31話 悲哀に誓った愛の唄
一人残された、辺境伯の執務室。
尋問のときに座っていたそれよりも、ずっと大きなソファに寝転んで。
しかしリリアは、決して軽くない息を吐いた。
「……もっともらしい事、言われた気がするなぁ」
そのまま脳内で、先刻ジストに言われたことを反芻するリリア。
――天気も悪い。これ以上は身体に障るから、待機していろ。
海上要塞の迎撃に彼女が同行していなかったのも、それが理由だった。
(……なんだろう)
確かに戦いのダメージは今も自覚できるほどに尾を引いている。
それでも自分も立ち会いたいと、モースら兄妹の裁きの場に同席していた経緯があった。
ジストが制止する事自体は筋が通っていると言えた。
それでも。リリアにそう思わせるのは、直感じみた不安だった。
(何か……よくない予感がする!)
身体を上げるリリア。普段では感じたことがないほどに重くて、それでも続けて。
執務室の大きな窓からは、今もあの巨大な黒い影が見えていた。
立ち上がり、その窓へと近づいていく。
「ん……どうしたんだい、君?」
その動きを不思議に思った、部屋の警備に付いている衛兵からの声。
同時にリリアの監視役でもあるのだろう。応えるように振り向くリリア。
リリアは、まず彼との距離を意識した。そして前方、窓に手が触れた事を感じる。
そして、判断した。
この距離なら、止められないと。
「汚しちゃうかもっ、ごめんなさいっ!」
叫ぶような詫びの言葉とほぼ同時に、リリアは正面の大窓を全開にする。
そして一分の迷いもなく、その窓から大雨の降り注ぐ外へと飛び出した。
「えっ……ああっ、君っ!?」
リリアが判断したように、止められる距離と時間ではなかった。
ただ言葉だけがリリアに届くものだったが、それが彼女の脚を止めることもなかった。
執務室は、建物の構造としては3階にあたる。
高さはあるが、リリアにとっては飛び降りるのに慣れた高さでもあった。
降下していく身体が、精霊たちを纏っていく。
「……うぐっ!?」
しかし。着地によって身体に返った衝撃に、リリアは思わず声を上げてしまう。
それほどまで身体が弱っているという証だった。それでも。
「くうっ……はあっ、はぁっ……!!」
それでも彼女は、すぐに立ち上がって走り出す。
身体に走った痛みも、今はあまり感じなかった。
大きくなっていく胸騒ぎが、彼女に止まることを許さなかった。
――
『もう一度伝える。そこの男、ジストの身柄を引き渡してもらいたい。
協力頂けるのであれば、我々はこの町に手は出さない』
もう一度要求を繰り返す、拡声器から放たれる声。
それはドグマへ向けられたものではあるが、ある種、その隣に立つジストへの警告でもあった。
この町自体を人質としているかのように。
「脅しのつもりか? アスタリトも舐められたものだ。
このリーブルがそう簡単に落とせるなど、思い上がるなよ?」
「グローリアめ、我らを舐めるなっ!!」
「……」
一方でその言葉に露骨な反感を見せるドグマ。
その意志に同調して並ぶ衛兵、騎士たちも声を上げていく。
すぐ後ろに構えるリーンも、静かではあるが確かに昂っていた。
強い敵意が、巨影へと突き刺さっていく。だが。
『落ち着いていただきたい。我々も交戦は望んでいない。
それにどうやら本日は、
無用な出血を避けたいのは、あなた方も同じでは?』
「……貴様」
返された言葉には、彼らの状態を指摘、あるいは揶揄するような色が含まれていて。
悪態を隠す事無く返すドグマ。
だが降り注ぐ雨が洗い流していくその頬に、冷や汗が伝っていた。
(口惜しい……! よりにもよってこの日に、このような急襲を許すとは!
どうする!? 皆傷ついておる、持たせられるか!?
何にせよここはアスタリトの要衝だ。陥落は許されん……!)
