イノリβ
山橋 雪
01-01
おい、待て!
頭の中で反響する怒声を振り払うように走った。振り払った腕には赤い爪痕が残っている。
流れ出る汗がその上を這うとヒリヒリと痛むが、そんなことはどうでも良かった。
友人のもとに行かなければならない。
僕の唯一の友人のもとに。
ぜえぜえと鳴る胸。渇く喉。
しぼみかけの風船かと思うほど、空気の足りない肺。自らの運動不足を恨みながら、暗がりの中を、時折現れる屋外灯を目印に目的の場所へと走る。
足が動かなくなってきたところで、目指していた建物の前までたどり着いた。空きテナントだらけの雑居ビルだ。
エレベーターなどない、古いビル。
隣の建物に押し潰されたかのように窮屈そうな階段の前で少し立ち止まる。
膝に手をつき息を整えた。喉の奥に血の味が混じる。
この屋上に――彼女はいる。
もつれかかる足を無理やり動かし、階段を駆け上がる。
一段とばしにするような気力はないが、それでも心は急いでいる。
思えば、罪の多い人生だった。
なに、盗みをしたとか、暴力を働いたとかそんなつまらない悪事を働いたわけではない。
そんなもののために投げ出すような命なら、あのとき死んで然るべしだ。
しかし死なかった。僕だけが生き残った。
あの凄惨な事故で生き残るのはなにがしかの意味があると誰かは言うが、僕など、生きる価値のあるものか。
生還はただの偶然だ。家族とともに逝くべきだったのだ。
そんな僕でも、失いたくないものはあった。
それが唯一の友人――彼女なのだ。
いつ頃仲良くなったか……たしか、あのときの病院だったか……。
……いや、そんなことはどうでも良い。
出会いなど些細なことだ。
期間もきっかけも、友人関係の尊さを論ずる上での論拠にはなり得るが、それが安っぽいものだからといって、友人関係の深さを否定するものにはならない。
右足、左足と階段を踏みしめる音が踊り場に響く。その反響が心なしか短く聞こえたとき、一筋の光が見えた。
屋上につながる扉が僅かばかりの隙間を残して開いていた。
足を速めて、扉をくぐる。
前方から風。
生温い空気の塊が顔を撫ぜる。
――どこだ?
すっかり暗闇に目が慣れているが、それでも人探しには苦労する。今日は新月だ。
屋上の縁にこさえられた柵を越え、足元に広がる、全てを飲み込んでしまいそうな黒に沿って歩く。
りんりんと無く虫の声が遠くに聞こえているる。どうやら音はこの黒の食指を動かすには至らないようだ。
この音が聞こえるからこそ、この黒が永遠に続くものではないことが示されているわけだが、そんな簡単な論理など頭に浮かんだとて何の意味もない。
あと一歩踏み出して、この黒に身を任せてしまえば、そんなことは考えられなくなる。
だからこそ、ここに来たのだ。
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