こども食卓

ひゃくねこ

こども食卓

 この辺りで一番大きい交差点に差し掛かると、信号は赤だった。

 スクランブル方式の交差点には、たくさんの車が行き交う。タクシーやバスが連なって入ってくる。右折待ちのタクシーは前の車がモタモタすればクラクションをためらわない。バスは横転するのではと思えるようなスピードで右折レーンに侵入し、そして曲がっていく。


 そんな風景を僕は、ぼんやりと眺めていた。


「歩行者はもっと後だな」


 今、車用の信号は正面向けの進行方向が青だ。次は進行方向が変わり、動いていた車たちが停まり、停まっていた車たちが動き出す。歩行者用の信号が青になるのはその後だ。


 そんなどうでもいいことが頭の中を支配する。


「ふぅ、もういっそ、ずっと赤ならいいのに」


 会社に帰るのは憂鬱だ。営業の帰りはいつもこう。

 お得意さんへの営業だって、いつもいい顔をされる訳ではない。値引きされることもあるし、書類のミスをしつこく追求されることもある。

 新規の顧客開拓が目標の今月は、これに飛び込み営業が加わる。誰とも分からない男が突然「失礼します!お邪魔いたします!」なんて入って来たって「お前誰だよホントに邪魔だよ出てけよ」って顔しかされないんだ。

 そうやって何軒も回って好感触をもらえれば御の字、もう一回行けば信頼してもらえるかな。問題は会社に帰ってからだ。

 くたくたになって帰っても、上司はねぎらってなんかくれない。


「また今日もスカか。今月新規が1件もないのお前だけ。後輩のAだって1件取ってきたんだぞ。大体お前は・・・」


延々と続く指導という名の説教、嫌み。


-なんなんだよ。普段の仕事ならオレ以上の成績のヤツいないだろ。飛び込み営業は下調べも大事だけど運もあるんだから・・


 会社を出る。

 ずいぶん遅くなった。

 どうせ残業代は出ない。

 自分の裁量の範囲だから。

 どうせそういうことだ。


 もう僕の思考は箇条書きのようだ。


 重い足を引き摺りながら、ゆっくりと横断歩道を渡る。頭の中に、嫌みを並べたてる上司の顔が浮かんだ。それを切っ掛けに、様々な上司の表情が頭に浮かぶ。


 僕を叱責する上司。

 僕の肩を掴む上司。

 後ろに立つ上司。

 嫌な笑みの上司。

 メシを食う上司。

 立っている上司。

 息をする、上司。

 上司、上司、上司、上司上司上司上司上司上司上司・・・

 ハッと気がつくと、僕はコンビニで週刊誌のページをめくっていた。


-あれ?オレはさっき、交差点の横断歩道を渡って・・・あれ?


 時計を見ると、午後10時を回っている。会社を出たのは午後8時過ぎ、あの交差点は会社のすぐ側だから、2時間近く歩き回ってたことになる。電車に乗らなきゃならないのに、ここは駅と反対の方向だ。


