6章 貴人哀悼

輝きの王子

 宣戦布告の後も、貴族連合軍に目立った動きはなかった。大軍勢で王都を包囲し、進みも退きもしない。開戦直前の、穀物在庫の徹底した払底ぶりを考えても、意図はあまりにわかりやすかった。

 エティエンヌと共に物見塔に立てば、陽光に白く輝く城壁の周りには、糖蜜にたかる蟻のような大軍勢が見える。


「俺たちを日干しにするまで動かねえつもりだな。わかりやすすぎて、いっそ笑えてくる」


 蠢く黒点どもを、吹いて飛ばすくらいの気合はせめて見せてやろうと、俺は声をあげて笑った。が、誰も後に続いてくれない。

 俺が目配せを送ると、ジャックはエティエンヌの肩を抱いて、赤子でもあやすかのように話しかけた。


「戦は長く続くでしょう。万事をあまり気に病まれませんよう、どうかご自愛なさいませ殿下」

「だめだ。長く続けてはならない」


 エティエンヌは、肩に置かれた手をそっと払った。


「包囲が長引けば、疲労と消耗に蝕まれるのは我が軍の側だ。日が経つほどに勝機は薄れていく」


 首が横に振られ、一本にまとめられた金髪がゆるやかに揺れる。


「西海岸との連携を急がねばならない。この状況下では、書状一枚の連絡さえも困難ではあるが」

「あとは機が来るまで、どう持ちこたえるかだな……」


 俺は城壁の内側を見下ろした。

 前回の王都奪還戦。それ以前の内乱。続いた戦の爪痕は、ほとんどが修復されないまま残ってしまった。崩れたままの街路、家屋、水道――封鎖された王都で、それらはどう都市環境に、治安に、人心に、悪影響を及ぼすのか。俺とエティエンヌは、十分に予見できずにいた。






 包囲下で、俺を含む王宮料理人一同に休む暇はなかった。

 俺は同僚たちと共に、朝から晩までひたすらパンを焼いた。王都入城時、エティエンヌからの「贈り物」として配布したのと同じものだった。王子の慈悲と寛大さの象徴として、市民たちの安心の拠り所として、ひとつひとつのパンが連帯を繋いでくれるはずだ――そう信じ、俺たちは備蓄の小麦粉を焼き上げ続けた。いつか在庫が尽きる日のことは、考えないようにした。せめて手を動かしている間だけは、無心になろうとした。

 俺は時間の許すかぎり、食糧配布の場にも立ち会った。「神の料理人」とはあえて名乗らず、配布担当のひとりとして、当番の兵士たちに交じってパンを渡し続けた。不安に翳った市民たちの顔が、受け取りの瞬間だけはほんの少し和らぐ。その、笑顔とまでは呼べない安らぎの表情が、少なからず俺の励みになっていた。

 だが日を追うにつれ、市民の表情は目に見えて暗くなっていった。


 ある日、配給の列に横から入ろうとする幼子がいた。ひりつくような緊張が周囲に走った。複数人の大人が、幼子を列の後ろに引き戻していった。その折、気になる言葉が聞こえた。


「言うことを聞かないと、王子様に黒い稲妻で撃たれるぞ」


 心胆が冷えた。

 配給の手を止め、発言者に質してみる。エティエンヌに関するよからぬ評判が、どこからか流布されているようだった。

 曰く、逆らえば氷に漬けられ血肉を凍らされる。

 あるいは、黒い稲妻で心を壊される。

 あるいは、恐るべき幽鬼に喰い殺される。

 間違いなく、どれも俺とエティエンヌが使った魔法だ。だが噂の中では実態以上に恐怖が誇張され、王子の非道を強調する内容になっていた。おそらくは何者かが、意図的に事実を誇張して広めている。

 そして、それらすべてを発案したのは、他でもない俺だ。俺の咎でエティエンヌは危機に陥っている。ならば、後始末は俺がしなければならない。


 ――だが、手中に魔法食材がない今、俺にできることはあるのか。


 良案のないまま城に戻って報告すれば、既にエティエンヌも事態を把握していたようだった。彼は決意を籠めた目で、俺とジャックに宣言した。


「明日からは私も陣頭に立とう。民ひとりひとりと向き合いたい」

「さすがに危険ではありませんか?」


 ジャックがたしなめる。確かに、暗殺や襲撃の危険を考えれば通常ありえない話だ。

 だがエティエンヌは、ゆっくりと首を横に振った。


「このような噂が広がるのは、あの男の影が私に重なっているゆえだろう。であれば払拭せねばならない……民の恐怖と絶望は、そのまま内からの瓦解に繋がる。だから示さねばならない、私は、あの男とは違うのだと」


 父を殺す、父の幻影を殺し尽くす――そう宣言した時と、彼は同じ目をしていた。


「すまねえな……元はといえば、どれも俺の献策のせいで」


 俺が詫びればエティエンヌは、おそろしいまでの気迫はそのままに、目を細めて笑いかけてくれた。


「気にするな。了承したのは私だ。責はすべて、最終決定権者である私にある」


 威厳と慈愛に満ちた、王者の顔だった。

 その時、俺は確かに知った。俺の目的は果たされたのだ、と。

 エティエンヌ・ド・ヴァロワの泥を落とし、磨き上げ、王として輝かせる――その過程に、俺がどれほど寄与できたのかはわからない。この英邁な王子は、ひとたび己を信じ始めてからは、ひとりでに光を放ち始めたようにも思える。


「ほんとにすまねえ。パンを焼く以外に、何も手伝えなくて心苦しいばかりだが……俺にできることがあったら、何でも言ってくれ」

「ああ。だが、食料配給も重要な仕事だ。できるだけ多くのパンを、市民に届けてくれ……それが、いま頼めるいちばんの大仕事だ」


 わかってはいる。

 だがエティエンヌが輝きを増せば増すほど、今は「手伝う」ことしかできない自分が、あまりに歯痒かった。

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