箱の中、腐り落ちる。
月詠
箱の中、腐り落ちる。
「ライター、貸してください」
玉が擦れ合う濁流も、戻ってこない人を探す店内放送も、何が出ただの出ないだの、その全てが遮断された喫煙室という箱の中だったからだろうか。
透き通る綺麗な声で伝えられた要求は、あたしの耳にハッキリと届いた。
初対面で、無遠慮な問いかけだった。けれどもそれ以上に、衝撃を受けていた。
「あの、ご迷惑でしたか?」
「いや、迷惑というか、なんというか」
白いブラウスを纏い、結い上げられたふわふわとした髪を流しているその様は、お嬢様のようだった。黒のロングスカートにシワがつかないように座る姿は、様になっている。濁った若者の目でも、イケない遊びに繰り出すカップルという初々しさも、余生を楽しまんとする老人達のような鷹揚さも、彼女にはない。
澄んでいた。真っ白だった。こんなところでぐずって腐りきっているあたしが惨めに思えるほどに、綺麗だった。
「ほら、これ」
これ以上黙って同じ空間にいると、この気持ちが更に加速して腐り落ちてしまいそうだった。コンビニライターを差し出し、彼女から視線を外す。
「ありがとう」
しゅぼ、タバコが点火される。ちらりと横目で見る。綺麗な彼女は、毒を吸っている。艷やかな唇からこぼれる白い煙。
自分のタバコを吸いきって、外へ出る。メンソールを吸っていたはずなのに、目が醒めるような風味をこの時だけは感じられなかった。
清華、名前に見合う女性になりなさい。
いつもこう言われて育ってきた。父からも母からもたくさんの愛情を受けて育ってきたということにこの歳になってから気づいた。
だけど同時に、窮屈であった。学校でよく話した友達と休みの日に遊べず、流行りのものを買うことは禁じられていた。一家団欒の時間である食事の時間には常にニュースが流されていた。なになにがあって、経済がどうだった。家族の間で交わされる会話は常にこれだった。そしてあたしが話す話題は、今日返されたテストは何点だったとかそんな話ばかりだった。
寂しさを感じることはあったが、これも普通の一つなんだと納得したまま中学、高校と進んで大学に進学した。そして、就職活動に失敗した時、ぷつんと糸が途切れた。親は上場企業への入社を望んでいたようでたびたびその求人を紹介してくれていたのだけど、それに応えることが出来なかった。
結局、働く場所は地元から少し離れた場所のスーパーを選んだ。距離を置きたかった。一人暮らしをはじめた。あの空間にいると惨めな気持ちが加速して、いつか内面から腐り落ちてしまいそうだったから。
だから、行きつけの寂れたパチ屋の喫煙室で見た彼女を忘れられないのかと自分を笑った。
あんなに綺麗で華のような女性が、タバコを吸って一時の享楽に金を投げ捨てていると思うと、じゃあ自分ってなんなのだろうとため息が出た。
「バカらしい」
比べてもしょうがないことは分かりきっている。こっちが感じている一方的なコンプレックスでしかない。考えたところで、明日また会うわけでもないのだし。
そもそも、赤の他人でしかないのだ。布団に潜って、画面の変遷が遅いスマートフォンでネットサーフィンをしながら、眠気が来るまで待ち続けた。
「おつかれさっしたー」
事務所に挨拶して退勤する。社員という立場の癖に、やっていることはアルバイトの頃とほとんど変わっていない。
勝手に朝に起きるようになった体を動かして、最低限女として、社会人として、周りがとやかく言われない身支度をして、一生懸命に働く。そして金を貰って、使い道がないからと貯金するか適当に散財する。
あたしの場合はこの散財の先が、パチンコとタバコに向いたというだけの話だった。こんなこと親が知れば嘆き悲しむだろうが、どうでもいい。
腐臭を漂わせはじめた二十代を、あたしはそのまま消費していくのだ。土に還るのだ。
「出ねえな」
無意味な変動を何度も繰り返す回動を眺め、延々と同じところを廻る演出を見続ける。
何枚ものそれが飲み込まれていったのを眺め続けて、どのくらい経っただろうか。目を揉みたくなるような疲れ、そして体がヤニを欲しはじめた。一旦休憩すべく喫煙室に入って、火をつける。
メンソールの鼻を突き抜けるような味わいは、変わってはいなかった。この前のあれはなんだっただろうかとふと思ったとき、透明な扉を誰かが開けた。
「また、会いましたね」
思わず目をそらした。彼女は、あたしの隣に座って火をつけた。
「いつも、ここに?」
会った時も思ったが、図々しいというかなんというか。こちらのパーソナルスペースに、ずけずけと踏み込んでくるというか。でも嫌ならここで拒んで、吸いきって捨ててしまえばいい。
「ああ。そうだよ」
「ふふ、一緒ですね」
だけど答えてしまった。
「私、つい最近ここにきたんですよ」
別に彼女も聞いてほしいというわけじゃないのだろう。煙を吸い込んで、灰を落とす。
