アイリッシュ・パブと、音楽と

博雅

第一話 アイリッシュ・パブ、営業開始する

「じゃ、そろそろ開けますか、店長」


紅葉こうようが散りかける頃合いの夕暮れ時、都内某所ぼうしょのアイリッシュ・パブのカウンター越しに、店員である私、エレン・スピラーンは店長のパトリック・マクゴールドリックにそう語りかけた。だが、すぐ向こうにいたはずなのに、姿が見えず、返事もない。


「店長?」


すると、物凄ものすごい速さで店長が隙間すきまから立ち上がってこう言った。


「あ、いや、すまない、ちょっと野暮やぼ用を思い出してね」


「びっくりした。ご用事ですか。お店の切り盛りは任せていただいてもいいんですよ?」


店長はあごに出来たニキビを触りながら、


「それには及ばないよ。くつみがいてもらおうかどうか、悩んでいたんだ」


「なんだ、そんな事でしゃがんでたんですね」


「そんな事、って、そりゃないよエレンちゃん。『男は足元あしもとから』、って言うだろ?」


私はため息を大きく一つついて、


「そんなことわざだか格言だか、聞いたことがないですよ」


かく、ぼくは行かねばならない」


接客業のプロとはいえ、50近い良い年のオッサンが、わがまま放題のこの始末である。


「はいはい、イングランドでもアメリカでも、行ってらっしゃいませ」


「フフフ、忘れていたのかいエレンちゃん。──何を、とは言わないが」


「忘れていた? 私が? 何をです?」


ウインクしながら店長は、


「じき、わかるさ」


と言って、カウンターのバーを揚げ、意気揚々いきようようと通りに姿を消してしまった。


「まったく……平日だからいいものの、今日はセッションの日なのに。折角せっかくの…」


セッションとは、アイルランド伝統音楽を楽器を持ち寄って演奏することである。ちなみに、アイルランドの母語であるアイリッシュ・ゲール語でも、同じような発音をするそうだ。


「私が演奏できるのはティン・ホイッスルだけ…自信はほんの少しならあるけど、店員とはいえ臨時りんじ店長、接客をサボるのはよくないわ」


ティン・ホイッスル。

アイルランド伝統音楽といえばコレ、という、穴が6つ空いた縦笛。単にメロディを担当するのではなく、舌や吹き方、そして指の動きを駆使しながら、装飾音符オーナメンテーションという、演奏にアクセントや味付けを加える奏法などが楽しめる、単純たんじゅんきわまりない構造ながらも実に奥深おくぶかい楽器なのである。


(いつもなら店長に接客をまかせて楽器を吹けるけど…今日はどうかな、お客様の人数の具合で調整してみるか。急なメニューをお召し上がりになられるお客様もいてはるかもしれないし)


「今日いらっしゃるとしたら、いつもの常連さんだと、ジャックさん、タケルさん、メアリーさんにヴィクターさんかな」


一人ごちながら表に出、OPEN の看板を立てかける。

遠い目で店長の行く先を探していると、後ろから声をかけてくる男性がいた。


「エレンさん、こんばんは」


久々に見る顔──深堀りの顔つき、古き良きスコットランド紳士の服装に、真新しいハンチング帽をかぶった壮年の男性の姿がそこにある。背中にはごついケースをしょっていた。


「あら、お久しぶり、アランさん。今日もフィドルを?」


フィドルとは、アイルランド伝統音楽におけるヴァイオリンを指す呼び名だ。セッションにおいて主役を務める楽器の一つである。


「ああ。あ、そうそう、タケルが、やっと届いたパイプスを持ってくるみたいだよ」


パイプスとは、正式名称をイリアン・パイプスといい、アイルランドの伝統楽器、もといバグパイプのことだ。哀愁ただよう音色は、さながら、とめどなく流れ落ちるなみだ。一度聞いたものは生涯忘れることができないといっても過言かごんではない。


カウンターを回り込んで接客の準備が整うと、私はいつもの飲み物をアランさんに出した。バニラクリームを多めに入れたアイリッシュコーヒーである。


「ヴィクターの野郎はまた遅刻かな」


コーヒーをちびりちびりと口にしながらアランさんが言う。幸いお客様はアランさんただ一人だ。雑談なら今しかない。


「そのようですね」


「南米で10年育って、ここグラスゴーに来たんだ、時間通りに来ないことが常識だ、っていう癖が抜けないんだろうよ」


「あちらのほうでは、あまり約束の日時ぴったりだと逆に怪しまれるんでしたよね?」


お客様にお出しする飲み物のグラスを拭きながら問う。


「そうだね。モノづくりでも、早く仕上げたりしたら駄目なんだ。でもそれは、じっくり仕事をしました、っていう誠意の見せ方の一つじゃないか。それはそれで素晴らしいと思うね」


「でも、ここグラスゴーも一応はイギリス領内。時間にはルーズであるのも南米と同様ではありませんか」


「まぁ、強弱の問題かもしれないね。タケルを見てごらん、彼は日本人だけど、時間にとても寛容的だ。人が行きかう昨今さっこん、もう、『常識』っていうのは世界中では通じないんだろうね」


今夜のアランさんは、久しぶりにお会いするということもあってか、えらく饒舌じょうぜつだ。


「おっと、メアリーが来たようだよ」


表を見ると、さっそく準備に取り掛からんとしたのか、すでにもうコンサーティナのハードケースを鞄から取り出す女性の姿があった。メアリーさん、34歳の音楽教師だ。コンサーティナもメロディ楽器の一種で、ふいごを用いた、アコーディオンとハーモニカの中間のような音を出す伝統楽器である。


「エレンさん、こんばんは」


「メアリーさん、はい、こんばんは」


「ふぅ、何とか間に合ったわね。電車がトラブってて」


「何かあったんですか?」


ハードケースを開けながらメアリーさんは、


「それがね、微笑ほほえましいのよ。線路上に羊の群れがいたsheep on track、って車内放送があってね」


「そうなんだ。かわいらしいトラブルですね」


二人して、ふふふ、と笑っていると、タケルさんが現れた。

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