もしも。何もしなくて良いなら

星咲 紗和(ほしざき さわ)

第1話 すれ違う音

都会の喧騒の中、夕方の雨が静かに降り始めた。アスファルトに叩きつける雨粒の音が、街を包み込む雑音をかき消している。主人公の彼女は、駅前のカフェに滑り込むように駆け込んだ。傘を忘れたせいで髪も服もすっかり濡れていた。


「いらっしゃいませ」と店員が声をかけるが、彼女はそれに答える余裕もなく、窓際の席に腰を下ろす。暖かいコーヒーを頼み、カップを両手で包み込むと、じわりと冷えた体が解けていくようだった。彼女はため息をつき、窓の外をぼんやり眺めた。


通りを行き交う人々は、みな忙しそうだ。彼女自身もその一人だった。仕事に追われる毎日。決められたスケジュール。頭の中には、終わらないタスクが山積みだ。この時間も、本当はこんな風に過ごしている場合ではないのだろう。でも、どうしても足を止めたかった。何も考えずに、ただじっとしていたかった。


「疲れた顔ですね。」

ふいに隣から声がした。彼女は驚いて振り返ると、そこには見知らぬ男性が座っていた。40代くらいだろうか。スーツは少しヨレていて、無造作に置かれた鞄にはくたびれた印象がある。


「…そう見えます?」彼女は苦笑いで返す。


「僕も同じ顔をしてるんだと思います。だから、なんとなく分かりました。」


不意の会話に戸惑いつつも、彼女は不思議と嫌な気持ちにはならなかった。それどころか、この雨音とカフェの空間に、どこか共鳴するものを感じていた。


「よく来るんですか、このカフェ?」彼が続けて尋ねる。


「いえ、たまたまです。傘を忘れてしまって。」彼女は控えめに笑った。


「それなら、僕と同じですね。雨の日はついここに逃げ込んでしまいます。」


二人はそれ以上は深く話すことなく、それぞれのコーヒーを楽しむ。けれど、互いに同じような疲労感と孤独感を抱えていることが、沈黙の中でも伝わってきた。


外の雨が強くなり、窓ガラスを伝う雨粒が街の灯りをぼやけさせている。時間はゆっくりと流れ、彼女は初めて「何もしない時間」を許されたような気がした。彼と過ごすその静かなひとときが、何か特別なものに思えた。


やがて、雨が小降りになり、彼女は立ち上がった。「それじゃ、そろそろ…」と軽く会釈をする。彼も立ち上がり、彼女の動きを真似て小さく頷く。


「また、ここで会えるといいですね。」彼の言葉に、彼女は少し驚きながらも微笑んだ。


「ええ、そうですね。さようなら。」


カフェを出ると、彼女は振り返らずに歩き出した。その後ろ姿を見送る男性の目には、一瞬の寂しさと、どこか安堵の色が混じっていた。


雨上がりの街は再び喧騒に包まれ、二人の姿はそれぞれの中に消えていった。

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