懐かしい歌を歌えば
冬部 圭
懐かしい歌を歌えば
仕事帰り、駅の前。前から歩いてくるカップルの女性のほうは、どこかで会ったような気がした。すれ違う時に少し目が合った。誰だっけ。
直後に、
「その女は誰?」
と大きな声がした。振り返ると、先ほどのカップルの男性を、二歳くらいの子供を連れた女性が詰問している。
「えっと、姪」
その言い訳は傍で聞いていても苦しいと思った。
「申し開きは家で聞く」
そう言って、男性は連れていかれた。残された女性に周囲の好奇の目が注がれている。
呆然としている残された女性。ああ、中学の同級生の川崎さんだ。あまり話したことはなかったから、気づかなかった。
あんまり見つめてしまったので、向こうも僕のことに気づいたようだ。迂闊だった。声をかけづらい雰囲気だけれど、お互い気が付いたので無視するのも憚られて、
「久しぶり」
と声をかけた。川崎さんは返事に困ったみたいで、少し固まった後、涙をこぼした。思い切り後悔した。
成り行きで川崎さんたちが予約していた小洒落たレストランに二人で入る。
「変なところ、見られちゃった」
川崎さんは少し落ち着いたようで、メニューで顔を隠しながら力なく笑う。
「なんか、いろいろ。ごめん」
僕は何か悪いことをしただろうかと考えながら、当たり障りのない言葉をかける。
中学校の時の川崎さんのことを一つだけ思い出す。三年の時のクラス対抗の合唱コンクールでピアノを弾いていたっけ。クラスの男子がまじめに歌わないと憤慨するクラスメイトを宥めながら、健気にピアノを弾いていた。
「南村君は、謝っちゃうんだ。相変わらずだね」
相変わらずという部分に心当たりはないけれど、
「そうかもね」
と、もう一度当たり障りのない答えを返す。
僕は彼女のことをあまり覚えていない。おとなしい、目立たないクラスメイトだったと思う。彼女は僕のことをどれほど覚えているのだろう。
適当に食事と飲み物を注文する。
「南村君は、どうしてる?」
どうしてるの意味が一瞬わからなかったけれど、多分今の暮らしのことと思い当たったので、
「ここの近くで会社勤め。独り身だから気楽だね」
と答える。口にしてしまってから、独り身っていうのは余計だったと気づいた。疚しさから話題を変えようと試みる。
「中学校の時のこと、どれくらい覚えてる?」
川崎さんは少し考えた後、
「今、思い出しているところ」
と、くすりと笑った。その様子は、昔の面差しがあるようなないような不思議な感じがする。そんなことを判別できるほど、僕たちに接点はなかったと思い直す。
飲み物と料理が届き始める。
川崎さんはワインを少し口に含んでから、
「合唱コンクールでピアノを弾いたことが一番かな」
そう言って、昔話を始めた。
引っ込み思案で恥ずかしがりやだったから、人前で目立たないようにしてたそうだ。ピアノは小さい時から習っていたけど、発表会とかも苦手。家族から、弾いてるときに楽しければそれでいいと言ってもらってほっとしたらしい。
中学校の三年の時、他にもピアノを弾けるクラスメイトがいたけれど、その子は歌を歌うのも大好きだったから、半ば押し付けられるようにして川崎さんがピアノを弾くことになった。
自分のピアノの練習をしつつ、クラスの合唱の練習に付き合っているのは苦手で、歌の練習を叱られない程度に頑張るその他大勢でいたいと思っていたと言った。
特に男子はあまり熱心じゃなかったから、何度もやり直しをすることになって大変だったけれど、男子の中にも真面目に練習する人がいたから救いがある様な気がしていたと言った後。その人に少し憧れていたと付け加えた。
真面目に練習していた男子のクラスメイトには心当たりがなかったけれど、苦痛ばかりでピアノを弾いていたわけではなかったようなので、よかったと思う。
僕は歌うのが嫌いではなかったけれど、あまりうまくなかった。声を出すようには心がけていたけれど、不安定な声でさぞかし周囲を困らせたことだろう。
「あの時の歌、まだ、歌える?」
唐突な川崎さんの質問には答えず、テノールが旋律になる部分を小さな声で口ずさむ。
ふっと息をのむ音のあと、再び川崎さんは涙をこぼした。
「おかしいね。今日は泣いてばかり」
川崎さんが謝る。
「厄日なんだよ」
僕なんかに再会するから。とは言わなかった。
「そんなことはないよ。いいこともあったから」
涙を拭きながら、川崎さんが答える。
いいことの中身は聞いたほうがいいのか、聞いちゃいけないことなのか、僕にはわからない。僕だって、誰かに話したいこともあれば、そっと胸の内に秘めておきたいこともある。
僕の話の引き出しに余裕はなくなってきたけれど、デザートがテーブルに届いたので、何とか間を持たせることはできたかなと考えていると、川崎さんはそうではなかったみたいで、
「私は、まだ実家暮らし。独り立ちできていない」
と、別の話を切り出してくる。
「僕は家を出て借家暮らしだけど、独り立ちできているといえるかどうか」
何と答えればよいのかわからないので、自分のことを正直に答える。
大学を出てから、実家の近くの街で独り暮らしをしている。実家からは近くもなく、遠くもなくと思っていた。でも、電車で三十分で実家の最寄り駅につくということは、結構近くに住んでるような気もして、僕も独り立ちできていないような気分になる。
「でも、独り暮らしでしょ?」
「まぁ、一応」
彼女の心情を推測してみる。今のままの自分ではいけないという焦燥感や、変わりたいという変身願望があるのだろうか?
「家事もいい加減だから、だらしない生活だよ」
僕が独り立ちできていると思うのなら、それは買い被りだ。困ったときはすぐに両親に相談したりしているし、精神的にも自立できていないと思う。
「それでも、羨ましい。私はあの頃から何も変われていないから」
ここまでの会話で、そんなことはないと思う。かつての彼女は誰かの庇護を受けて柔らかな世界で過ごしていたのかもしれないけれど、今、彼女はその世界からの巣立ちを夢見ている。そんなことを拙い言葉で伝える。
「ありがとう。でも、私が変わったとしたら、それはきっと、つい先程のこと」
それが本当のことかは僕にはわからない。
「私が、本当に変われるのかどうかわからないけど、少しだけ、勇気を出すよ」
そう前置きをして、意を決したように川崎さんは
「さっきの、少し憧れていた人は、南村君」
と続けた。びっくりして、僕は返事ができない。
「だから」
彼女が続けた、「お願い」を聞いて、確かに彼女は中学生のころから変わったのだと思った。
懐かしい歌を歌えば 冬部 圭 @kay_fuyube
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