第2話 パリピがいた
予想どおり、何も思いどおりにならない長い一日だった。
第四営業部から回って来た書類に変更が生じたので差し替えたいと連絡が来た。昨晩一生懸命チェックしてコメントをつけて上司に回付した書類をあっさり差し替えられてしまい、また一からやり直しだ。どこが変更されたのかを教えてくれれば一から見直さなくて済むのにと心の中で文句が浮かぶが、すぐに打ち消し画面を見始める。めんどくさい仕事だ。
「谷野くーん」
集中し始めた頃、同じ課の三年ぐらい先輩である綾田が長い髪をサラサラと靡かせながらやって来た。近くに来ると漂ういい香りが香水なのか柔軟剤なのか、達樹は知らない。距離感がバグっているというか達樹と違っていて、その長い髪が時々頬を掠めてくる程度には近い。いつもとても近い。今日も近い。視界の隅に長い髪を収めながら、もしかしたらこのいい香りはシャンプーなのかもしれないと今日初めて気が付いたがこの際どうでもいいことだ。綾田はタブレットを達樹の前に差し出した。
「これ、谷野くんにお願いしていい?」
「この報告書ですか」
「うん、昨日私が回付しておいたんだけど、課長が谷野くんにもフォローしてもらった方がいいって……やだぁ、そんな怖い顔しないで」
「いえ、怖い顔なんてしてないです」
怖い顔とはあまり言われたことがないな、と思いながらタブレットを覗く。何を考えているか分からないとか、クールだとか、話を聞いているのかとか、だいたいその辺が達樹の表情評だ。
そして画面を覗いて見ればまあ確かに、達樹が担当している第四営業部の報告書ではある。でもこの類いの報告書は別に誰が担当してもいいものだったはずだ。またか、と思わずため息がこぼれそうになるのをかろうじて抑え達樹は頷いた。
「……分かりました。転送してもらっていいですか」
「わあ、ありがとう。助かる」
声が高い。どうせろくに中身を確認もせず回付したのだろう。
綾田という女性は見た目は綺麗なのだが仕事はあまり綺麗ではなく、頑張っているような仕草で日々を過ごしてはフォローと言う名の二度手間を周囲に強要する。いい香りで距離感を詰めれば男が引き受けてくれると思っている、と愚痴っていたのは誰だったか。少なくとも達樹はいい香りやサラサラの髪にやられるのでなく断るのが面倒なだけだが、まあ、引き受けてしまうのは事実だ。達樹の返事にすっかり気をよくした綾田は足取りも軽く自席に戻り、いそいそとキーボードを叩き始めた。と、早速チャットの通知が達樹の画面に現れる。
「お礼にランチご馳走しちゃおうかな」
転送されてきたファイルにくっついているメッセージはハートの絵文字で締めくくられていて、達樹の心をどんよりと沈める。
めんどくさい。ランチを人に奢るぐらいなら初めからきちんと自分でこの報告書を片付ければいいのに。でも誘われたなら行かなければならない……と思ったところでこの報告書の回付期限が今日の十三時という記載を見つけた。それは急がなければ、焦ると同時にランチを断るとても良い口実が出来てホッとしてしまった。
そんな風に仕事が増えに増えて行く一週間が終わった金曜日の十八時過ぎ。達樹は体中がバキバキと音を立てそうなほどに疲れていた。現地集合と言っていたはずの高橋がご丁寧に迎えに来たので、残業することも出来ず仕事を残して会社を後にする。飲み会の後に会社に戻って来られるだろうか。いや、これだけ疲れていたら残業しても集中できないだろう。本当に長い一週間だった。
会社の最寄りから二駅地下鉄で移動した先にある居酒屋「ポチ」は高橋が気に入っている店のひとつで、串焼きが名物として謳われている。ポチとは珍しい店名だ。何度か行ったことがあるがこじんまりとしていて、酒も料理も美味しい良い店だと思う。達樹が昨年課の忘年会の幹事に任命された時にもここを選んだ。
ただ、串焼きの盛合せを頼むと大嫌いなシイタケが必ず出てくるのが玉に瑕だ。課の忘年会で来た時に、綾田が巨大なシイタケを達樹に取り分けてくれた。どうしても食べられなくてとても大きなフードロスを生んでしまったことは、正直今でもトラウマ並みの記憶として脳裏にこびりついている。
その居酒屋「ポチ」は入るとまずカウンター席が奥に向かって伸びている。五、六人分のカウンター席を、座る客の背後を通って抜けた先には十人座れるテーブル席が広がっている。満席でも二十人に満たない小さな店だ。大柄な高橋の後ろを付いて歩き、テーブル席の一番端に座る。他のメンバーもばらばらと現れ程なくして全員が揃った。
「いらっしゃいませ! おしぼりでーす。とりあえず飲み物のご注文うかがいますよ!」
元気な店員がおしぼりをひとりひとりに配り始める。おしぼりなんて置いておけば勝手に取るのに、随分と丁寧な店員だ。ぐるりとテーブルを巡り、最後に達樹のところへ回って来た。振り向いて、ありがとうございますと言いながら受け取ろうとしたら何故か店員が手を引っ込めた。
「えっ」
ビックリして顔を上げた達樹の前には店員の彼が満面の笑みで立っている。何だろう。目があまり良くないこともあり暫し凝視した挙句、達樹ははっとした。明るい色の髪、端正な小さい顔、細身で長い手足、そして眼鏡。
今朝満員電車の中で倒れ込んで来たパリピ急病人だ!
