第25話 選択の先の光

二月の初め。

厨房の作業台に薄く粉を撒き、パン生地を分割していた女料理人のオルガは、洗った大きなボウルを台上に運んできた下女に目を止めた。


「サシャ、今日の仕込みは終わったから、ボウルはもう使わないわ」

「え……あっ、そうでした、すみません」


慌てて持ち直し、サシャはペコリと頭を下げる。

別に大した間違いではないが、作業の流れをしっかり理解しているサシャがこういう間違いをすることは珍しい。

オルガは軽く首を傾げた。


「エルナも今日はいつもと違ったわ。二人して珍しいわね」

「エルナもですか?」

「ええ。あまり会話もしてないみたいだし、もしかしてケンカでもした?」


手を止めずにオルガが問えば、サシャは表情を曇らせた。


「私はケンカしてないです」

「『私は』?」

「はい。……この前、エルナは休みだったから街に出掛けていたんです。マイトさんと……」


「ああ…」とオルガは頷いた。

エルナが青果仕入れ業者のマイトと付き合っていることは、特に本人が隠していないので、厨房の皆知っている。

野菜や果物をマイトが運んで来た時に、二人が裏口の側で一言二言会話をするところはよく見るが、互いが仕事中であることを弁えている様子であるから、皆微笑ましく見るだけだ。

一部の者は、羨ましそうにジト目であるが。


「あの日、朝は楽しそうに出掛けて行ったのに、帰って来てから、エルナの様子が変で……」


もしかしたら、デートの途中でケンカになったのだろうか。

そう心配して話を聞こうとしたが、エルナは何でもないと笑って、サシャには何も話そうとしないのだという。

それでも、やはり少し元気がない様子で、何か悩んでいるようにも見える。


「……やっぱり、私は年下で子供っぽいから、相談相手にはならないんでしょうか」


サシャはしょんぼりとして、ボウルを抱きしめるようにして縁をキュッと握った。


サシャはエルナの二歳下だが、二人はずっと宿舎が同室で、仲が良い。

まるで本当の姉妹のようで、仕事中も助け合い、楽しそうに作業してくれるので、厨房での評価も良かった。

こんな風にぎこちない様子の二人を見るのは、初めてかもしれない。


「私にも分からないけれど……、考えがまとまったら、話してくれるかもしれないわよ?」


オルガが元気付けるようにそう言えば、サシャはボウルを抱いたまま、思い立ったように顔を上げた。


「そうだ! オルガさんがエルナの話を聞いてあげてくれませんか?」

「えっ、私が?」


オルガは思わず、生地を丸めていた手を止めた。


「はい。オルガさんなら、エルナも何でも相談できるんじゃないかって思うんです」

「そ、そんなことないんじゃ……」

「そんなことあります! オルガさんは話しやすくて頼りになるって、今までに何度も言ってました!」


そう言って縋るような瞳を向けられれば、オルガは言葉に詰まった。

そもそも十も年下のサシャだ。

何か思惑があるならともかく、純粋に頼られていると分かっていて、無下には出来ない。


「あ…、そ、そうね、じゃあ仕事終わりに声を掛けてみるわ。だから、ほら、仕事に戻って」

「はい。ありがとうございます!」


ホッとしたように笑顔で礼を言われ、そうして、オルガは今夜の相談役となってしまったのだった。




その日の仕事終わり、片付けを終えて厨房を出ようとしたエルナは、オルガに声を掛けられて、厨房の隣の広間にやって来た。

既に薪ストーブの火を落とした室内は、外よりは仄かに温かさが感じられるが、随分と冷えた。


何事かと構えたエルナに苦笑いして、オルガは粉のついた前掛けを外しながら口を開いた。


「寒いから、回りくどく話すのはやめるわね。サシャが心配していたわ。エルナ、何か悩み事があるの?」


聞かれたエルナは僅かに驚いた顔をして、震える唇を引き絞り、俯いた。


「私で良かったら聞くけれど……」


言いながら、やはり自分が相手では悩みを口にしたりはしないだろうと思ったオルガだったが、反してエルナは堪えきれないというように、胸を押さえて口を開いた。


「私……、私、結婚して欲しいって言われたんです」

「マイトに?」

「はい」

「……断りたいの?」

「いいえ!」


エルナはパッと顔を上げて首を振った。

いつも柔らかく肌に馴染んだ薄いそばかすがはっきりと見えるのは、心なしか顔色が白いからだ。


「いいえ、そうじゃありません。……でも、私、でも……」



エルナは先日の休み、マイトに求婚された。

首都で親戚が営む青果店を手伝うことになったマイトは、エルナに、結婚して一緒に行って欲しいといと言ったのだ。


エルナの父は既に亡くなっていて、あまり身体の丈夫でない母と、まだ未成人の弟の為、領主館で貰う給金のほとんどを家に入れている。

それ故に、家族を置いて遠くへ行く選択肢はなかったエルナだが、マイトは家族も連れて行こうと言った。


「向こうで、店を一緒に手伝ったらいいって。弟も下働きとして手伝いながら、勉強もしたらいいって……」


それはとても有り難い申し出だ。

未成人の頃から、下働きや職人見習いとして働く平民は多い。

しかし、ある程度のツテがなければ良い条件では働けないし、ましてや、未成人はよほどの事情がなければ住み込みでは働けないので、家から通うとなれば求める職場が見つかるのは稀だ。