並ぶ騎士や衛兵たちには全幅の信頼があった。相手が何であれ、彼らの戦意が挫けるわけではない。
だが昼間の騒動による消耗は、間違いなく戦況に響いてくるだろう。
まさに要塞からの声が指摘したような状況で、腹立たしさを抱えつつもドグマは頭を回す。
逆転の一手が探せる状況ではない。だが押し潰される事だけは避けられる、そんな策を探していたその、最中。
「待ってくれ、ドグマ辺境伯」
「……ジスト殿」
ここまでドグマは、その選択肢を考えないようにしていた。
それは敵を同じくした共闘者を守るという意味もあり、
生贄を捧げるような真似を避けるべしという矜持でもあった。
だからこそ。ジストは自らここで声を上げた。自らが、それを選ぶという形で。
「奴らも流石にアスタリトとの全面衝突は望んでいないでしょう。
私が行けば、少なくともこの場での戦いは避けられる。この町の人達が傷つくことはありません」
「……我々には助かる提案だ。だが、よいのか?」
「ええ」
「……おい」
既に決心までついている様子のジスト。その口調に淀みはない。
だがそれが逆に、リーンに口を開かせることになる。
挟まれたその言葉は、異論と困惑の色が浮かんでいた。
「敵国相手に、何故そこまでやる? お前にこの町を守る義理があるのか?」
「……義理か。生憎、義理で戦ったことはないからな」
「何?」
返事の先触れは、その疑問を根底からひっくり返すものだった。
疑問を重ねるリーンに、ジストは真っ直ぐな視線を向けて続ける。
「アスタリトだろうが、グローリアだろうが関係はない。
俺は人を守るために戦う。そのための道を選ぶだけだ」
「……御大層な思想だな。世界の全てを背負う英雄にでもなるつもりか?」
ジストの返答に、僅かに押し黙って。
しかしリーンが返した言葉は、露悪的で皮肉ったものだった。
だがその沈黙こそが、本意をジストに悟らせる。
それは諌めるような、案ずるような思い。それに感謝するように、彼は笑って答えた。
「俺も、心のどこかで迷うことはあったさ。
既に世界の在り方は確立されている。それに従って生きるべきだ。
俺も英雄などではなく、一勢力の軍人で在るべきではないかと」
そして並べて、ジストはこの激動で出会った者たちへと思いを馳せていく。
若者たちが、自分の信じる正義のために勇敢に戦っていたこと。
その未熟な熱さに、しかし自らも救われたこと。
そして。誰より強い意志を瞳に宿す、輝く光を纏う少女のことを。
大敵にも不条理にも負けること無く、必ず未来を掴んでいく少女のことを。
(俺の人生は。きっと世界さえも救うあの子たちを、導くためにあったのだろう。
その道を切り開く役目になれるのなら、それでいい)
「だが今は違う。この思いは間違いじゃない。
俺も、俺の信じるように生きていい、進んでいい。そう思わせてくれた」
微笑みを見せるジスト。自然に浮かんだ笑顔だった。
それが言葉にした彼らへの、ジストの心からの思いだった。
「だから、これでいいんだ」
「……」
穏やかだが、熱く重い感情の乗せられた言葉。
それを受け取ったからだろうか。あるいは、何か理解できるものがあったからだろうか。
リーンも、もう何も言わなかった。
ジストは踵を返して要塞の方へ向くと、背中越しに最後の言葉を投げる。
「悪いが、後を頼む。勇者と名高いお前と共に戦えて、嬉しかった」
「……俺は、アスタリトのために動くだけだ」
リーンの返事は本心か、それとも。
しかしジストはもう、言葉でそれを確かめることはしなかった。
そのまま歩みだして、集団から外れるほどに前に出るジスト。
そして。激しい雨音を切り裂かんとするほどの威勢を持って叫んだ。
「聞こえるか! お前たちの指示に従う! この町には手を出すな!!」
『誇りまでは捨てていないか、ジスト。いいだろう、そこを動くな』
返答の直後。彼らの行動は早かった。
雨夜の闇に紛れた中。直後、幾つかの鋼鉄質の太い縄がジストへと放たれていた。
それは一瞬にしてジストの身体を縛り上げる。
「……ぐっ!」
そのまま巻き取られ、闇夜へと引きずり込まれていくジスト。
その勢いは、おおよそ人間を生かして捕らえるための物とは思えないほどの激しさで、
