10年ぶり2回目、おおむね初恋
たこ
第1話 急病人がいた
背後からずしりと圧を受けて、達樹(たつき)はスマホから顔を上げた。視界は開放されたが耳にはまだお笑い芸人のハイテンションな叫び声がガンガン響いている。
いつもの満員電車、もう社会人三年目ともなればすっかり慣れた朝のラッシュ時出社風景が今日も繰り返されていた。東京の地下で季節も天気もシャットアウトし縦横無尽に走る地下鉄に乗り会社へと向かう数十分は、どう見ても地獄の様相ではある。
とは言え何十本、何百本もの列車に詰め込まれた無数の人々は都心に集まり、そびえ立つビルを始めとしたどこかしらの場所にそれぞれ収まっていく。時に人の奔流をしみじみと眺めながら、あたかも他人事のようにこのシステマティックさもアリなのではなんて考えたりもする。もっとも、そんなことを思うのは心の余裕がある時に限るのだけれど。
仕事は日に日に忙しくなるばかりでストレスが溜まっていくのを感じていた。今週は特に色んな仕事が重なったせいで残業が続き寝不足まで重なっている。朝の通勤ラッシュを客観的に見る余裕など今の達樹にはなく、昨日SNSで見かけた『ストレス解消には笑うのがいい』と言う投稿に従い早速お笑い番組を観ながら出社している有様だ。そしてこのお笑いがちっとも面白くない。いよいよストレス過多で笑うことも出来なくなってしまったのだろうか、解消がついに追いつかなくなってしまったのだろうか。焦りとも落胆ともつかない異様な気分になりかけたところだった。
顔を上げた視線の先、窓の向こうには達樹が降りるべき駅の二つ前の駅名が光っている。いつにも増してぎゅうぎゅう詰めの車内、動き出す気配のない列車。つまり何かがあって長らくここに停車したままということだ。再びスマホに目を移し、お笑い動画の外側にある現在時刻を見て愕然とした。始業七分前! どう頑張っても間に合わないことが確定しているではないか。いつもどおりに家を出たことを思うと列車はずいぶん長い間止まっているはずなのに、気づかずお笑いを一生懸命観ていた自分が最もお笑い種だ。
ここで漸く耳に詰めていたイヤホンを外した達樹は、人身事故発生と繰り返すアナウンスを聞き事の全貌を把握した。慌てて会社用スマホに持ち替えるべくポケットに手を伸ばす。電車遅延で出社が遅れる場合は会社に一言メッセージを送っておけば何の問題もないのだけれど、なんとなく、何ひとつ思い通りに行かない一日がまた始まるような予感がして気が重くなる。
はあ。
溜息を吐いたその時、ふと背後の圧が強まり顔を上げたきっかけを思い出す。ぎゅうぎゅう詰めの列車に無理矢理乗り込んできた人に押されているのだろうと思っていたが、それにしては背中への密着度がすごい。しっかり足を踏ん張らないと自身を支えられないほどの重さをべったりと背に受け、次には髪と思しき感触に耳を撫でられる。明らかに、もたれかかられている。隣に立つ女性があっと声を上げた。
「大丈夫ですか?」
女性の目線の先は達樹でなくその背後だ。目だけを動かして見た右側にはふわりとした明るい色の髪が見え、汗とか煙草とか食べ物の匂いが混じった、なんというか、おおよそ朝の通勤ラッシュらしくない匂いがした。きっと長い夜を終えたばかりなのだろうと容易に想像がつく匂い。伏せた顔が達樹の肩に乗り、はずみで眼鏡が外れてぽとりと落ちた。それとほぼ同時に後ろから伸びてきた手が腹に巻き付き、達樹はついにバランスを保てなくなる。
「ぐっ!」
力が抜けた人のどうしようもない重さに引っ張られて変な声が出た途端、周囲がざわつき始めたかと思えばあっという間に後ろの人だけでなく達樹までホームへ運び出されてしまった。
「駅員さーん! ここに二人倒れてるぞ!」
いや、自分は大丈夫です。そう言う間もなく達樹は後ろから抱き付かれたまま、ニコイチで駅員に引き渡された。
始業五分前。
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九月の終わりは秋と呼べる気温ではないのに空が急に高くなる。青い空にまっすぐ何本も伸びる都心の高層ビルのひとつ、その二十一階に達樹の場所がある。日本屈指の大手商社の自社ビルは東側にビルがないこともありいっぱいの陽を浴びてキラキラとエネルギッシュに輝いているが、二年半も見続けていれば最早ただの無機物にしか見えない。
