第6話 巻き込まれリガッタ

 身長百六十センチメートルのリガッタに対し、対手である彼は二メートルを超えている。


 しかし、真に驚くべきはその全身に纏った筋肉であろう。まるで、鎧であった。さらにその上から装飾の多いレンフィーマ・アカデミーの制服を着ているのだから、もはや体格差は二倍以上と言って差し支えない。


「聞いてんのか、おい!」


 そんな体の上に乗っかった顔、それは体と同様に、鍛え抜かれたといって差し支えない精悍なものだった。ライカ・ダゲレオの右腕である細めの美男子ロッカ・フォクシーとは異なる、しかしてこれはこれで男らしさが溢れ、魅力的であるに違いない。きっとファンもいるだろうな、とリガッタの頭の一部が冷静に判断した。状況が状況であれば、リコットは顔を赤らめていたのかもしれない。


「あばばばばばばば……」


 だが、そんな野性味溢れる顔つきの彼が、眉間に皺を寄せ、圧し潰す様にその高い背を折って、リガッタの顔に息が掛る位置までその高い鼻を近づけている。故にリガッタの顔は、赤くなるどころか血の気が引いて青白く変色し、返事にならぬ泡のような呼吸音を喉奥から発した。


「おい!」


 ついに業を煮やして対手はリガッタの肩を押す。それだけでリガッタの体は簡単に二メートル程吹き飛んで、広い廊下の上をゴロゴロと無様に転がった。


「かぇっ」


 起き上がろうとすると同時に、体が呼吸を欲して自動で肺を開く。だが、床を転がった衝撃で機能を失っていた筋肉がそれに追いつかず、結果口を開いて必死で空気を求め、奇妙な音が口から飛び出た。遅れて肺が膨らみ新しい酸素を含んだ時、再びリガッタに影が被さった。


「なんだこの弱いやつ。なんでお前が」


 男はリガッタの胸倉を掴み、いとも簡単に吊るし上げる。床から三メートルほどの高さに引き上げられ、視界がシャッフルされる。内臓が目からの情報に追いつこうとしたのか捻転し、内容物が喉に殺到して詰まる。


「お、おれは……」なんとかそれらを飲み戻し、リガッタは言葉を絞り出した。


「あああぁあ?」


 唸るような声。否、これは完全に威嚇だ。だが、こんな大男に難癖付けられるようなことをした覚えはない。しかも初対面ではないか。恐怖がリガッタの全身を貫き、震えすら許さない。それなのに、心臓だけがさらに鼓動を速める。


「おい、なんだあれ?」

「ブギーが暴れてるぞ」

「決闘か?」

「絞められてんのどこの寮?」


 ふと、周囲の声がよく聞こえる。死ぬ前には感覚が研ぎ澄まされ、周囲がゆっくり動くように感じるという話をリコットは思い出していた。


 ——え、死ぬの? お姉ちゃんより先に? わたしが?


 そんな馬鹿な話があるものか、リガッタはなんとか抵抗しよう指先に力を籠めるが、まるで動かない。否、これが恐怖の効果だった。これ以上の暴力を恐れ、リガッタの体は、指一本として動くことを拒否していた。


 だが、対手はそれ以上リガッタに何かをする気配もなかった。リガッタは恐る恐る相手の顔を見返した。


「お前ら、全くよお」


 その時、対手はそういってぱっと手を離し、リガッタを床に落とした。げひゅ、とリガッタ自身、初めて出す奇声と共に床で悶える。


「見ろ、こいつを」


 そして、男は再びリガッタの胸倉を掴んで無理やり立たせた。揺れる視界の中に、リガッタは思ったよりも多くの人だかりを認めた。十人以上がこの広い廊下に集まっている。それらをやけに余裕ぶって眺めた対手の男は、当然と言わんばかりの口調で次のように述べた。


「服装が、乱れてるだろ?」


 そう言って自立したリガッタの肩や胸の辺りを乱暴にばんばん、と触り、制服を整える。リガッタはその勢いにふらふらと押され、壁に背中を打ち付けた。


「痛っ……」リガッタの口から小さな悲鳴が漏れる。


対して、周囲の表情たるや、実に多様な苦笑いに愛想笑いといった嘘を浮かべ、浅く頷きながら二人背を向け始めた。厄介ごとには関わりたくない、そんな様子がすぐに見て取れた。