彼の身体にもまた小さくはない負担が掛かる。
しかし。そんな状況とは反比例に、ジストの心は落ち着いていた。
(……丁度いい
余裕すらも感じるような心境で、しかし自分の最期を悟っていた。
それでも。ジストはこれまで感じたことが無いほどに、晴れ晴れとした思いを感じていた。
(リリアたちなら、俺が居なくとも世界を救える……いや)
それは今までずっと心の奥底に潜み続けた、原罪のように彼を苛んでいるもの。
今、それを解き放つように。ジストは心の中で叫んだ。
(これで、
その、救われているかのような思索の最中。
激しく回る視界の中に見えた、雨夜に輝く強い光が見えて。それが、彼の頭と心を止めた。
見えた光は、迷うこと無く目前まで迫ってきて。そして、大きな声が響いた。
「駄目だよっ!!」
内面に入り込んでいたジストに届けるかのような、リリアの叫び声。
引きずられていたジストの身体を縛る太い縄を、渾身の力で掴んでいた。
「リリアっ!?」
「わああああああああッッッ!!」
もはや僅か先が海面となるような港の端、叫ぶリリアに呼応して現れていく精霊たち。
リリアの纏う光が大きく、強くなるほどに引かれる速度は落ちていき、やがて力の拮抗と共に止まる。
だがジストに安堵など産まれはしない。彼女の容態からすれば、今の行為がどれほど危険であるかなど言うまでもない。
思いは全て、リリアへと向いていた。
「リリアっ、やめろ! 今は戦うべき時じゃないっ!
俺のことはいい、退がるんだっ!」
「やだっ! 諦めないっ、ジストさんもっ!!」
「駄目だっ! グローリアとアスタリト、
正面衝突が起これば取り返しのつかないことになる! ここは退がれ!!」
リリアなら抗うだろうという事は、語るまでもなく分かっている。
そしてこうして諭す言葉にもまた、簡単には首を縦に振らないことも。
それでも語気を強くして言葉を重ねるジストに、リリアも尚も叫ぶ。
「分かってるよっ!
ジストさんが私たちもアスタリトの人たちも守りたくて、そうしてるって!
でも嫌だよっ! 仕方なかったなんて思いたくないよ!
そんなの、ジストさんが悲しいじゃない!」
「……悲しい?」
しかしその応酬は、リリアのその言葉によって途切れる。
諭していた時の語気の強さを失いながら、疑問を浮かべるようにその言葉を繰り返すジスト。
一方でリリアはそれを気にする余裕もないまま、思いのままを口にしていく。
「そうだよっ!! 人を守れるように、って戦ってたのに!
英雄って呼ばれるぐらい、人のために戦ってたのに!
……自分が危なくなった時は、誰にも守ってもらえないなんて悲しいじゃないっっ!!」
「……」
それは祈りであり願いでもあった。悲しい英雄が、生まれないようにと。
英雄譚を道標に育った彼女だ。だから、ジストの献身にもそうした思いが生まれたのだろう。
(そうか。悲しい、か)
それはわかった。彼女の純真さと誠実さも知っている。
だからそれを、ジストも疑いはしない。
ただ。それが呼んだのは、生きることへの活力ではなかった。
(……
それは、自分がそうではない存在だという確信だった。
諦観、あるいは。ジストの表情が不穏に和らいで、そして。
「いいんだ、リリア。俺は、これでいいんだ」
彼らしくない、具体的な主張を省いた言葉だった。
だが不意に見せた笑み、そして瞳の奥の濁ったような思い。
哀しさ。そう表現できるようなものだった。
「ジストさん……? 何言って……わっ!?」
彼の異変に気づいて、しかし尚も反発しようとしたリリア。
だが、状況はそれさえも許さなかった。
突然リリアの握る縄から、拮抗していた相手側の力が消える。
まるで、綱引きの相手が突然手を離したかのように。
「引っ張られなくなってる? なんで……」
「……リリアっ!! 退がっ――」
理外の事象にただ困惑するリリア。相手が許してくれた、などという筈はない。
であれば、この行動の意味は。
それを理解して叫ぶジストだが、リリアに伝えるにはもう遅かった。
「――邪魔をするなっ!」
「きゃあッッ!」
直後、リリアの悲鳴が響く。
声とともに上空から現れた黒い影が、彼女を突き飛ばしていた。
精霊の守護はあれどその勢いは強く、リリアは雨に濡れた地面に転がりその体を汚していく。
