僕と先生の花
ラーさん
第1話 先生が人間をやめていた
夏休みが終わると、先生が人間をやめていた。
「えーと、つまり先生は夏休み中に、その生物研究仲間からもらった、アマゾン産の新種の植物の種をうっかり吞み込んでしまい、そんな身体になってしまったと」
「さすが八代くん。よい呑み込みだ。それでこそ生物部の部長というものだ」
生物部の部室である生物準備室で顧問の三上先生は、白衣を射し込む夕陽にオレンジ色で染めながら、タイトなスカートからこれ見よがしに伸びた長く綺麗な脚を組んでイスに座り、優雅にコーヒーを飲んでいた。むかい合って座る僕はその姿を落ち着きなく見る。
「その、先生……」
「なんだね、八代くん?」
美人でセクシーでコーヒー好きな先生が、この挑発的でケシカラン脚組みをしながら、こだわり自家焙煎の香ばしいコーヒーを飲んでいるのはいつものことで、それは問題ない。しかし今の先生はこのコーヒーを非常に特殊な方法で飲んでおり、それが原因で僕はまったく落ち着くことができなかった。
「その、髪を使ってコーヒーを飲むのはやめてもらえませんか?」
先生はその長い髪を触手のようにうねうねと伸ばしてカップを持ち、当たり前のようにコーヒーを飲んでいた。
この呆れるほど非常識な光景の中で、先生の髪がイソギンチャクの触手のようにゆらゆらと揺れている。「八代くん」と、先生は困惑する僕に毅然とした顔で言った。
「世界には自分の想像を上回る物事というのがあるものだ。知的探求とはそうした事物に触れたとき、目を逸らさず冷静に対象を見つめることから始まる。つまり今がそのときだ。君が生物部部長としての使命を――」
そう
「そうですね。否定からは何も生まれないとは先生のお言葉です。ですから冷静に状況を受け止めるためにも、その髪で当たり前のようにお茶菓子をつまむのもやめて下さい!」
先生は話しながら伸ばした髪で小包装のクッキーを掴み、袋を二股に分かれた髪で器用に裂いて開けていた。
「ああ、すまん。慣れると便利で、ついな」
僕の非難の視線に先生はクッキーをそろそろと菓子受けに戻し、コーヒーも手に持ち替える。
この自在に動く触手のような髪は、先生曰く触手ではなく
「どうにもこの植物は種を飲み込んだ動物を植物に変えてしまうらしい。私の身体は細胞の遺伝情報を基に筋繊維、骨繊維、皮膚繊維などの体組織が植物細胞に変換されたようなのだ。研究の結果この体組織の組成には非常に特殊なセルロースが合成されていることがわかった。それぞれの部位の強度や触感はもとより、形状や容姿までも寸分違わぬ再現度で再構築している。これは寄生と擬態を同時に行い、植物の繁殖領域拡大のために最も重要となる移動の問題を解消するための進化なのだろう。つまり宿主の動物がそれと知らずに植物になり、移動を行うことで広範囲に種子を拡散させることが……」
「……先生、素朴な疑問なのですが」
先生の長々しい説明を遮って質問する。
「なんでそんな怪しいものを食べたんですか?」
先生が手元のコーヒーに視線を落とす。
「ちょっとな。栄養価は高いとの分析だったので、味のほうはいかほどかと」
それでクルミよろしくハンマーで小さく砕いてヨーグルトと一緒に食べたらしい。
「まさか粉砕されても芽が出るとは、栄養価が高いだけあり生命力も……ああ、待ちなさい」
無言で立ち去ろうとした僕の腕を、先生の髪が掴み止める。
「髪で引っ張らないでください!」
「まあまあ、後ろ髪を引かれると言うではないか」
「後ろ髪で引いてるんですよ! なんですか人外って! なんですか!」
僕はただただ呆れていた。前から変人だとは思っていたが、変人の範疇を超えて人間やめるとか本当なんなのだ。
「まあ、そう言うな。先生はだいぶ面白いことになったが、そこで君に頼みたいことがあるのだ」
先生の大きな瞳が僕の目を覗き込む。僕はぐっと息を呑んだ。先生が少し首を傾けてニコリと微笑む。
「私を観察してくれないか?」
そうやって面倒事を頼む仕草は、いつもの先生と変わらないものだった。
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