「オレ、もしかして病気なのかな」


 声にならない声でそう呟いて、僕は週刊誌を閉じ、缶コーヒーだけ買ってコンビニを出た。


「ああ、星は綺麗だな」


 見上げると満天の星だ。明るい都会の夜では見たことのない星空。


-今夜は、新月か。


 そう思った視界の端に、小さな紙切れが映った。

 ひらひらと舞いながら、それは僕に向かって落ちてくる。

 僕は少しよろけながら、その紙切れを掴んだ。


「・・・こども・・・食卓?」


 ”こども食卓”、紙切れにはそう書いてあった。


「どなたでもご利用いただけます。お困りの際はぜひどうぞ。有効回数、2回・・・か」


 僕はその紙切れに書いてある文字を口に出して読み、表裏しげしげと眺めてみた。


「う~ん、どこかの子ども食堂のチケットだろうなぁ。でも、食堂の名前が書いてないんじゃ、どう使えばいいんだか」


 使おうにも使えないそのチケットを、僕は捨てようかとも思ったけど、なぜか優しい心がこの紙切れに詰まっているように感じて、ポケットに仕舞うことにした。


「とにかく、かえろ」


 僕は辺りを見渡し、最寄りの駅に向かった。



「すっかり遅くなっちゃった。はぁ、お腹すいた」


 僕がアパートに着いたのは、もう日付が変わろうとする頃だった。

 鍵を取り出そうとポケットに手を突っ込むと、鍵と一緒にあのチケットが出てきた。


「ああ、そうか、こども食堂のチケット、拾ったんだった」


 僕はドアの鍵を開けようとしたが、ふと思い付いて、チケットを宙にかざした。

 アパートの前の街灯には、たくさんの虫が群がっている。僕は街灯の眩しさに目を細めながら、ひと言呟いてみた。


「ああ、なんでもいいから、食べたいなぁ」


 その行為は現実逃避とも言える。僕はそれに気付いて、不思議と笑いがこみ上げてきた。


「なにやってんだか。オレ、ホントに病気かも」


 僕はドアを開け、部屋に入った。


 ”とんっ”


 なにかに突き当たった感覚に、僕は思わず目を瞑った。だがそれも一瞬で、つんのめりながら玄関に入る。


-あれ?なんで?家の電気、なんで点いてるの?もしかして、空き巣?


 僕の疑念は次の瞬間、あっけなく晴れた。


「・・・あ、かあちゃん?」

 キッチンにいたのは、紛れもなく僕の母親だ。だけど・・


「マサキ、なぁにこげん遅うに、はよ座らんね。ご飯できとぅとよ」

「あ、うん!かあちゃん、はらへったぁ~、今日のご飯はなんね?」

「マサキが好いとうとが良かろうと思うて、オムライスにしたったい」

「わぁーー!オムライス?やった!」

「よかろ?ほら、はよ手ぇば洗うて、座らんね」

「うん!かあちゃん!」

「どうね、おいしいね」

「うん、おいしい!でも、卵がフワフワでトロトロって、よくテレビで出てくるの、かあちゃん、あれは作りきらんと?」

「あぁ、あげんとはかあちゃんには無理よ。マサキはあんなのが好いとうとね?」

「ううん、これが良か。いつもの薄い卵のやつ。テレビのは美味しそうばってん、これが良かよ」


 無心に食べる僕を見て、かあちゃんは嬉しそう。


「ところでね、マサキ、あんたは大きくなったら、何がしたいと?」

「うん、僕はねぇ、テレビのオムライスを作れるような人が良かったい」

「へぇ、料理人ね?」

「うん!料理人?え~っと、シェル!!」

「あはは、マサキ、シェルって何ねシェルって、シェフやろ!」

「あぁ、そうだ、シェフだ」


 かあちゃんが笑ってる。僕も笑ってる。

 オムライスは美味しい。薄い卵焼きに包まれた、真っ赤なチキンライスのオムライス。

 僕は小学3年生、かあちゃんは今年、えっと、何歳になるんだっけ。


 何歳だっけ。

 僕はハッとして周りを見回した。

 電気の点いていない部屋を、窓から差し込む街の灯が照らしている。

 今の今までオムライスが置かれていたはずのテーブルには、もちろん何も置かれていない。だけどテーブルの横に座っている僕は、なぜかスプーンだけを持っていた。


「かぁちゃんっ!!」


 呼んでみたが、母が居るはずはなかった。時計を見ると、時刻は午前1時を回っている。もう1時間、僕はこうして座り、幻を見ていたのか。

 だけどあの母の姿、きっと30代後半の姿だ。そして幻の中の僕は、小学3年生。


「あぁ、オレはきっと、病気なんだ」


 僕は両手で顔を覆い、そう呟いた。

 覆う手の隙間から、涙が流れた。



「今日もクタクタのズタズタだ」


 夕方6時、僕は相変わらず重い足を引き摺って駅に向かっていた。

 今日は外回りの後、会社に戻ってすぐに早退したのだ。昨日のこともあったし、体調不良がその理由。早退と言っても、会社を出たのは午後6時前だが。


「今朝はよく目が覚めたもんだ。あんな幻を見て、ホントなら病院に駆け込むレベルだろ」


 実際、深夜1時過ぎまで幻を見てそのままメシも食わず寝てしまったのだから、起きられなくても不思議ではなかった。だが、それよりも不思議なのは、腹が空いていなかったことだ。


「なんか、鬱病とかになると食欲がなくなるって聞いたことがあるけど、あれなのかなぁ。でも、なんか腹いっぱいだったんだよなぁ。それにあのオムライスは、幻とは思えないくらい美味かった」