 ——何が、勇者ヴィヴォールを輩出した由緒正しき勇者創成学園だ。これのどこが、勇者を育てる学園だ。


 廊下から退いていく男子生徒たちを、虚ろな瞳でリガッタは見つめるのみ。全身が痛くて、立っているのもやっとだった。ふと、一瞬だけ視線を対手に戻すと、いかにも下級生を気遣う上級生、といった表情で、しかして全身で周囲を『警戒』していた。もしもリガッタに力があれば、流石に殴りつけてやりたいところだった。だが、実際のところ、リガッタの体は恐怖に支配され、何もできなかった。否、やはりこれ以上、酷い目に遭いたくないと泣き叫んでいる。


「さて、お前の処遇だが」


 ぎろり。ほとんど生徒が散ったとみて、再び男はリガッタを睨みつけた。そして、リガッタの顎を掴み、具に観察する。


「とりあえず、よくわからんが顔面の形変えとくか」


 何故そうなったのか、何もわからないままにリガッタの処遇は決まった。ぽんと突き放され、彼女の顔面目掛け、まるで石礫のような拳が握られる。


 リガッタは思わず目をきつく閉じ、全身を強張らせた。もう、それしかできることがなかった。


 一秒、二秒、そして三秒。だが、拳がリガッタの顔面を貫くことはなかった。恐る恐る目を開けると、リガッタに向けられた拳が、彼の顔面一センチメートルほど前でぴたりと止まっていた。


 慎重に一歩、二歩、と下がれば、動きを止めた彼の拳の上に、白い布が『乗っかっている』のが分かる。否、これは手袋だ。


「ブギー。彼は転入生だ。何もわからないし、何も知らない。それなのに、そうやって暴力を奮うのは〈勇者〉のすることじゃない」


 はっとして、リガッタは声の方を向く。そこには、リガッタへ暴力を奮った男よりは遥かに小柄な、しかして当然、リガッタよりも一回りほどは大きい男子生徒がいた。彼は廊下の入口、エントランスホールのシャンデリアの輝きを背に、黒い影となってそこにいた。だが、伸ばした右手は素肌を晒し、対して左手には白い手袋がきちんとはめられていることだけはすぐに分かった――なにせ、その手袋をはめた手には一振りの剣が堂々と握られてよく目立つ。


「おいおい、お前には関係ないだろう、カナン。俺は単に、こいつの服装の乱れを……」


「どうせ、ベダ先生と転入生の距離が近いから、勝手にお前が嫉妬しただけだろう。たったそれだけで転入生を辱めるのはやめろ」


「こいつ!」


 男は自身の右手に乗った手袋を床に捨て、肩についた金属の装飾を千切る。すると、千切られた装飾がしゅらりと伸び、一振りの剣に変貌した――捩じれ、歪んだ刃。ともすれば水の流れのようでもあったが、そうであるなら万物を飲み込む濁流のような形であった。


「決闘、か」体格に優れた彼は一瞬、床の手袋に視線を送る。


「受けてやってもいい。だが、俺は優しいから一度だけ訊いてやる……いいのか?」その声に、嘲りはない。とはいえ、当然気遣いというものもなく、ただの儀式のようであった。


「おれはもう覚悟を決めた。この学園が受け継ぐべき、正しい勇者の心をお前は何一つ持ち合わせていない。そんな奴の横暴をおれは許せない。君の行動を許すことは、おれの名誉に関わる。カナン・キルノは、お前に挑戦者として決闘を申し込む」


 彼、カナンは剣を両手で握り、上段に構えた。廊下の向こう、背後のシャンデリアを影で断つ。


「そうか。ならいいだろう。お前を地獄に送ってやる。ブギー・ブイルドン、お前の決闘を受ける」


 彼もまた、右手に握った剣を肩に担ぎ、左手をぐいと前に突き出した。すると、二人の制服の左胸が一瞬光り、制服の上に棒線が一本短く引かれた。


 ただ、その間にあって、急に始まった決闘騒ぎにリガッタだけが口に手を当て、何とか後ろ歩きで壁に背を付けて肩を窄めて膝を折る。彼女はもはや、自身の安全を祈るばかりであった。否、逃げてしまおうか。だって、二人はすっかり決闘ムードで、別世界に旅立っているのだから。リガッタはこっそり、その体を動かそうとした。


「転入生君。申し訳ないが、今周囲に人がいなくてね。君がこの決闘の見届け人だ。最後まで見ていてくれ」まるでリガッタの行動を見透かしたようにカナンはそう言った。


「あ、はい……」それに対し、リガッタはもう、断ることなどできなかった。


 残念なことに逃げ損ねたリガッタは、その場で座り込んだまま、この決闘を見守ることになってしまった。


「行くぞ」


 カナンはそう言って、ゆっくりと右足を前に踏み出した。

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