「都会がいやで、マンションしかない場所がいやで、都内に就職するもんだっていう風潮がいやで、逃げてきたんですよ」
「で、それで?」
口に出してから、しまったと目を伏せる。話を聞いているうちに心の中から、苛立ちが滲み出てきた。
「まぁ、田舎に就職して、事務で働いて普通に暮らすんです。なんにも考えてなくて、なんにも思わない。ただ、その日暮らしが出来ればいい」
人間の形を保っていればなんだっていいのだ。少しずつ腐り落ちていくとしても、死ななければなんでもいいのだ。
「私、夢がないんですよ。どうしたらいいのかなーって」
「それ、あたしに言う?」
「まぁ、私が話したいだけですから」
なんだこれ、と笑ってしまった。本当に、綺麗なのがもったいないなコイツはと。
「実はね。前から、気になってたんです」
「あたしが?」
こくりと頷いて、彼女は綺麗に笑った。苦手だ。自分で話しているくせに、あたしが今いるところの腐臭漂うゴミ捨て場には似つかわしくないくらいに透明だった。
「いつもそこで吸ってるなって。外でも吸わないし、負けてすぐ帰らない。いつも決まった時間にいて、決まった時間に帰る」
「帰っても、やることないし。てか、見てたんだ」
「はい。嫌でも目に入りますから」
「嫌でも、って」
話していると、彼女がこちらをじっと見つめていることに気づく。
「どうした?」
「笑ったところ、初めて見たなぁって」
「はぁ?」
ぺた、と自分の頬に触れた。口角が上がっていた。心なしか緩んでいた。
「キレイだなぁって。笑った顔」
「キレイってお前」
「本心です。お世辞でなんて、言いません」
真っ直ぐな視線があたしを貫いてくる。嘘は言っていないということは嫌でも分かる。だから苦手なんだと、何度思ったかわからない溜息を心の中で吐いた。
「もう行くわ」
居づらくなって、吸いかけのタバコを捨てて扉に手をかける。
「なぁ。あんたの名前、教えろ」
「マユミ、でいいです」
「そうか」
「あなたの名前は?」
「清華」
振り返らずにあたしは台へ戻った。だけど今日はそれ以上打つ気にはなれなくて、メダルを流して帰った。あと50ゲームも回せば天井だった。ハイエナに食い荒らされてもどうでもよかった。
景品の甘ったるいジュースは、味がしなかった。タバコを吸っていたからというだけではない気がした。
今日も仕事は終わった。明日は休みだ。だが、待ちに待ったとかそういうのを感じる心はもう失くしてしまった。だけど仕事終わりに行くパチ屋には、いつもとは違う変化があった。些細な目的だった。
「今日も、いるんだ」
「はい。今日もいます」
休憩を取って喫煙室に行くと、マユミは先に吸っていた。絵になるような姿の彼女がタバコを吸っている。見ず知らずの他人のことを気になると言って距離を詰めてくる彼女が、重めの確率で、高レートの台に金を突っ込んで回している。
「なぁ、マユミ。虚しくなんないのか?」
あたしもだいぶ毒されているのかもしれない。マユミは特に考え込むような素振りも見せず、答えた。
「虚しいですよ」
「あっそ」
隣に座って、いつものように火を点ける。あたしがいると、だいたいコイツが隣にいるのはもう慣れた。夜に客で埋まるなんてことはないから、ここを使うのは常連だけだ。
「こうして、腐っていくんだなぁって。上がりたくもない役職に上がって、お金を多くもらって、たまーに自分を慰めて」
そう語る彼女の顔は実に晴れやかだった。ある日突然死んだところで何も残さない。未練もないからどうでもいい。コイツの考えることは、手に取るようにわかってしまう。
「そして、ある日病気にかかってぱったりと死んでいくんです」
だって、コイツはあたしなんだ。表面の上澄みだけすくい取って共感するなんていうおこがましい部分だって、コイツがあたしに近づいてきたのと同じ。そしてコイツがただ日々をなんとなく生きて、逃げ出して、腐っていくのをただ待っているのはあたしと同じ。
「なぁ、マユミ」
そんな人生もいいのかもしれない。だけどこのまま一人で腐り落ちていくくらいなら、道連れがほしいと彼女に向き合った。
「今日、呑まないか。あたしの部屋で」
「いいんですか? サヤカさんも、予定があるのでは?」
「あるわけないだろ」
一緒に腐り落ちていけるなら悪くはない。そう思った自分がいることにも驚いた。
「おかしな人。じゃあコンビニで、集まりましょう。ああ、でも」
「でも?」
「泊まる用意、してもいいですか?」
は? と言いかけて、ああそうかと納得する。そりゃあ酒を飲むのだ。どの位酔うのか分からないけれども、それでもアルコールを入れるのだから運転は出来ない。当たり前なのだ。まして、運転代行やタクシーに使う金も、もったいない。
「つか、お前は明日休みなのか」
彼女はここ三日間で見たことのないような笑顔で、言った。
「はい」