 歩きながら独り言を呟く僕の脳裏に、昨夜の場面が浮かぶ。


「かあちゃんの顔なんて、久しぶりに見た気がする。それにオレ、小学生の子供になってたなぁ」


 そう呟いた自分の言葉に、僕はハッとしてポケットをまさぐった。


「あった、チケット」


 僕はポケットからくしゃくしゃのチケットを取り出し、恐る恐るひろげてみた。


「こども食卓・・どなたでもご利用いただけます。お困りの際はぜひどうぞ。有効回数、1回・・・いっかい?」


 昨晩、このチケットを拾ったときは、有効回数2回だった。それが1回になっている。


「まさかな、昨日の晩、1回使ったってことか?まさかな」


 僕はその言葉を呪文のように繰り返しながら、家路を急いだ。



 アパートのドアの前で、僕はチケットを握りしめている。


「えっと、昨日はこれをかざして、なんでもいいからって言ったんだけど、うん、決めた」


 僕はチケットを宙にかざし、しっかりとした口調で唱えた。


「オムライスが食べたい」


 僕はアパートのドアを開けた。

「マサキ、最近はどうね、勉強は上手く行っとっうとね?」


 やはり母がいる。いるはずのないキッチンで、僕のために夕食を作ってくれている。昨日の母は40前くらいだった。でも今日は・・・


「勉強て、かあちゃんには関係なかろ?ちゃんと高校は卒業できるし、心配はいらんとよ」

「それはそうばってん、大学はどうするとね?今どき高卒じゃ、いいところの就職は無かとよ?」

「そげんことはなか!それにお金はどうすると?オレはすぐ働きたいとよ。かあちゃんはそげなこつ、心配せんでよかたい!」


 母は呆れた顔をして、僕の前にオムライスが乗った皿を置いた。


「ん?かあちゃん、これは、なんね」

「ははは、オムライスったい」


 母が作ったオムライス、それはフワフワのトロトロの、テレビでよく見るオムライスだった。


「マサキはこういうのが食べたかろう思うて、かあちゃん練習したったい。時々作ってみて、全然成功せんかったけど、最近上手くなったとよ。ほら、食べてみらんね」


 僕は言われるままスプーンを取って、口に運んだ。

 美味しい、ふわふわの、とろとろ。でも・・


「かあちゃん、おれが食べたかったのは、こういうのじゃなかとよ」

「な・・なに贅沢ば言うとっと、かあちゃんは一生懸命・・」

「ちがう!おれが食べたいのは、食べたかったのは、これじゃなか!」


 僕は手に持ったスプーンをテーブルに叩き付けた。

 赤子のように、子供のように、糞ガキのように。


 かあちゃんは僕を見つめている。何か言いたげだが、その瞳は・・

 僕はハッとして周りを見回した。


 電気の点いていない部屋を、窓から差し込む街の灯が照らしている。

 今の今までオムライスが置かれていたはずのテーブルには、もちろん何も置かれていない。だけどテーブルの横に座っている僕は、なぜかスプーンをテーブルに叩き付けていた。


「あ・・・かあちゃん」


 呼んでみたが、母が居るはずはなかった。

 今にも零れ落ちそうに、瞳に涙を溜めた母は。


「あ・・・あ・あ・ああああ」


 僕はなんてことを言ったのか。

 僕のために、ずっと僕だけのために働いて働いて、そして大学まで出そうとしてくれた母に、僕はなぜあんなことを言って、そして家を飛び出してしまったのか。


「そ、そうだ、チケット!」


 僕はポケットをまさぐってチケットを取り出した。

 だがチケットは、ホロホロと灰のように崩れ落ちて、手の中で消えた。


「ああぁぁああ、あぁぁああああーーーっ!!」


 僕は頭を抱え、朝まで泣いた。



 朝、出社した僕は、会社に辞表を出した。


 天を仰ぐ。息を吸う。息を吐く。


 当たり前のことは当たり前に出来ると思っていた子供の頃。

 当たり前のことが当たり前に出来ないと知った大人の時間。


 僕はスマホを取り出し、電話を掛けた。


「ああ、かあちゃんね。今から帰るから」


「急になんねて、帰ってから話すから、今は良かやろ」


「うん、オムライスが良か。薄い卵のと、ふわとろの」


「うん、オレがふたつ食べるから、うん、良かよ。じゃあね」


 僕は母の歳を思い出した。

 そして僕の、やりたいことも。


 駅に向かう僕の足取りは、もう軽い。


 子供のように、軽い。




こども食卓  了

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こども食卓 ひゃくねこ @hyakunekonokakimono

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