「う、ぐっ……!」
「リリアッ!! 貴様ッ……!?」
それでもすぐに立ち上がろうとするリリア、そしてその影に明確な怒りを顕にするジスト。
しかし、すぐ側に着地した彼の姿に言葉を失う。
身につけた防衛隊のスーツ。ジストが見れば、その正体を悟るのに十分だった。
そして。彼は呟くように言う。
「あの日以来か……いつ見ても、忌々しい光だ」
「……バストールっっ!」
リリアへの、明確な怒りと敵意とともに。
「貴方は……あの時のっ!」
「リリアに手を出すな! 俺は従うと言ったはずだ!!」
「だがこの娘が抵抗している。それを鎮圧するだけだ」
彼は戦いの始まりの日。アトリアの村に現れた防衛隊の一人であり。
そして乱暴な審問の後、リリアによって窮地に陥ることとなった。
彼が瞳に浮かべるその怒りは、まさに報復の念があるのは明らかだった。
そしてその怒りは、弱っているリリアに躊躇いなくその銃を向けさせる。
「既に我々へ度重なる反抗を繰り返している危険因子だ。ここで処分させてもらおう」
「……なによ、危険因子って! あの時だって、貴方達の方が悪かったじゃない!」
「口の減らんガキだ。さっさと黙らせるに限る」
そしてその言葉は、極刑の宣告でもあった。
相手が少女だとしても、もはや全くの躊躇いも見えなかった。
急変した状況に、どよめきが広がっていく。
「リリアっ……!!」
「貴様っ、アスタリトの地で勝手なことは許さんぞっ!」
その中。明確な動きを見せたものへ、バストールも目を向ける。
僅かに構えるリーン、そしてこの行為を糾弾するドグマだった。
いずれにしても、リリアを助けるための動きだ。しかしそれも、彼は牽制していく。
「手出し無用! これは我々の領分である。
もし邪魔立てするのであれば、我々も反撃させていただく」
「……っ!」
反撃。それが意味するのは、ジストが身を呈して避けようとした自体の到来を示すものだ。
牽制としては十分なそれを残して、再びリリアへと振り向くバストール。
再びその照準が、リリアの頭部へと合わせられる。
「……くっ、うっ……!」
対するリリアも、もはや限界だった。
まともな体力を回復する時間も無い中、更なる負担によってもう立ち上がるのがやっとで。
心までは折れていない。だが心しかもう残っていない。
ただ睨みつける事だけが、唯一の出来ることだった。
「相変わらず腹の立つ目だ。自らの正義が、必ず通ると信じている幼稚な目だ。
こんな子供に恥をかかされたとはな」
「……っ!」
しかしそれは、バストールの怒りと恨みを助長するだけのものだった。
増幅していく怒りを込めて、引き金に力が込められた、その瞬間。
「バストールッッ!!
お前がその子を殺すというのなら、俺も本当の意味で
「っ!?」
彼の背中に向けて、全力で叫ぶジスト。
その言葉には、具体的なものは示されていない。
しかしその言葉に、バストールの身体は明確に反応していた。
それも、慄くかのようなのような様子で。動きを止めた彼にジストは続ける。
「レクスから聞いているだろう。お前なら、この意味がわかるな」
「……馬鹿な。虚仮威しだ」
ジストが言葉にしなかったそれに、バストールは動揺を隠しきれない様子だ。
先程まで纏っていた雰囲気が全て消し飛ぶほどの動揺だ。
それが何であるかはバストールも口にしなかったが、それほど大きな事象であるようだ。
それでも逃げ道を探すように口にした言葉に、ジストは更に追及する。
「俺は本気だ。お前達が何を考えているのかは知らんが、何にしても計画どころの話ではなくなるぞ。
……俺が協力的なうちに、さっさと連れて行け。この町にも、その子にも手を出すな」
そして彼の動きを再度制するように、ジストは言葉を繰り返していく。
バストールも暫く沈黙を続けるが、やがて観念したかのように銃を下ろした。
そして、この場の誰でもない相手へと連絡する。
「……ジストを引き揚げろ。私も帰還する」
「それでいい、ぐっ!」
そして、バストールもジストに伸びる縄に捕まったのとほぼ同時に、
再びジストを捕らえた縄が船の方へと引き上げられていく。
今度はもう、見ていることしかできなかった。リリアはただ、彼の名を叫ぶ。