「パリ……っ」
朝の疑問がすっきり解けた喜びで思わず口に出てしまい、慌てて手で口を押さえる。
「パリ?」
「何でもないです」
笑みを絶やすことなく首をかしげる彼から達樹は慌てて目を逸らす。余計なことを言ってしまうところだったと内心慌てるものの、どうりで見たことがあるようなないような曖昧な記憶になるはずだと合点がいった。パズルが解けたような達成感を自らの中に押しとどめ俯く達樹に、横から高橋がすかさず言葉を差し挟む。
「谷野、いつの間にシュウちゃんと仲良くなってたんだ?」
シュウちゃん。高橋はこの店の常連らしく店員の彼を親しげに愛称で呼んだ。対して達樹は別に仲良くもないので正直に彼を指差して答えるしかない。
「……今朝の急病人」
「急病人? 今朝遅刻してきたのって、シュウちゃんを助けてたのか! ってかシュウちゃん全然元気そうだけど?」
高橋が達樹と彼をかわるがわる見ながらそう言うのを聞いて、店員のシュウちゃんという人がテンション高くまくし立ててきた。
「やっぱり助けてくれたんだね!今朝はありがとう! シイ……いや、谷野くんって言ったっけ? 遅刻させちゃってごめんね。あのさ、お詫びとお礼を兼ねて良かったら最初の一杯ごちそうさせて!」
シイ、と聞こえたが何のことだろう。気にはなったがパリピと言いそうになったことを突っ込まれても困るので達樹は黙ってその店員の顔を見た。見れば見るほど顔がいい。こういう華やかなパリピに話しかけられたことがあまりないのでちょっと緊張し、答えるのが遅れたところで代わりに高橋が声を上げる。
「じゃあロマネ・コンティ開けちゃって!」
「わー、高橋君容赦ない!」
皆が笑いさざめき、店員の彼も笑いながら高橋と何か話し始めた。確か自分が話しかけられていたと思ったけれど、まあいつものことだ。達樹は早々にコミュニケーションを放棄し最初の一杯から払うことに決め、メニューを開く。向かいに座る財務部の女性が隣の女性に、あの人かっこいいねと囁くのが聞こえた。確かに格好いいパリピである。
宴会が始まり間もなくすると同期が皆好き放題喋り始めて、誰も達樹に注意を向けなくなった。達樹には珍しいことではない。おかげで誰に咎められることもなく、店員の動きを目で追うことが出来る。そうして見ているうちに、もしかするとパリピではなく昨夜仕事で寝不足だったのかもしれないと彼への認識を変え始めた。とにかくくるくるとよく働いているからだ。
呼ばれればすぐやって来る。いつの間にか空いたグラスが下げられている。様々なメニューを一気に注文されても聞き直さない上に間違えない。
やがて今朝彼が纏っていた匂いがこの店の匂いに似ていることに気が付いた。鼻は利く方だ。色々納得した達樹は、散々遊び歩いたと勝手に決めつけたことを勝手に反省した。
斜め前の女性が尊敬する先輩女性社員について滔々と語り出す。隣では高橋がフットサルのルールを説明している。先輩も上司もいない中話は際限なく盛り上がっていく。達樹が答えや意見を求められることはほとんどないから皆の会話を聞き、必要そうなところで適宜笑ったりする。玉石混淆するとりとめのない話を聞きながら酒を自分のペースで飲むのは嫌いではない。何か話せとかもっと飲めとか、強要されなければおおむね快適だ。
しかし今日は様子が違った。ビールやハイボールを暫く飲んだあたりで、酒の回りがいつもに比べて早過ぎることに気が付きグラスを置いた。疲労とストレスが溜まり過ぎているせいかもしれない。慌ててウーロン茶を頼んだが時すでに遅し、ひと口飲む頃には頭がぐらぐらしてきた。まずい。このままでは泥酔してしまう。会社の人たちの前で絶対にしてはならないことだ。普段内に秘めているかもしれない感情をうっかり垂れ流す事態だけは避けたい。自分の酒癖を知っている達樹はとりあえずそっとトイレに立つ。醜態を晒し社会的に終わる前に、喧騒から切り離されて少しだけ休もうと思った。
「大丈夫ですかー」
誰の声だろう。呼び掛けがノックとともに聞こえて達樹は目を開けた。少し休むつもりだったけれどいつの間に寝ていたようだ。どれほどの時が経ったのか分からないまま立ち上がれば、さっきよりはいくらか良さそうだけれど決して気分が良くはなかった。外の風に当たりながらゆっくり歩いていれば持ち直すかもしれないレベル、まだ余談を許さない。高橋が二次会と言い出さないことを祈るばかりだ。
それよりひとつしかないトイレを果たしてどのぐらい占拠してしまっていたのだろうか。慌ててドアを開けるとそこにはシュウちゃんと呼ばれていたあのパリピ店員が立っていて、メガネの奥で猫みたいな目が思い切り見開かれている。そして叫んだ。
「シイタケちゃん!」
「し、シイタケ……?」
どうしてこのタイミングでシイタケという、最も我慢ならない単語を聞かされてしまったのだろう。思わずおうむ返ししたことでトリガーとなり、なんとか収まっていたものが一気にせり上がって来た。もう無理。
その後の記憶がない。
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