就職活動中の達樹は商社に対してだいぶ格好いいイメージを抱いていた。海外との取引で石油王や国王、超有名CEOなんかと格好よく交渉して握手している画像映像は会社紹介でも、入社後の研修動画でも見た。しかし実際に入社して二年半が経った今、会社には様々な仕事があって華やかな人なんてほんの一握りなのだということをよく知っている。コンプライアンス管理部に所属し、あらゆる面からコンプライアンスをぎっちぎちに詰めていく仕事に携わって二年ほど、やっと分かったのはコンプライアンスの意味が広過ぎてその仕事量たるや無限大だと言うことぐらいだ。
ネットニュースには本当に社長が満面の笑みを湛えて石油王と握手している写真が上がっているのだけれど、その一瞬のために一体どれだけの人が身を粉にして働いたのかは決して報じられない。達樹があんなに悩んで調べて相談してなんとか作成した申請書なんて本当に微細な欠片でしかなくて、一生誰かの目に触れることもなくデータベースに積み上げられて終わりだ。
入社以来、それまで聞いたこともなかった言語の波を頭からかぶり続けて全力で走っていたらいつの間にか二年半が過ぎていただけで、その間知識が増えたとは言え自身に何の力もないことに変わりはない。仕事が好きとか嫌いとか考えたこともないしキャリアプランもない。回って来る書類の正否を確かめ次の人へ回付してみても果たしてそれがどれほど重要なのかすらあやふやだ。目の前のことすら確信できないのに斜に構えて会社を語るなど片腹痛い。片腹痛いからこそ、どこにもやり場のないストレスが溜まる一方で朝からお笑い番組など観る羽目になっているのだった。
電車遅延で出社が遅れた人はそれなりにいても、急病人救護が加わった人はおそらくいなかったのだろう。いつもならみっちりと混んでいる会社の高層階行きエレベーターも、始業時間を二十分ほど過ぎた今は誰も乗っていなくて空気が美味しい気さえする。
乗り込む達樹を迎えたのは奥にある大きな鏡だ。誰もいないのをいいことに珍しく身だしなみをチェックしてみた。真っ黒い髪は会社員らしく整えられているし、母親譲りの切れ長な吊り目も腫れたり目やにが付いたりはしていない。ブルーのシャツはクリーニング屋から取ってきたのを開いて着て来たからパリッとしてシワやシミなど見当たらない。スラックスのウエストからシャツの裾が出てたりもしていないし、大丈夫、ごくごく普通の清潔な会社員だ。そう言えば背中に張り付かれたのだと思い出し一応後ろもチェックする。問題ない。公序良俗に反することはなさそうだと確かめ終える頃に扉が閉まり、達樹は鏡に背を向けた。
勢いよく上空へと押し上げられながら一生懸命記憶を辿る。満員電車の中で後ろから倒れ込んできたのは達樹より少し背の高い男性だったのだけれど、ホームに運び出されてようやく見えた彼の顔には覚えがあった。駅員が持ってきた車椅子に三人がかりで座らせた時の、あの間抜けで綺麗な顔が脳裏に蘇る。明るい色のふわふわした髪、小さくて端正な顔(ただし口が半開きな分だけ間抜けだった)、細身、長い手足、あと多分眼鏡。車内で落ちた眼鏡は隣の女性が拾って一緒に列車を降りてくれた。
社会人になってから極力会った人の顔と名前を一致させる努力をしてきた達樹をしても、あの人とどこで会ったのか思い出せそうで思い出せない。このビルですれ違ったことがある? いや、この会社とあの人は雰囲気が違うような気がする。汗や煙草や香水の残りみたいな、いろいろ混じったあの匂いは一晩中楽しく過ごして何もかもを吸い込んだ結果に決まっている。黒いTシャツと白いスリムなパンツだけであんなに垢抜けているのだから間違いなくパリピだ。でも酒の匂いは一切しなかったなと思い出し、酒を飲まないパリピだってこの世の中にはたくさんいるよな、そもそもパリピの知り合いなんていないしな、いや待てパリピって何だったっけ、あれこれ考えてもどこにも結論が見当たらないままパリピという言葉だけが飽和していく。一晩中遊んだ挙句倒れてるなんて、さすがパリピだ。それほどのパリピと、一体どこで会ったことがあるというのだろう?