「ジストさんっ……ジストさんっ!!」
離れると共に、すぐに視界は深い雨の闇に遮られていく。
リリアの叫び声も、雨と波の音に飲み込まれていく。それでもジストは、彼女を案じていた。
(……リリア。気に病まなくても、仕方ないと思わなくてもいい。
お前が世界を救って、それで終わりでいいんだ)
その最中。偶然背腰へと回った縛られた右手に、縄とは違う何かが当たる。
触感だけで分かった。彼の相棒だった、刃毀れすることのない短剣だ。
まるで啓示のように、彼に戦うことを示した誰かへ。今、ジストは思いを馳せる。
(どこの誰かとも知らないが。きっと世界を救うのは、俺ではなくあの子だ。
どうか力を貸してやってくれ)
そして、人となりも分からない誰かへの願いとともに。
わずかな隙間を通して、入れ具ごと外した短剣を手首で投げ落とす。
彼にできたのは、そこまでだった。
「ぐうっ……!」
落下点を確認する余裕も時間もなく、彼の身体は巨影へと引きずり込まれて行った。
目的たるそれの完遂を示すように、再び要塞から声が発される。
『それでは失礼する。ドグマ辺境伯、ご協力に感謝する』
「……何が協力だ、忌々しい」
ドグマの毒づきは、届かなかったか、あるいは。
再び声が返されることはなく、巨影は音を立ててリーブルの港から離れていく。
大雨もあって、闇に消えていくまでにはそう時間は掛からなかった。
「うっ、うっ……ジストさんっ……」
港の端で、それを見送るしかできなくて。
無力感に打ちひしがれるまま、屈み込んで俯いていた。
その痛ましさは、この終わり方を象徴するような姿で。
脅威が去った今、あまりに重い空気がこの場を包んでいた。
(このような結末になるとはな……)
その重さを、この地の長として受け止めるドグマ。
とはいえ、彼は立ち止まることを許されない立場にある。
大きく息を吐いて、その遂行のために号令を出した。
「……臨戦態勢は解除だ。皆、持ち場に戻れ。警戒は怠らぬようにな」
「はっ!」
その号令を受けて、足早に駆け出していく衛兵や騎士達。
皆表情は厳しい。この後味の悪さは一様に受け取っているのだろう。
だが彼らもまた、それを咀嚼しきるまで留まることはできないのだ。
その中で。一人だけ踵を返さなかったリーンが、振り返ったドグマへ告げる。
「……彼女には、俺が付き添います」
「うむ。ジスト殿の献身に対して、我々はなにも出来なかった。
関わりのあったお前のほうが気安いだろう。頼んだぞ。
事が済めば、私の館に送ってくれ」
「はっ」
彼の申告を迷うこと無く承諾すると、ドグマもまた重い足取りで去っていく。
こうしてこの場に残るのはリーンと、その視線の先に俯くリリアのみとなった。
気付けば、雨足も少し弱まっている。海への視界が広がったが、既にかの要塞の姿は無かった。
(あの巨体が、もう見えないとはな。
余程早いのか、それとも他に目を欺く術があるのか)
消えた要塞への思考と共に、リーンはゆっくりとリリアの方へと歩みだす。
それ以上に、リリアに掛ける言葉を探していた。
リーンは自身を喋るのが得意なほうだとは思っていない。むしろ苦手だと思っている。
一度辺境伯の館に戻り、リリアの友人達を連れてきたほうがいいのかもしれないとも思っていた。
それでも。彼女を背にすること自体が、今は強く抵抗があった。
「……ん?」
だからだろうか。
彼の
――
「……ジストさん……」
今、リリアの心を埋め尽くすのは悔しさだった。
悲しくて声を上げたくても、その悔しさが邪魔をして仕方がなかった。
理屈が分からない訳ではない。ジストの言う通り、戦えば大きな犠牲を生むことは明らかだった。
それでも。彼が結局これを選ばざるを得なかったという事が、その悔しさを止め処なく生み出していた。
「『誰もが望んだ雪解けの後、君が現れることはなかった』」
「あっ、リーンさん……」
弱まっていく雨の中。微かに見えるようになってきた水平線を眺める彼女に、その背中から声がかかる。
目的に対して、彼は普段のように無表情だ。
リリアの隣に座ると、同じように水平線を眺める。
「"永き冬"の、最後のカタリス……王様! の、独白だよね」
話す途中で、普段の呼び名が不敬と気づいて言い換えるリリア。