エルナのように、成人してから住み込みで働き始めても、職場によっては過酷な環境に置かれてしまう。


エルナが最初に勤めた屋敷は酷かった。

充てがわれたのはカビ臭い部屋。

栄養も量も足りない食事。

上役の気分で増やされる仕事。


それでも家族の為に我慢していた時に見つけた領主館の下女の募集に、エルナは飛びついた。

運良く採用されて、厨房の下女として働くことは本当に楽しく、だからこそ、出来ることならずっとここで働きたいと思っていた。


「私、領主館ここを辞めたくないんです。ここがとても好きだから。それに、サシャのことも心配で……。あの子、私のことを頼りにしてるから、もし私がいなくなったりしたら、きっと」

「エルナ」


一旦話し始めると、言葉を止めることが出来なくなっていたエルナは、オルガに突然名を呼ばれて我に返った。

瞬くエルナの顔を正面に見て、オルガは小さく首を振った。


「あなたがこの職場を大事に思っているのは分かる。慣れ親しんだ環境を変えるのが怖いことも。だけどね、変化を避ける理由に、サシャを使っては駄目よ」


ヒュッとエルナが息を吸った。

オルガは僅かに苦笑して、畳んだ前掛けの紐を巻く。


「生きていれば、選択することばかりよね。『そんなの選べない』って、悩むことも多いわ。それでも、どんな時でも“他人の為”という理由で選んではいけないわ」

「……どうしてですか」

「上手くいかなかった時、後悔した時、その人のせいにしてしまうからよ」


オルガがベーカリー担当の責任者となるまでにも、多くの選択をしてきた。

その度に葛藤があって、この選択で間違いはないか、失敗したらどうしたらいいかと迷ったことは数え切れない。

それでも、自分が自分自身の為に選んだことならば、例え後悔する結果になったとしても、我が事として受け入れ、それをバネにしてまた進める。


だが、他人を口実にすれば、上手くいかなかったのは、自分のせいだけではないことになってしまう。

その相手が、もしも大事な人であったなら、その時の苦しみは計り知れない……。



オルガは前掛けをそっとテーブルに置き、エルナの目を見た。


「ねえエルナ、本当は、自分がどうしたいのか、もう分かっているんじゃないの?」


見開かれたエルナの青い瞳が揺れる。

唇が再び震えて、彼女は視線を落とした。


求婚を断りたいのかとオルガが聞いた時、エルナは迷わず『いいえ!』と答えた。

領主館で働き続けたいと思う気持ちも本当だ。

しかし彼女は、心の奥で、マイトと共に生きたいと願っている……。


「何をどう選んでも、絶対に後悔がないとは言えない。だからこそ、自分自身を見つめて、自分で先を決めるのよ……」


オルガは、エルナの肩にそっと触れた。





使用人宿舎に戻るエルナと別れると、オルガは暗い通用路を通って、領主館の通用口へ向かった。

料理長と結婚して、住み込みから通いに変わったからだ。


ふと、通用門にもたれて立っている大きな人影を認めて、頬を緩める。

ランプを手にして待っていたのは、調理服を脱いで上着を着た料理長だ。


「先に帰っていいと言ったのに。寒かったでしょう?」

「……こんなに暗い中、一人で帰せるか」

「過保護ね。家はすぐそこよ」


解いた赤茶色の髪を揺らし、オルガがくすりと笑う。

料理長が軽く肩を竦めて先に歩き出したので、後ろを付いて行こうとすると、大きな手を差し出された。

オルガがその手を取ると、しっかりと握られて優しく引かれ、彼の隣に収まった。


握り返してくれる手の平の感触と、側にある頼もしい腕は、オルガに何ものにも代えられない安らぎをくれる。



「……私、あなたと結婚することを選んで良かった」


オルガは小声で溢した。


これから先どんなことがあっても、この人と生きることを選んだことを後悔しない。

自分で選んだ未来だから。

きっと―――。


「君がずっとそう思えるように、努力する」


そう言った料理長の手が一度離れ、再び握り直した二人の指が絡まる。

オルガは笑みを深めた。



温かなランプの光は、夜の闇に閉ざされた道の先も、柔らかく、明るく照らしているのだった。




《 選択の先の光/終 》

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