例えば動画の配信者、ああ、それはあり得るなと妙な結論に納得した頃エレベーターがポンと鳴って二十一階に到着した。ああいう適度なイケメンは世の中にごまんといて、ふとした拍子に見かけていたりするものだ。きっと直接会ったことのない人なのだろうと思うと急に気持ちが軽くなり、達樹は一歩踏み出した。途端、目の前に広がるストレス源に意識を持って行かれてパリピのことが頭から抜けていく。今日もまた忙しい日々が始まるのだ。
『今日は十九時開始、現地集合で!』
空いているデスクに着席しパソコンを起動するなりチャットが飛び込んできた。達樹と同期入社の高橋は何かと飲み会を企画するのが好きらしく、様々な組み合わせをセッティングしては声を掛けてくる。自身の所属する営業第四部でも歓送迎会などの幹事をいつも引き受けているようだし、参加者への連絡もとてもマメにしてくれる。昔何かの漫画で読んだ「宴会部長」という言葉を思い出す。言わないけど。
今日の飲み会は同期会と銘打たれていた。高橋のいる第四営業部と第五営業部、ここコンプライアンス管理部、それから財務部と人事部にいる同期総勢十人ほどがチャットグループに入っている。達樹と同期入社したのは全部で百人弱だったけれど、三年目の今残っているのは三十人に満たない。皆それぞれの理由で退職し、新しいどこかの世界で活躍していると思われる。儲かっている大人気企業に激戦を突破して入社してきた者の多くが、その苦労をあっさり捨てて去っていった。残っている同期も出張やらテレワークやらでなかなか会社で顔を合わせることがなくなり、飲み会に十人集まるのは最近にしては結構珍しいことだ。
『了解』
誘われるうちが花、とはどこで聞いた言葉だったかと考えながらきちんと返信する。特段の愛着もない同期の人たちに、それでも誘われればのこのこと出て行く自分が少し滑稽でいやだなとは思う。大勢で騒ぐのは別に好きじゃない。少人数ならいいかと言うとそれはそれで緊張するから気が乗らない。でも誘われたら出掛けていくのはいつか呼ばれもしなくなったら嫌だから。呼ばれたいのか? 呼ばれたくないのか? 分からないけれどとにかく断りたくなくて参加と返事を出すのである。
と、後ろから声を掛けられた。
「あれ? おはよう、谷野。来てるじゃん」
振り返ればメッセージを送った高橋本人がそこに立っている。達樹が座ったまま振り返り見上げるには大き過ぎる男だ。ただ本人も大男が大声で話せば静かなオフィスで悪目立ちすることを自覚しているらしく、自ら腰を屈めて小声で話しかけてきた。
「今日は急病だって聞いたけど?」
「おはよう。俺が急病だったんじゃなくて、急病人の救護で遅れた……っていうか、俺が急病だと思ったのに現地集合って」
「午後には復活するかもしれないじゃないか」
「まあ、それは」
「だってさ」
メーラーを立ち上げている達樹の画面を後ろから見ていた高橋が、さらに顔を近づけて来た。体力自慢の大男は立っていると遠くて話しにくいが迫りくるとなかなかに暑苦しい。
高橋はいつもそうだ。何故毎度チャットやメールを飛び越えて直接やってきてはあれこれと、チャットで済むようなことを喋るのだろう。
「お前全然有給休暇取らないしテレワークもしないだろ? 急病だって治り次第来るんじゃね?」
「そんなことは……」
