【08-1】渠陽の夜(1)

曄姫ようき伽弥かや一行がこうの西辺の街渠陽きょように辿り着いたのは、間もなく日落じつらく初刻(午後五時頃)になろうかという頃合いで、彼らが街門を潜った時には、漸く秋の陽が暮れ始めようとしていた。


耀の侠客蒙赫もうかくから紹介された、<檀渓だんけい酒家>という旅亭に落ち着いた一同は、旅装を解くと、揃って階下の食堂に向かった。


そして先頭で階段を降りた護衛隊長の虞兆ぐちょうが食堂内を見回すと、そこには端然と座る朱峩しゅがの姿があった。

彼は人目を惹くための黄金色の長袍を脱ぎ、普段の黒い胡服姿に戻っていた。


一行は朱峩の座る卓に集まり、伽弥と二人の侍女、そして虞兆が彼と同席した。

そして隣の卓には、顧寮こりょうたち六名の護衛士たちが座ることになった。


皆が席に落ち着くのを見た朱峩は、彼に向かって口を開こうとした伽弥を手で遮る。

「誰の耳があるか分からん。

ここで旅の話は止そう。

互いの名を呼ぶのもな」


周囲を憚る低い声で朱峩が言うと、伽弥は口元に手を当てて周囲を見渡した。

確かに彼の言う通り、食堂内には人の姿が増え、喧騒が始まっている。


「それよりも飯を食おう。

酒も少しならよいだろう。

何か食いたいものはあるか?」


そう訊かれた伽弥たちは、互いに顔を見合わせた。

誰もがこうを訪れるのは初めてで、どのような菜肴さいこうがあるのか、知る者がいなかったからだ。


「朱峩殿。

我らは、暉は初めて故、朱峩殿が菜肴を選んで下さらぬか」

虞兆が皆を代表して言うと、朱峩は口元に微笑を浮かべた。


「ここは共水(耀原に注ぐ四大河の一つ)の支流が近いから、漁労が盛んだ。

川物が嫌いなものはおるか?」

朱峩に訊かれた全員が首を横に振る。


それを見た朱峩が、「酒はどうする?」と訊くと、護衛士たち全員が頷いた。

何と伽弥も頷いている。


それを見た侍女の施麻しまが、「姫様」と諌止しようとすると、伽弥は彼女を小声で制した。

「ここで<姫>と呼んではいけません。

それに私も、一度お酒というものを嗜んでみたい」


二人のやり取りを見て笑った朱峩は、店の小物を卓に呼んで酒肴を注文した。

小物が注文を聞いて引き下がると、一同はどんな菜肴が運ばれてくるのか、緊張の面持ちで待っている。

その様子を見て、朱峩はまた苦笑するのだった。


そして暫くすると、彼らの卓に素朴な器に盛られた菜肴と、木の碗に入った酒が並べられた。

菜肴から漂う香りが、皆の食欲を刺激する。

その様子を見た朱峩は笑顔を浮かべながら、得々と語り始めるのだった。


「大皿に盛られているのは、𩹷魚いぎょ(大型の淡水魚)を酒で蒸したものだ。

味付けに香草と梔椒ししょう(梔子から採る香辛料)を加えているから、風味があって旨い筈だ。


隣の皿は川海老を黄胡油おうこゆ(金胡麻の搾油)で揚げて塩で味付けしたもの。

そしてこしきの中は、糯米もちごめに味付けしたけい(食用の鳥)の肉と根菜を混ぜて蒸したちまき


どれもこの辺りではありふれた食い物だが、それだけ味は練られているというものだ。

さて、御託はこれくらいにして食らいつくか」


朱峩のその号令を待っていたかのように、伽弥たちは一斉に箸を動かした。

そして思い思いに器の菜肴さいこうを口に運ぶ。


それを噛みしめた途端、彼らの顔に歓喜の色が広がった。

その喜びの中には、耀国内で味わった数日間の苦難から、漸く脱することが出来たという安堵も含まれていたのだ。


久々に穏やかな雰囲気の中で夕餉を終えた一同は、それぞれの客房に戻り、思い思いに寛ぐことになった。

そして朱峩と伽弥、虞兆の三人は、これからの道程について話し合うために、朱峩の客房に集まるのだった。


部屋に置かれた胡床を伽弥と虞兆に勧めると、朱峩は寝台に腰を下ろした。

「顔が赤いが大丈夫か?」


朱峩に指摘された伽弥は更に顔を赤らめながらも、意地を張って彼の言葉に抗弁する。

「大丈夫です。

でも、もうお酒は口にしないことにします」


その様子を見て苦笑を浮かべた後、朱峩は表情を改める。

「この先のことを決める前に、このこうの様子について話そう」

その言葉に、伽弥と虞兆は思わず身を乗り出した。


「この国は、六公国の中でも豊かな方だろう。

昔から農産や畜産が盛んだから産物も多い。


貧民の数も、他国に比べれば少ないだろうな。

僅かな違いかも知れんが。


そのせいか野盗の類も、それ程多くはない。

これから向かうちょうに比べれば、雲泥の差だろう」


「晁はそれ程荒廃しているのですか?」

伽弥の問いに朱峩は肯いた。


「晁では晁公とその弟の間で、長く紛争が続いている。

理由は跡目争いだ。


前公の長子だが妾腹だった現晁公が即位する際に、父の遺言で弟に過分な領地を与えたのが原因だな。

弟は正室の子である自分が国を継ぐべきだと、兄に反乱を起こしたのさ。


それに様々な豪族同士の利害が絡んで、収拾がつかなくなっている。

当然国土は荒廃し、飢民が続々と生まれた。


そしてその飢民の一部が匪賊となって邨々むらむらを収奪し、荒廃に拍車をかけている。

つまり国のあちこちで、賊徒が横行している状況なのだ」


「隣国に暮らしながら、そのようなことは何も知りませんでした。

私は何と世情に暗いのでしょう」

伽弥は顔を暗くして、己の無知を嘆いた。


「公室の深窓で暮らしていれば、それも仕方がないさ。

しかし晁のことを笑ってはいられないぞ」


「それはどういうことでしょう?」

朱峩の口から出た意外な言葉に、伽弥は思わず声を上げた。

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