サマー・レガート

雪村灯里

『サマー・レガート』 夏瀬 透花

#1 夏の幽霊

「あっつ~」


 重いスクールバッグを机の上に置き、コンビニで買ったパックのジュースを取り出して、ストローを刺す。喉を潤しながら、いつものように目を瞑り耳を澄ませた。


 生ぬるい風に乗って、運動部が練習する声が聞こえる。けど、私が楽しみにしていた音は聞こえない。軽くため息を吐いて、ぽつりとこぼす。


「何を期待してるんだろ?」


 黒く伸びた髪を後ろで高く結い、制服が汚れないように帆布はんぷのエプロンを身に付けた。筆洗ひっせんバケツに水を入れ、筆とパレットを取り出して気合を入れる。


「よし! 描こう!」


 私は夏瀬なつせ透花とうか。美術部に所属している高校二年生だ。


 うちの部美術部は夏休みの活動がない。10月の文化祭に向けて展示する絵を準備するのも夏休み明けだ。でも私は美術室に忍び込み作品制作にいそしんでいた。


 イヤホンを着けて音楽を聴きながら、私は黙々と描く。額にジワリと汗をかき制服にも汗が滲む。スカートを太ももまでたくし上げ、涼を得る。

 先生方は夏休みの間、冷房が効いた新棟の職員室で仕事をしている。暑い旧棟ここには来ることが無い。なので、だらしない姿を見られる心配もない。


 しかし、私の思惑は簡単に裏切られる。教室の引き戸がガラリと開いた。


(嘘でしょ!?)


 慌ててスマホを鞄に突っ込み立ち上がる。入口を見ると、そこに居たのは小学生くらいの男の子だった。


 だが、驚きと恐怖で、私の時間は止まる。


 Q:なぜ、自分よりも幼い子供に恐怖を覚えるのか? →A:それは、彼がこの世の者とは思えない程、美しい。


 色素が薄い髪の毛は、窓から差し込む光を受けて淡いブラウンの光を宿した。人形のように整った顔と、見透かすような目。半袖から伸びる夏を知らない肌。少年少女特有の中性的な儚さが彼を現実から遠ざけた。


(まさか幽霊?)


 この学校にも怪談がある。でも、こんな昼間から? 『幽霊じゃない』そう言い聞かせながら声を掛けようとした……が、逆に向こうから声を掛けられた。


「お姉さん、何してるの?」


 私は狼狽ろうばいしながら素直に答える。


「え、絵を描いてる」


 私は右手に筆を掲げ、左手でイーゼルに立てかけた絵を指差した。

 一瞬の静寂の後、彼の目の中に感情が宿った。その感情の名は“好奇心”。

 彼は猫のようにするりと教室に入ってきた。私は驚きつつも彼に絵の正面を譲る。


「鳥だ! 綺麗だね」


良かった、人間だ。でも……そんなキラキラした目で、面と向かって褒められると照れくさい。


「あ、ありがとう。ねぇ、君は誰? 先生のお子さん??」


 可愛い侵入者に尋ねた。私も生徒とはいえ無断で部活動をしている侵入者に過ぎない。なので私の存在がバレるのは避けたい。


(そうだ!買ったお菓子を彼に献上して口止めしよう。さぁ誰の子だ?)


 ……しかし彼の答えは意外だった。首を横に振り私の質問を否定する。


「僕は神木かみき龍巳たつみ


 神木。理事長と同じ苗字だ、それにその息子である親友とも。親友の名前は神木大河たいが。クラスで席が隣同士になり、意気投合してよくつるんでいる。


(大河の弟? あいつに弟いたかな? 話なんて聞いたこと無いけど……)


 万が一があっても困るので平常心を装い、笑顔で少年に尋ねた。


「ねぇ、もしかして龍巳君って、お兄ちゃん居る?」

「いないよ。一人っ子」


 私の質問に簡潔に答えると彼は椅子に座り、絵を食い入るように見つめた。


(何者だろう? でも私の事を話さない様に約束を取り付けなくては!)


「そっか~龍巳君、生徒以外は勝手に学校に入っちゃダメだよ。あと、お姉さんのこと秘密にしてもらえるかな?」

「なんで?」


 『私も勝手に学校に入っているからだよ』なんて言えない。私は精一杯明るく取り繕った。


「えっと、その……お姉さん幽霊だから」


 我ながら痛い言い訳に後悔した。流石さすがに小学生でも私が幽霊でないことは分かる。よりにもよって幽霊なんて、絶対馬鹿にされる。


「幽霊……。わかった、秘密にする」

「いいの!? ありがとう!」

「そのかわり、絵を教えてよ」

「は?」


 交換条件を放ってきた。彼の口元はニヤニヤとしている。しかも絵を教えろって……


「トーカさん教えて?」

「なんで名前知ってるの!?」


 動揺する私とは逆に、彼は冷静に私のカバンに付いたパスケースを指差す。

 ぬいぐるみ状のケースがひっくり返り、裏面に入っている定期券が見えていた。そこには私のフルネームが書かれている。


(この子、小賢こざかしい)


「教えてくれる? 僕、絵がヘタで図工の時間が辛いんだ。教えてくれたらトーカさんがスカートまくって絵を描いてた事、秘密にする」


 図工の時間が辛いのは可哀そうと思ったけど、スカートのくだりで私は頭を抱えた。無断侵入したならまだしも、そんなことをバラされたら痴女として噂が広がってしまう! 小学生に言われたらもっと問題だ。

 お菓子で口止めしようにも交渉材料が弱すぎる。憎らしげに彼を見ると、余裕の笑みを返してきた。彼の条件を飲むしかない。心の中で歯ぎしりする。


「分かった、教える。でも夕方には帰るからね!」


 正確には『他の文化部が帰る前に退散する』です。


「ありがとうトーカさん! よろしくね」


 こうなればヤケである。

 そんなこんなで、私と彼の夏の絵画教室が幕開けするのであった。

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