とはいえ、リーンはそれに対して何かしらの反応を見せないまま返していく。
「ああ。初代国王の、戻らなかったエレナを悼んだ言葉だ。
英雄譚には、悲劇的な結末が付き物だな」
「……うん。だから何とかしたかったんだけど……何も、出来なかったや」
言外に意図するのは、言うまでもなくジストの行く末だろう。
リーンはすぐに返そうとして、しかしありきたりなその言葉を留めた。
選べる状況ではなかったことなど、きっと分かっている。
この性分だ。慰めを欲してるわけではないだろうとはわかった。
優しいふり以外の効果がなく、言う意味がないように思えたからだった。
「……」
そして、その代わりとなる言葉に迷うリーン。
言葉が見つからないのは、彼の口下手によるものだけではない。
リーンもまた、その心はずっと渦巻いていた。ジストにせよ、目の前のリリアにせよ。
冷静になれるほどの距離にはもう居なかった。
それでも何かを言おうとして。
「……俺も、自国の利を選んだ立場だ。恨んでくれて構わない」
口から出たのは、自罰的な感情だった。
心任せの言葉だったが、すぐにリーンは悔やむ。相手に負担を押し付けるだけの言葉だったと。
重くなる彼の思い、それを表情から汲み取ったか、あるいは。
「そんなことしないよ。ジストさんが守るって選んだんだもの」
「……」
わかりきった、リリアからの言葉。
彼女がこう返すだろうということも、その人柄からわかっていた。
(……情けない)
だからこそ、リーンは自分の口下手を恨む。
罰を受けて楽になるためにこの場に残ったわけじゃない。
渦巻いていく胸の中で、その目的を思い出そうとして。唐突に、リーンはその自問にたどり着く。
(俺は、何をやりたいんだ?
王命も、アスタリトも関係のないこいつに。こいつらに)
それは彼のある類稀なる生い立ち、それが関わる歪んだ価値観の現れでもあり。
そしてそれに対する、初めての疑問でもあった。
「あれ、リーンさん? それって……」
「ん……ああ」
一方。黙り込んでいたことで、今度は逆にリリアの方から話が切り出される。
彼女が指したのは、リーンが先程手に取った『それ』だった。
頷いて、リーンはそれを……ジストの落としたナイフを差し出す。
「そこに落ちているのを見つけた。アスタリトでは見ない拵えの短剣だ。
見覚えはあった。おそらくあいつの……ジストのものじゃないかと思ってな」
「っ! うんっ、ジストさんのナイフ!」
「やはりか。なら、お前が持っているといい」
リーンの言葉に従って、それを手に取るリリア。
ゆっくりと、入れ具から引き抜く。変わらず一片の刃こぼれも傷もない、純然たる刃だ。
まるで新品であるかのようなこの刀身は、しかし無数の敵意を受け止め、そして切り裂いてきたのだろう。
それはどこかグローリアの英雄と讃えられながらも、内外の敵意と戦い続けてきた彼の事を思わせた。
――俺は、これでいいんだ。
リリアは、ジストが残した言葉をずっと考えていた。
自己犠牲は英雄性の裏返しにある。英雄譚と共に育ったリリアも当然、それは分かっている。
でも、あの言葉にはそれ以上の思いが込められているような気がしてならなかった。
(……まるで、こうしたかった、みたいに)
ジストも立場ある大人だ。自分に全てを見せられるわけじゃない。
自分だってそうだから。隠すつもりは無くても、自分の全てを仲間たちに話してるわけじゃない。
知らない事があるのは当然だ。本人が話したくない事だって、きっとある。
それも、わかっている。
でも。
「これで、いいわけなんかないよっ……!!」
今までジストが見せていなかった、その言葉と、その所以。
そこを見過ごすことが今、どうしても許せなかった。
形容しづらい、しかし強い感情と共に、リリアはそれを吐露する。
「これで終わりで、いいわけなんかないよっ!!」
それは得てして、報われない結末に終わる英雄達への悲哀でもあった。
それでも吐き出しきれない思いのまま、ナイフの持ち手を強く握りしめる。
だがそれは彼の存在に縋るっているわけでも、泣きついているわけでもなかった。
「……行かなきゃ」
それは、願いだった。あるいは、誓いでもあった。
それは、やがて一つの決心を生み出す。
