ワニ男

テクパン・クリエイト

ワニ男

峠の夜は暗い。

何処までも続く暗闇の中、闇夜の峠道を走るタクシードライバーにとっては、自分が運転しているタクシーのヘッドライトだけが頼りだ。


そのヘッドライトが、道路に長々と伸びる何かを照らし出した時、運転手は心臓が止まるかと思う位にどきっとした。

慌ててブレーキを踏む。

車を止めて降りて確かめてみると、道路に横たわっていたそれは人だった。しかも微かに息がある。

慌てて抱え起こすと、その人物…浮浪者然とした老いた男だった…は息も絶え絶えに口走った。

「水を…」

肩車をしてタクシーの後部座席に寝かせ、水分補給の為に買ってあったミネラルウォーターのペットボトルを口にあてがってやる。と、老人は運転手の手からペットボトルを奪い取るようにして受け取り、あっと言う間にペットボトルの中身を飲み乾してしまった。

飲みきると同時にがくっと肩を落とし、それから深く息を吸って吐く。やがて老人は、呆気に取られている運転手に向き直ると頭を下げた。


「助かりました。ありがとう」

「いや、元気になられたようで良かった。所処で、こんな時刻にこんな山の中で何をしていたのです」


運転手の問いに老人は暫く口籠っていたが、やがてポツリと呟いた。

「この山の中にある湖に行きたいと思いましてな」

「湖…?」

鸚鵡返しに運転手が問い返すと、老人は更に言葉を続けた。

「ええ、この山の中腹にある湖です。そこを目指そうと思って道に迷ってしまって…」


確かに、この峠を越えた先に湖がある。

観光スポットとして昼間は大勢の人が集まるそこそこ有名な場所だ。

然し、湖に行ってこの老人は何をするつもりなのだろうか。


(まさか自殺でもするつもりじゃ無かろうな)


運転手が訝っていると、老人は一度軽く立ち上がってから改めてタクシーの後部座席に腰を下ろし、運転手に向かって哀願した。

「運転手さん。貴方、商売柄この辺の地理に詳しいでしょう。湖の事を御存知ありませんか」

「この峠の向こうです」

運転手が正解を即答したのは、老人の見開かれた目が只事じゃない光を呈していたからだった。

「お連れしましょう。料金の事は心配しないで下さい」

運転手は自分でも訳が判らぬまま運転席に戻り、『賃走』のランプを消した。


それから10分。

タクシーは老人が目指す『湖』に到着した。


夜の闇に、湖の水面を走るさざ波だけが月光を反射して煌めく。

老人と運転手は、その湖の岸辺に並んで立っていた。

「…この湖に、何の御用なんです?」

やや落ちつきを取り戻した運転手が、老人にそう問いかけると、老人は振り向きもせずに答えた。

「多量の水がある場所でないと、私は家に帰る事が出来んのです」

おかしな事を言うな…と運転手が怪訝な表情を見せていると、そこで初めて老人は振り向いた。


「貴方は命の恩人だ。お礼と言っては何ですが、ちょっと私の家に来てみませんか」


老人のその言葉が終ると同時に、老人の顔が急にぐにゃぐにゃと変化し始めて、運転手は腰を抜かしそうになった。

粘土か何かのように波打つ老人の顔は、いつの間にか唇が長く伸びて長い吻になり、上下の顎には鋭い歯がずらりと並び、ごつごつとした鱗状の皮膚が顔中を包み込む。


…そう、老人の顔は、瞬時にしてワニのそれに変貌したのだった。

運転手はあまりの出来事に、その場で気を失って倒れてしまった。


どれ位の時間が経っただろう。


運転手は見知らぬ場所の、清潔なベッドの上で目が覚めた。

「此処は…」

「御目覚めかね」

運転手が振り向くと、そこにはさっきの老人…否、二本足で立ちあがり、人間のように服を着用している大きなワニが立っていた。

「うわ、あわわ」

「慌てなさるな。命の恩人を傷つけるほど私は短慮では無い。それに私はこう見えてもデリケートで傷つきやすいのですぞ」

「いや、これは済みません」

頭を掻いて謝罪する運転手は、不思議とこのワニ男の事が怖くなく感じて来た。


運転手が起き上がると、ワニ男は峠で倒れるに至った理由を語ってくれた。

曰く、ワニ男の一族は『水』さえあれば自分の住んでいる世界と人間の世界を自由に行き来出来るのだと言う。この度はその能力を使って日本に観光に来たのだが、目的地に着かぬうちに路銀と旅の荷物を泥棒に盗まれてしまい、一先ず自宅に戻ろうとあちこちさ迷った挙句、峠で倒れたのだと言う話だった。

「一時は本当にどうなるかと思いましたぞ。助けて下さって本当にありがとう。それで…」

「それで?」

「助けて頂いたお礼がしたいので、ちょっと隣の部屋に御同席願えるかね」

お礼なんて…と固辞する運転手に、是非に受け取って欲しいのだとワニ男が強調するので、仕方なしに運転手はワニ男と共に隣の部屋に入った。


そこには信じ難い光景が広がっていた。


天井が高い部屋には窓が無く、四方の壁には何と、人間、あらゆる哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類…実に種々雑多な動物の首が飾られていたのである。

「これは…!」

「私の仕事は、水難で死んだ動物の魂を管理する事、そして遠からぬ未来に水難で死ぬ運命になっている命を管理する事。この部屋にある首級はそうした動物や人間の魂なのです。助けて頂いた謝礼として、これらの中からひとつだけ、貴方に差し上げましょう。活かすも殺すも貴方次第ですぞ」

運転手は息を飲んだ。

ワニ男は、無造作に壁の動物の頭の中から鹿の頭を指差した。

「これなんかどうです。鹿肉料理は美味いですからな」

「生憎、私は猟師じゃないものでして」

運転手は度肝を抜かれながら、それでも壁中の生首をつげつげと見比べていたが、やがてその中に見覚えのある顔を見つけた。

それは、如何にも陰険そうな顔をした中年男性の首級だった。

「これだ、これが良い」

「ほう。何でまたこんな冴えない風体の男の首なぞ」

「こいつは私の、以前の職場の上司なんです」

意外なカムアウトにワニ男は目を丸くする。

「以前の職場に居た頃は本当にパワハラが酷くて…この上司には何度酷い目に遭わされた事か!」

運転手は涙を流しながら過去のパワハラについて語り始めた。ワニ男は黙ってそれを聞いていたが、運転手の述懐が終わると頷いた。

「委細承知しました」

ワニ男は例の中年男性の首級を無造作に指差し、運転手に向かってきっぱりと宣言した。

「これから陸地まで送って差し上げましょう。数日後には、此処での出来事が夢じゃ無かったと知るでしょう」

その言葉を聞き終わるか終らないかの内に、運転手の意識は突然ぼうっと遠くなって、何が何だか判らなくなった。



気がついてみると、運転手はあの湖の岸辺に止められたタクシーの運転席で寝ていた。

起きて辺りを見渡すと、あの老人の姿は何処にもなく、ただ後部座席には空になったペットボトルが転がっているだけだった。


運転手は、あの日の出来事が夢かどうか判らぬまま日々の暮らしに戻った。



そのまま暫くは何事も無く過ぎて行ったが、ある日、運転手の元に一通の手紙が届いた。

それは、以前の職場の同僚からのものだった。

急にあの日の晩の事を思い出した運転手は、大慌てで手紙を広げて読んでみた。そして愕然とした。


その手紙には、くだんの上司が海沿いの道でドライブ中にカーブを切りそこね、崖から落ちて死亡した事を告げる内容が記されていた。

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