第7話「出すぎた釘の重責」(その1)

「まあ……資材の柿岡さんも、課長になってから厳しかね」

「いや……あれはちょっと酷かよ、あんネゴは、酷か……」


(この声は)と、柿岡は声の主の顔を思い浮かべた。1人は西海工業の大瀬戸、もう1人も地場の塗装屋の社長に違いない、と考えながら4階のトイレで洋式の個室に入っていた。


 この年、1994年(平6)4月、柿岡は課長に昇進した。私生活も結婚して6年、二人の子供を授かっている。だが仕事で連日の外食に深酒、それに睡眠不足。


 近くの極東病院で診てもらうと、

「仕事のし過ぎ……体は正直です、養生して下さい」

 と言って薬をくれた。


 だが柿岡は、

(これでは家で笑顔も見せられない。課長に昇進して何を得たんだ)

 と、悩むばかり。


 遅くに家に帰り、布団の中で寝る子供たちの無邪気な顔が、脳裏に浮かんだ。だが寝ても熟睡することなく、仕事のことを考えると腹が痛んだ。


 今日も設計を出ると腹が傷み、そのまま4階のトイレへ。そこへ会議を終えた大瀬戸らが入ってきたのだった。


「とにかく10%カット、これを飲んでもらいます」

 と宣言して、柿岡は会議を締め括った。例え下請け法に抵触しても、柿岡は円高に依るコスト増を抑えねばならなかった。


 1990年からの円高は天井知らず、『100円/US$』に迫っていた。円高に依るコスト高は外貨建て船価の下落に直結する。極東全体でリスクヘッジはあっても、為替変動の振れ幅は許容範囲を越えていた。


 ただそれを発注金額の10%カットで補填するなど、下請けに取っては死活問題である。しかも柿岡は「飲んでもらいます」と頭ごなし。ラグビーのレジェンドが最年少で課長にしたと、当初は評判になったが、今はそれも地に落ちていた。


 二人は壁に向かって話をしているのだろう。会話に混じって聞こえる排尿の音が、いかにも元気なさげだった。


「あの諫早の鉄工所は、廃業するらしか」

 と、年輩の方が言う。

「円高で儲けた奴は釜山で豪遊らしかけど、こん先、給与カットだけでは済まん」


「ああ、うちも前のネゴでベテラン2人を辞めさせた。年末のボーナスも払えん」

「大瀬戸さん、上の方に掛け合ってくれんね」

「いや難しかね、今度の部長はよそ者やけん」


「そげん言うても我々がおらにゃあ、重工も困ろう」

「ああ、まあやってはみるばってん」


 壁に向かう二人の、背中越しに聞こえる途切れがちな会話が、疲弊した下請けの現実を物語っていた。やがて二人が去り静かになったトイレの中で、柿岡は便座に腰を下ろして項垂れるしかなかった。


(これが現実、俺は何をやっている)

 と、自分の頭を掻きむしった。

 何度自分に問い掛けても答えが出ない。

 自分の力不足が無性に歯がゆかった。


(つづく)

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