02-07


 初めて覚えた焦燥感に当てられて、思わず隣のユウカを見れば、鋭い視線をイナバさんに向けて押し黙っている。

 眉間にはしわが寄り、その長い黒髪が逆立ちそうなほど、熱のこもった怒気を感じる。

 イナバさんは視線を下に向けて固まっている。


「……ユウ……」


 ユウカに声を掛けようとしたところで、ふと気づいた。

 ユウカが視線を向けているのはイナバさんではない。

 イナバさんの奥――この部屋の入口だ。


 入口など見て一体何が……。

 ユウカの視線の意図を掴みかねていたとき、それを見つけた。


 目だ。

 いつの間に空いたのかわからないが、ほんの少し、五センチもない程度に開けられた引き戸の隙間に、目が二つ縦に並んでいる。

 濁ったようにどこまでも深い黒のその目は、部屋の中の何かを探すかのようにギョロギョロと忙しなく動いている。


 一体何を探しているのだ。


 この上のない気味の悪さ。

 背中に走る戦慄が、彼奴の禍々しさを物語っている。

 ――関わってはいけない。

 頭ではわかっているけれど目が離せない。


 本能と好奇心に苛まれた身体は石のように動かない。

 固まる身体で吸い込まれそうな黒に視線を奪われていると、その目の動きが突然止まった。

 目があった。


 その瞬間、その目が妖しく歪んだ。

 笑っている。

  

 目元しか見えないはずなのに、ニヤニヤとだらしなく唇を緩め、姦しく笑う様が頭に浮かんだ。

 きっと、値踏みするようにくつくつと声を殺して笑っているのだ。


 ――ヒッ。

 喉から出たのは声にもなりきれない短い息だった。

 浅く、速い呼吸。いつもより多量の空気が出入りしているはずなのに、胸が詰まる。まるで仄暗い水底にいるかのようだ。

 くらくらと脳が痺れ視界が暗くなってきたとき、隣から静かな声が響いた。


「落ち着け。生身の人間をどうこうできるようなやつはそういない」


 鋭い視線を向けながらユウカは話す。

 淡々とした無機質な口調。かえって安堵する。


 すると、こちらの目線に気付いたイナバさんが引き戸の方に振り向く。


「あの……何かあるんですか…………?」


 イナバさんの顔が完全に引き戸の方に向く寸前に、その目は煙のように消えた。同時に、ピンと張り詰めた糸のように耳に響いていた耳鳴りも消え失せ、窓の外の風に揺れる葉のざわめきが戻って来る。


 イナバさんには、何も見えなかったようだ。

 あれだけはっきりと――霊的経験に乏しい僕ですら見えたのに――。

 それに一番苦しめられている本人が見えないことに、言いようのないやるせなさを覚える。

 隣のユウカを見ると、伏し目がちに何か呟き、そして最後にふぅと短く溜息をついた。その右手にはいつの間に取り出したのか、扇子が握られている。


「……腰を据えて調査が必要なようです。暫く滞在させてもらっても?」


「それは構いませんが……それほど厄介なのでしょうか」


「それを調べるのです」


「……わかりました。お休みになるお部屋をすぐに用意します」


 イナバさんは不安げな顔で、けれど気丈に微笑み腰を上げる。

 ユウカは左手を上げ、淡々とした口調でそれを制す。


「別の部屋のご準備は結構です。この部屋に泊まります」

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