「行かなきゃ。助けてあげなきゃ、きっと分かってくれない」
座り込んでいた脚を組み替えて、そしてリリアは立ち上がる。
いつの間にか上がった雨。涙の跡は、もう乾いて。
彼女を象徴する、強い意志に輝く瞳がそこにあった。
「何をだ?」
座ったまま、隣でそれを見上げるリーン。リリアの様子の急変を悟れない彼ではない。
だが、だからこそ静かにそれを問う。その先を促すように。
頷いて。そしてリリアは、誓った思いを言葉にした。
「どんな責任があっても、どんな事情があっても。
――生きたいって、言っていいんだよって!」
世界の危機を救い、そして自らは救われぬまま最後の頁を迎える英雄たち。
彼らへの、そしてジストへの。
英雄に焦がれて生きてきたリリアの、名一杯の思いだった。
「……そうか」
リーンは静かに、ただそれだけを返した。
そのポーカーフェイスは、何を感じたかを外へとは伝えない。
ただ静かに、リーンはその瞳を閉じた。
まるで網膜に焼き付いたように、彼の脳裏に先の光景が映る。
強く輝く意志を瞳に込めて、英雄たちへの愛を叫ぶリリアを。
その背後。彼女の思いを尊ぶように、もう晴れた夜空に浮かぶ星々を。
「リリア」
「なに?」
彼の淀んでいたかのような心に、その言葉は響いていた。
あるいは彼もまた、現代にあって自らが称えられる存在でもあるからだろうか。
再び開いた瞳に、リリアと同じように強い意志が宿る。
「ジストにはこの町を救われた。お前達にも、この町を救われた。
事の大小はあれど、アスタリトは確かにお前達に救われたんだ。
大きな借りを作って、そのままでは終われない」
リーンもまた、立ち上がる。
彼もまた、その胸中に一つの決心を秘めていた。迷っていた思いも、一つにまとめて。
いつものポーカーフェイスは、思いが漲っているように見えて。
その可憐な容姿もあって僅かに呼吸も忘れたリリアに、遠慮することなく彼は告げる。
「グローリアを相手にしてなお、お前がジストを救うために戦うというのなら。
――抗うための力を貸してやる。俺も、共に戦おう」
「……っ!!」
止まった呼吸は、そのまま言葉にならない様子へと繋がった。
感激と、遅れての感謝と。震えた瞳だけが、リリアの思いを表現できていた。
「これでもこの国で僅か二人の、星に準えられた戦士だ。
相手がグローリアだとしても、役者不足という事はないだろう」
対してリーンは相変わらず普段と変わらない、平坦なイントネーションの言葉を続ける。
だがその中に、強く熱い感情が秘められていることは言うまでもなかった。
言葉にした内容以上の、ジストへの、そしてリリアへの思いがあることが。
それが分かったからこそ、リリアは今こうなっていた。
「……わあああん、リーンさあああああんっっ!!」
「っ!」
その溢れんばかりの感謝と感激のまま、リリアは彼へと抱きついていた。
突然の行動に、リーンの無表情が僅かに崩れる。驚き、あるいは。
他意のない行動であるというのは、言うまでもなくわかるのだが。
僅かに赤くなった顔で、リーンは彼女を初めて咎めた。
「……人懐っこい事を咎める気はないが。
振る舞いについては、少し気にしたほうがいい」
「うわああああんっ、ありがとおおおっ!」
「……」
が、当然のようにその言葉はリリアに届くことなく。
辺境伯のように持ち上げられ振り回されることこそないものの、諦めたように息をリーンは息を吐いた。
そして、思考を自らの内に向けていく。
(絆される、か。俺には縁のない言葉だと、思っていたんだがな)
それは眼の前のリリアに対してもであるし。
英雄として去っていった、ジストへの思いでもあった。
あまり経験したことない胸の中の熱を自覚して、そして思いは再びリリアへと向く。
(それもまた、素質ということなんだろうか)
もう、月が輝くほどに晴れ渡った空。
彼女の行く先は、まだ途切れてはいない。
――
「っ、ふざけるな、愚民どもがっっ!!」
とある場所の、一室にて。
顔も装いも可憐な少女の、しかし苛烈極まりない怒号が響く。
机に叩きつけられた拳の勢いは、逆に彼女自身を傷つけんほどのものだ。
しかし痛みに苦しむ様子もなく、彼女は怒りを激化させていくばかりだった。
「これでもか!?
