた。ノートのほうに目を移した。ノートは「私との思い出」と汚い字で書かれている表紙から始まり、めくると私と過ごした日々について語られるように書いてあった。呆れるほど荒唐無稽で、つらつらと本当に気持ちが悪いと思わせるような文が永遠と並んでいた。そして、最後のページを見て私は血の気が引いた。


 一文だけそこに書いてあった。


「君を上からずっと見ているよ」


 背中に、ツーっと嫌な冷たい汗が流れる。後ろを振り返り、浮いている彼をゆっくりと見上げた。

 この部屋に来て初めて彼の顔を見た。彼の顔は夕日に照らされ、赤子のように笑っていた。私の恐怖は許容量を超え、一目散に部屋から飛び出し、すぐに警察に電話した。

 おかしい、おかしい、おかしいおかしいおかしいおかしい。


 彼は私と目を合わせていたのだ。

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