第5話 僕と先生の花

 その日の先生は少し体調が悪そうだった。


「大丈夫ですか?」


「うーむ、植物になってから生理がなくなって、楽だ楽だと思っていたが、これは重い生理痛に似ているな」


 十月の中頃になっていた。背中のつぼみはずいぶんと大きくなり、二十センチくらいに育っていた。そのふくらみが服の上からも少しわかるサイズである。


「……これは、そろそろかな?」


 先生はそう呟きながら生物準備室の窓を開けて顔を外に出し、秋分を過ぎて日没も早まった空を見上げた。僕も顔を出すと、東の空に昇り始めた満月が見えた。満月は澄んだ秋のひやりとした空気に冴え冴えとした色で白く輝いている。それを見ていた先生が不意に僕へと振り返った。


「八代くん」


「はい?」


 部屋の蛍光灯の光に半分陰る先生の顔が、僕をじっと見つめる。


「今夜は空いているかな?」


 僕は頷くことしかできなかった。



   ***




 先生の部屋は十五階建てのマンションの最上階にあった。


「たいしたもてなしはできんが、まあ、くつろいでくれ」


 ドキドキして先生の部屋に入った僕は、その惨状に思わず足を止めてしまった。


「この部屋でくつろぐのは……」


 玄関をくぐると床には大量の本やスクラップブックが積まれ、廊下の壁に沿って部屋の奥へと累々と続いていた。


「部屋の良し悪しは機能性だよ。部屋として機能すれば問題ない」


 先生は堂々たる態度でずんずん歩いていく。僕は書籍の山を崩さないように獣道みたいな書籍の隙間をそろそろと進む。


「機能してますか、これ?」


「よく見なさい。本の整理はされている」


 一見乱雑に置かれた本もタイトルを見ると内容別にきちんと分類されているらしい。単純に本棚不足のようだ。そしてリビングに着くと、そこの棚には本の代わりに動植物の標本が溢れんばかりに並んでいた。昆虫や植物の標本、小型哺乳類の剥製はくせいや骨格標本などはかわいい方で、ホルマリン漬けのヘビやサンショウウオにサルの脳みそなどの黒魔術的な標本類も陳列されている。どう見ても一人暮らしの女性の部屋の光景ではない。


「魔女の部屋だ」


「文句かね?」


「いえ。先生らしいよい趣味のお部屋だと」


「よろしい」


 頷きながら先生はベランダへ出た。僕も続いて吹きつける秋の夜風に身を縮めながら外に出ると、そこは広いテラスのような場所だった。


「うわ」


 この辺りで一番高いマンション最上階のベランダからは、眼下に広がる星明りのような街の景色が一望できた。


「雲はないな」


 見事な眺望に下を見ていた僕に対して、先生は空を見上げていた。くっきりとした満月が煌々と輝いている。


「ビデオはあるな?」


「は、はい」


 先生に言われてカバンからビデオを取り出す。僕が撮影の準備をしている間に先生が上着を脱いだ。


「あ」


 月光の下に先生の背中が見えた。白い背中。月明かりに照らされた背中には、大きな桜色の蕾があった。その蕾の先端がゆっくりと動いている。僕は慌ててビデオを回す。


「どうだ?」


「開き始めてます」


 先生の背中で花が咲こうとしていた。桜色の花びらの一枚一枚が、ゆっくりとめくれるように開いていく。


「ふふ、やはり月齢に呼応する花か。この花は満月に咲く花であるらしい」


 自分の予想の的中に先生が笑う。植物が月の満ち欠けに影響を受ける話は聞いたことがある。どうやら先生の花もその例に当たるらしい。


「どんな花だ?」


「蓮に似ています」


 蓮華のような花だった。何層にも重なった花びらが次々と広がっていく。僕は一心不乱にビデオを回した。


「どうだ?」


 先生が首だけを後ろにむけた。月の光が先生の白い顔から首筋にかけて淡い黒の陰影をつける。やがて花は短く白い雄しべと長く赤い雌しべを伸ばし、完全に開花した。


「綺麗です」


 僕は息を漏らした。その花があまりに見事だったから。きっと先生は「私に葉脈はあるが、血液など流れてないぞ」と否定すると思うけど、僕にはその花の鮮やかな桜色が、先生の血の色で染まっているように思えた。


「美しいか?」


 僕は熱に浮かされる気分で花を見つめながら先生の言葉に頷く。


「はい――」


 顔を近づける。花の匂いがした。熱に溶けた砂糖のように甘く誘う、艶やかな蜜の匂い。そこに先生の声。


「触れてみろ」


 花に触れる。ヒヤリとした触感。僕の熱を吸い取るように、花はしっとりと指先に貼りつく。先生の花。


「花粉を採取してくれ。そして、それを雌しべに触れさせてみてくれないか?」


 先生に言われるがまま、僕はその行為をする。雄しべを指で優しく弾き、花粉を手のひらに落とす。そしてその手を、雌しべへと運ぶ。


 花粉を帯びた僕の指が先生の雌しべに触れた。


「……よし」


 先生の頷きに顔を上げた僕を、月の明かりが照らした。月影を帯びる先生の横顔が僕を見ている。その横顔に微笑みが浮かぶ。


「ありがとう」


 その微笑みにほのかな桜の色を見たのは、僕の気のせいだったのだろうか。

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