こんなに人を助けても、あいつを殺したくなるのか、馬鹿どもがッッ!!
だったら、僕が全部……!!」
「クハハハ……久々にいい顔してるじゃないか、
その、背後から。
老婆が彼女を呼びかける。それは、既に出たことのある名前だ。
そう。激昂する少女の正体は、ギルダと共に行動していたあの可憐な装いの少女だった。
なれば、この老婆も然り。
違う机に腰掛けるギルダが、彼女の様子を茶化すように笑っていた。
「黙れっ
「他人事だからね。ま、面白いのはいいが、喧しいよ。一旦これでも飲んで落ち着きな」
言葉になおさら激昂するアイリスに、改めてギルダはそれを諌めて。
指したものを示すように、机に置いていた酒瓶を見せるように持ち上げる。
尚も爆発しそうなアイリスだったが、一旦それに従うように早足でその机に近づくと、
傍らのグラスを使うこと無く直接その酒瓶を持ち上げて、そして呷った。
が。
「っぐ、げほっげほッッ!!?」
「ハッ、雑魚が」
酒が強いものであったのか、あるいは彼女の耐性の方が理由か。
一秒と持たずに噎せてしまった彼女を、ギルダは重ねて嘲った。
そして彼女から酒瓶を奪い返すと、何の苦も無くそれを喉に流し込んでいく。
「酒に逃げることも出来ないたあ、哀れだよ。
ま、それもこれもお前さんが
「ぎ、ぎざまあっ、げほっ……!」
何度も侮辱を重ねられ、やがてアイリスの怒りと殺意は明確にギルダへと向いていた。
それでもギルダは今の調子を崩さず、嘲るような笑みも一切崩すことは無かった。
「文句があるならあたしを殺してみな」
「ああ、やってやる! この
「そこまでだ」
「っ!?」
尚も止まることないやり取りに、殺意がその閾値まで達する、その寸前。
突然割り込んだ声と共に、二人の前に高い氷の壁が現れる。
彼もまた、この場に居た。ジェネやリリアを助けた、冷気を操るあの
「アイリス、頭を冷やせ。学長も自重していただきたい。
計画に歪みが出ている今、いつ『メルキオール』から突発的な指令が下るともわかりません。
我ら『カスパール』の軸たるアイリスを失うのは……」
「何だい。あのクソジジイが勝手に決めた小っ恥ずかしい名前、使ってんのかい」
「……まあ、便利なもので」
そのまま二人を諌める彼だが、突然逸らされた話題に途端にトーンを失う。
特別な事情があるというようりは、茶化すような物言いにそのまま恥じたというのが正しいのだろう。
だがそんな彼にも、ギルダは不敵な笑みを返した。
「まあ、好きにしな。あたしは呼ばれても返さないけどね。
ともかくアイリス。今は顔を立ててやんな」
「……」
ともかく。彼の乱入、あるいは献身といえるこれは有効に働いたと言えた。
一度落ち着くタイミングを得たが故か、アイリスの激昂も一先ずは収まって。
氷の壁が消えていく中でも、彼女はもう爆発する様子は見せなかった。
それに再度笑みを見せると、ギルダは更に言葉を繋ぐ。
「それに……これはあたしの勘だけどね。
お仲間を奪われたんだ。
都合が悪いことがやりたいなら、それに乗じるのが利口ってもんだ」
「……あの
「別に。吹けば飛ぶような雑魚に、気に入るも何もないよ。お前さん達も含めてね」
逆に皮肉られたようなアイリスの言葉に、否定の意を返すギルダ。
それも、極めて物騒な言葉と空気を載せて。
途端に重くなっていく雰囲気。それさえも笑い飛ばして、ギルダは話をこう締めた。
「だが、あのお転婆ならそうするさ。あの剣は、そういうもんだ」
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