第4話(その3)
1987年(昭62)の4月は、あっという間に過ぎていった。3月末に転勤してきた柿崎は、長崎で28歳の春を迎えていた。戸町の家には定年退職した父が母と戻っていた。
だが柿崎は会社の寮に入ることにした。もう独り立ちすべき歳だし、結婚を迫る母の干渉を避けたかった。だから「仕事に専念する」と伝え、実際にそうするつもりで寮へ入った。
ただ仕事で乗るフライトで知り合った客室常務員、吉崎京子と付き合っていた。ただ結婚には踏み出せないでいる。それでも主任の仕事は多忙を極め、時間に余裕はなかった。
そんなある土曜日、4月半ばになってようやく柿崎は街へ出ることができた。
この日は課の歓迎会が開かれ、十数名で銅座の居酒屋へ繰り出した。その後、二次会へも流れ、夜は深けていった。柿崎は籠町から勅使坂を経て、丸山公園へと歩いていた。
酒には滅法強い柿崎だが、その夜は酒の酔いに任せて、心のどこかで翔子を探していた薄暗い通りを歩いていた。その時、丸山公園の東側を歩く二人の男影が目に留まった。
ふと「あれは……」と思い、柿崎は公園の中に入り、街路樹の影に身を潜めて二人の後を追った。酔っているのか、一人は千鳥足で、もう一人の男が介抱するように支えている。
二人は坂の途中にある雑居ビルへ入ろうとしており、一階の店のエントランスの照明が二人の顔をはっきりと照らし出していた。向かう先には、重厚なドアが見えていた。
「おいは帰る、もう飲めない……」
と千鳥足で歩く男、それは艤装設計の村上主任だった。
柿岡は目を凝らしながら更に近づいていった。
拗ねるような仕草の村上に、もう一人のお男が
「ほら店に、着きましたよ。アケミが待っとるけん」
と言って誘う男は、逓信商事の課長だった。
長崎に着任早々、上司の課長から紹介され名刺交換をした相手である。
なぜ?と、疑問が頭に浮かびつつ、心の奥底からじわじわと悪心が湧いてくる。嫌なものを見たな……と思った柿崎は踵を返し、丸山公園から思案橋通りへ下っていった。
柿崎の心情とは裏腹に、思案橋通りにはネオンが輝き、世間とは懸け離れた時が流れている。誰もがバブル景気に浮かれ、目先の享楽に夢中になっているとしか思えなかった。
水害から5年、街はあまり変わっていない。だがどこかに違和感を覚えながらひとり歩く。そして思案橋通りの出口へ辿り着く。だがやはり改装された店の名は変わっている。
(なぜいなくなったのか……)と考えても、詮無いだけ。
思案橋を出ると、電車通りの向こうはもう照明の消えた繁華街、柿岡の心の中に一抹の寂しさが広がっていた。仕方なく交差点を渡ると、辺りに変わらぬ豚骨スープの匂いが漂ってきた。
懐かしさを感じた柿崎は、通り沿いの店の暖簾を潜ることにした。まだ肌寒い夜、ラーメンの熱気と人いきれが冷えた体を包み込む。その温もりが、今の柿崎には何よりの癒しだった。
(つづく)
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