アイリッシュ・パブと、音楽と
博雅
第一話 アイリッシュ・パブ、営業開始する
「じゃ、そろそろ開けますか、店長」
「店長?」
すると、
「あ、いや、すまない、ちょっと
「びっくりした。ご用事ですか。お店の切り盛りは任せていただいてもいいんですよ?」
店長は
「それには及ばないよ。
「なんだ、そんな事でしゃがんでたんですね」
「そんな事、って、そりゃないよエレンちゃん。『出来る男は
私はため息を大きく一つついて、
「そんな
「
接客業のプロとはいえ、50近い良い年のオッサンが、わがまま放題のこの始末である。
「はいはい、イングランドでもアメリカでも、行ってらっしゃいませ」
「フフフ、忘れていたのかいエレンちゃん。──何を、とは言わないが」
「忘れていた? 私が? 何をです?」
ウインクしながら店長は、
「じき、わかるさ」
と言って、カウンターのバーを揚げ、
「まったく……平日だからいいものの、今日はセッションの日なのに。
セッションとは、アイルランド伝統音楽を楽器を持ち寄って演奏することである。ちなみに、アイルランドの母語であるアイリッシュ・ゲール語でも、同じような発音をするそうだ。
「私が演奏できるのはティン・ホイッスルだけ…自信はほんの少しならあるけど、店員とはいえ
ティン・ホイッスル。
アイルランド伝統音楽といえばコレ、という、穴が6つ空いた縦笛。単にメロディを担当するのではなく、舌や吹き方、そして指の動きを駆使しながら、
(いつもなら店長に接客をまかせて楽器を吹けるけど…今日はどうかな、お客様の人数の具合で調整してみるか。急なメニューをお召し上がりになられるお客様もいてはるかもしれないし)
「今日いらっしゃるとしたら、いつもの常連さんだと、ジャックさん、タケルさん、メアリーさんにヴィクターさんかな」
一人ごちながら表に出、OPEN の看板を立てかける。
遠い目で店長の行く先を探していると、後ろから声をかけてくる男性がいた。
「エレンさん、こんばんは」
久々に見る顔──深堀りの顔つき、古き良きスコットランド紳士の服装に、真新しいハンチング帽をかぶった壮年の男性の姿がそこにある。背中にはごついケースをしょっていた。
「あら、お久しぶり、アランさん。今日もフィドルを?」
フィドルとは、アイルランド伝統音楽におけるヴァイオリンを指す呼び名だ。セッションにおいて主役を務める楽器の一つである。
「ああ。あ、そうそう、タケルが、やっと届いたパイプスを持ってくるみたいだよ」
パイプスとは、正式名称をイリアン・パイプスといい、アイルランドの伝統楽器、もといバグパイプのことだ。哀愁
カウンターを回り込んで接客の準備が整うと、私はいつもの飲み物をアランさんに出した。バニラクリームを多めに入れたアイリッシュコーヒーである。
「ヴィクターの野郎はまた遅刻かな」
コーヒーをちびりちびりと口にしながらアランさんが言う。幸いお客様はアランさんただ一人だ。雑談なら今しかない。
「そのようですね」
「南米で10年育って、ここグラスゴーに来たんだ、時間通りに来ないことが常識だ、っていう癖が抜けないんだろうよ」
「あちらのほうでは、あまり約束の日時ぴったりだと逆に怪しまれるんでしたよね?」
お客様にお出しする飲み物のグラスを拭きながら問う。
「そうだね。モノづくりでも、早く仕上げたりしたら駄目なんだ。でもそれは、じっくり仕事をしました、っていう誠意の見せ方の一つじゃないか。それはそれで素晴らしいと思うね」
「でも、ここグラスゴーも一応はイギリス領内。時間にはルーズであるのも南米と同様ではありませんか」
「まぁ、強弱の問題かもしれないね。タケルを見てごらん、彼は日本人だけど、時間にとても寛容的だ。人が行きかう
今夜のアランさんは、久しぶりにお会いするということもあってか、えらく
「おっと、メアリーが来たようだよ」
表を見ると、さっそく準備に取り掛からんとしたのか、すでにもうコンサーティナのハードケースを鞄から取り出す女性の姿があった。メアリーさん、34歳の音楽教師だ。コンサーティナもメロディ楽器の一種で、
「エレンさん、こんばんは」
「メアリーさん、はい、こんばんは」
「ふぅ、何とか間に合ったわね。電車がトラブってて」
「何かあったんですか?」
ハードケースを開けながらメアリーさんは、
「それがね、
「そうなんだ。かわいらしいトラブルですね」
二人して、ふふふ、と笑っていると、タケルさんが現れた。
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