かしょ、と酒の缶が開けられる。最低限の家具以外ほとんど何もない部屋で、綺麗な女と酒を呑んで、その人を泊める。はじめてだな、こんなの。
「ね、サヤカさん」
飲み終えたところで、サヤカがこちらにタバコを一本差し出した。マユミがいつも吸っている安物だった。
「一緒に吸いませんか」
別に、これが特別なものであるというわけではない。だけど、その一本を手に取るのはほんの少し勇気が必要だった。
「メンソール、吸ったことは?」
「無いですけど、ハッカとかみたいな」
「そうそう」
「いただいても?」
あたしは自分のタバコを差し出した。
お互いにベランダに出て、夜風に当たりながら吸う。酒で火照った体が冷えていく中、毒を吸い、内側から腐り落ちていくのを楽しむ。
「なぁ、マユミ」
今度はあたしが聞く番だった。
「あたしたち、どうなるんだろうな」
「わかりませんよ。会ったばかりでされても、困ります」
「そりゃあそうだけど」
部屋に泊まって酒飲んで、タバコを交換し合うのに薄情すぎやしないかと顔をしかめていると、彼女が言葉を続ける。
「でも、これだけはわかります」
雲ひとつない空だった。月が、どの星の輝きも塗りつぶして自己主張していた。
「きっと、腐って土に還るんです。だけど、その体は、誰かの栄養となってまた廻る。そして、また他の、私達みたいに腐っていくために生きていく人の糧となるんです」
「なにそれ、哲学か?」
「即興で考えたものなんですけどね」
マユミが吸っていたタバコはもう短くなっていて、最後の灯火から煙を吹き出すのみとなっていた。
「じゃあ、マユミはそれでいいのか?」
もうそろそろ風呂が炊ける頃だろう。部屋に戻ろうとする彼女の背中に、声をかける。
「それいいんだと思います」
「受け身だな」
「そうするしかないじゃないですか。誰からも見捨てられるような生き方をして逃げ出した人なら、それ相応の死に方をするしかないんです」
お風呂、お借りしますね。礼儀正しくそう言った彼女を見送り、タバコを吸う。
勿体ないなと思う。だけど、そのまま腐っていってほしいとさえも思ってしまう。
惨めだ。自分と同じ場所で燻って、そのまま終わっていってほしい。あたしの手の届く範囲にずっといてほしい。たまたま会っただけの人間にこんなことを抱く時点で、自分が人間としていかに終わっているかを自覚してしまう。
「いや、それもアリか」
そして、そこから前に進もうとしないからあたしはクズなのだ。
タバコはもう短くなっていた。灰を落としてから酒の空き缶に突っ込むと、底に張った水に触れ、消えた。
隣で眠るマユミを見ながら、思う。このまま老いて、死んでいくのはどういう気分なんだろうと。ニュースで時折流れる孤独死の現場は、自分にとっては縁遠いものだと思っていた。だけどこの暮らしをはじめてから、ひたひたと足元ににじり寄っているような気がしてならない。
そして特に危機感も抱いていないのだ。コイツはともかく、あたしは。
「ありがとうございました、いつ会えるか分からないですけど、また」
お互いにこの日仕事が休みだったから、あたしはコイツを泊めることが出来た。
だけど今日はそういうわけにもいかない。お互いに明日の準備があって、最低限やらなきゃといけないことを決めている。
だから引き止めるわけにはいかないし、そのつもりもない。彼女もここに居続けるつもりはないのだろう。
「なぁ、マユミ」
それでも、あたしは言わないといけなかった。多分これを逃すと一生言わないような気がしたから。
「次、いつ泊まる?」
振り返った彼女の細い目が、大きくこぼれんばかりに見開かれた。そんなことを言われるとは思ってもいなかった、といった表情だった。
少しの沈黙が流れた。やがて、マユミが微笑んで言った。
「下手くそですね、誘い方」
「下手くそってなぁ」
「でも、嬉しかったですよ」
心臓が跳ねた。開けられた玄関扉から溢れる陽の光が、彼女の笑顔を彩った。女同士のはずなのに美しくて格好よくて透明で、羨ましいとさえ思ってしまった。たった一言、それを言われただけなのに。
「連絡先からはじめましょう?」
マユミが差し出した携帯は、友達登録の画面が出ていた。
「いいよ。ここからな」
「はい、ここからです」
今日も明日も明後日も、この生活は変わらないのだろう。劇的なことなど起きやしないのだろう。順当に生きて、時折不幸に見舞われて、そして普通に死んでいくのだろう。
だけど、この日から少しだけ変わったことがあった。一緒に腐り落ちてくれるヒトが、出来たのだ。
玄関扉が閉まる。次は、いつ一緒にいてくれるのだろうか。そう思いながら、あたしは二度寝すべく布団に潜ったのだった。
箱の中、腐り落ちる。 月詠 @tukuyomi07
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