答えながらも図星を突かれ達樹の声はトーンを下げる。ある程度のテレワークを前提としたこの会社において、ぴかぴかのオフィスはフリーアドレスで社員数より席数の方が少ない。つまり全員出社すると席が足りないから皆テレワークや外出、出張を組み合わせることが奨励されている。高橋も出張とテレワークが多めで、出社するのは飲み会がある時だったりする。帰りに飲みに行くために出社とは、さすが宴会部長。
そんな中、法に触れないよう最低限の有給休暇は取るけれど、原則として達樹は毎日出社している。地下鉄に乗って、混雑に揉まれて、エレベーターに押し上げられて、毎日オフィスにいる。台風の日も、雪の日も、猛暑日も。
「へぇ。ま、とにかく今日はちゃんと来いよ? あっ、山之内さんも良かったら来ます?」
高橋は達樹の向かいの席にいる女性社員、山之内に突如尋ねた。彼女は達樹が入社した時既にいて、右も左も分からなかった達樹に社内のことをたくさん教えてくれた先輩である。多分四、五歳上だと思うが正確なところはわからない。ぱつんと切り揃えられた前髪の下で丸い目が高橋に焦点を合わせる。そして彼女は綺麗に微笑んだ。
「お誘いありがとう。でも遠慮しておきます。同期の皆さんで楽しんで来てください」
「あっ、じゃあ近々別の会をセッティングします。是非!」
「ええ、まあ、はい」
何度見たか分からない、高橋と山之内のやりとりを達樹はただぼんやりと眺める。毎回真面目な顔で断り続ける山之内と、それでもまた誘う高橋との間には、いつか勝敗でもつくのだろうか。高橋は山之内に気があるのかもしれないとぼんやり感じていたが別に訊くつもりもない。どちらでもいいことだ。
「谷野も何とか言えよ」
「は、え? 何が?」
「お前からも誘ってくれって言ってるんだよ。山之内さんがいたら飲み会もより楽しくなるじゃん」
ところが今まで傍観者を決め込んでいた達樹に、初めて無茶振りが回ってきた。こういうのは苦手だ。咄嗟に気の利いたことをテンポよく答えなければならない場面。実にめんどくさい。
「いや、でも今日は同期会で」
「かーっ、真顔で言われて万事休す! じゃ」
その上嘘をつく習慣がない。何を求められていたのか分からないが思うままに言えば高橋は腰をシャキっと伸ばし、謎の怪力を込め達樹の肩を思い切り叩いてから帰って行った。ご不満だったようだ。
ジンジンと痛みの残る肩をさすりつつ、そう言えば今日の飲み会はあの駅の近くだったなと達樹は思い出す。あの駅、そう、ここより二つ向こうの駅。見たことがあるようなないような彼と今朝ニコイチで担ぎ出されたあの駅だ。
「どうなったかな」
人には聞こえない音量で達樹はひとり呟いた。パリピの彼が車椅子に乗せられ駅員さんに運ばれていくのを見届けたけれど、その後彼がどうなったのかは分からないし、正直それほど心配していない。具合が悪かったのならば申し訳ないけれど、あれは一晩中遊んだ挙句に寝落ちしたようにしか見えなかった。だってパリピなんだから。そうだ、これは後でSNSにネタとして投稿してやろう。バズりはしないだろうけれど誰かが反応ぐらいはしてくれるかもしれない。
「どうなった、って何が?」
向かいの山之内に聞かれていた。達樹はなんでもないですと言い捨て今度こそ仕事に意識を切り替える。
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