2-5
転落事故直後、2hillが搬送された病院の名前は判明している。槙野総合病院、事故現場となったビルから徒歩十分ほどの距離にある、中規模程度の病院だ。
明神は救急外来の入口から院内へと入っていった。
救急外来というからには慌ただしいのかと思っていたら、患者はまばらで切羽詰まった様子は見受けられなかった。マスク姿の看護師たちがせわしく動き回っている光景は外来と変わらない。そのうちの一人をつかまえ、明神は尋ねた。
「お忙しいところ、すみません。毎朝新聞の者ですが」
名刺を取り出して見せる。
怪訝な顔をしつつ、若い看護師は警戒している様子はない。毎朝新聞の名刺は身分の確かさを証明する印籠だ。
2hillの転落事故のあった日付を言い、その日の救急担当医に会いたいと頼み込んだ。
「三年前だと、私はまだここの病院に勤務していなかったのでわからないんですけど」
看護師はすまなさそうな顔をしてみせた。
「分かる人、います?」
「永井さんなら、多分。ちょっと聞いてみますね。取材ですか?」
看護師は好奇心を隠そうとしない。そんなところですと濁しておいた。
数分後、声をかけた看護師の後について私服姿の女性がやってきた。
「永井さん、こちらの方です。毎朝新聞の、えっと……」
「明神です」
明神が頭を下げると、相手も軽く会釈してみせた。
「三年前のことを取材しているそうです。永井さんなら知っているかなって」
「どういったことでしょう」
「三年前の7月28日の救急担当医に取材をしたいのですが、どなたかご存知ですか?」
「記録をたどればわかりますけど」
永井看護師は、若い看護師の方を見ながらそう言った。
「そうですか。では、お手数ですが、記録を調べていただけますか」
明神は若い看護師に向かって頼んだ。若い看護師はめんどくさそうな顔をしてみせた。
「いいわ、私が調べます」
永井看護師がため息まじりにそう言うと、若い看護師は「ありがとうございます」と明るい声で礼を言い、パタパタと忙し気に去って行った。
「すみません」
「構いません。私なら帰るところでしたし」
永井看護師は先に立って歩き始めた。
「それに、記録なんか調べる必要ありません。さっきおっしゃってた日付、あれは2hillが搬送されてきた日ですよね」
「覚えていますか」
永井看護師はこくりとうなずいてみせた。
「病棟の一階に喫茶室があるんです。そこでお話しませんか。私、コーヒーが飲みたいので」
注文したコーヒーを受け取り、永井看護師は空いている席に着いた。喫茶室は、十人も入れば一杯になりそうな狭い場所で、客はパジャマ姿の患者か、病院関係者が目立つ。
永井看護師はコーヒーを一口飲むと、ほっとしたかのような溜息をついてみせた。疲労でこわばっていた顔が心なしかゆるんだようだ。
「夜勤明けですか?」
「ええ。いつもここで一杯だけコーヒーを飲んで帰るんです」
「徹夜明けのコーヒーは気分がリフレッシュしますよね」
明神もコーヒーに口をつけた。
「わかります?」
「はい。新聞記者も、昼も夜もないような生活ですから」
「私、夜勤は嫌いではないんです。夜の方が静かで、かえって患者さんたちのお世話にだけ集中できるから」
「私も、夜の方が筆が進みます。余計な情報が頭に入ってこないので記事を書くことに集中できます」
「そうなんですね」
ふふっと永井看護師が笑顔を浮かべた。仕事の緊張から解放されたその笑顔は最初の印象より若くみえた。二十代半ばぐらいだろうか、最初に声をかけた看護師とあまり年の差はないようだ。
「2hillを取材されているんですか?」
2hillが転落事故以前の2hillと同一人物と見なされた以上、転落事故は本当にあったのか、あったとすれば死んだのは誰かを調べているのだと、明神は正直に告白した。
「死んだのは誰か……。それでうちの病院に取材に来たんですね」
「はい。あの日、2hillはこちらの病院に搬送されました。その後のことを知りたいのです。2hillはもしかしたら助かっていたのかもしれない。それを死んだことにしていた」
「それはあり得ません」
すかさず永井看護師が強い口調で否定した。
「私もその可能性はないと思っています。あのビルの高さから落ちて生きていられたはずがない」
「事故現場に行かれたのですか」
「はい。8階建てのビルです。落ちたらまず助からない」
「ワイドショーで見たことがあります。ずい分高いビルだなと思ったのを覚えています」
「生きていられたはずがない人間が今生きている。ということは、あの事故の日、死んだのは一体誰だったかという疑問がわきます」
「死んだのは誰か……」
永井看護師はぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。
「2hillだと思います。他には考えられませんから」
「しかし、辻褄があわない」
明神は頭を振った。
「私、その日も夜勤だったんです。事故が起きたのは確か夜中近かったと思います。搬送されてきた直後は2hillだとわからなかったけど、後で、2hilだと判って、ちょっとした騒ぎになったのを覚えています」
「2hillだとわかった……どうやってわかったのでしょう。顔を見て確認した?」
永井看護師は黙り込んでしまった。空になったカップを両手で持ち、考えるようにして視線はテーブルの端に送っていた。
しばらくそうしていたかと思うと、永井看護師はぱっと顔をあげ、
「その夜の救急担当は道本先生でした。道本敬一郎。詳しい話は道本先生に聞いてみてください」
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