死に至る病
翌日以降、エティエンヌは市民の前へ精力的に姿を現すようになった。
配給の食糧を手ずから民に渡す。病人や怪我人が療養する傷病院を訪れ、ひとりひとりに声をかけて回る。民の望みを聞き、励ましの声をかけ、握手をし、陽光が差すような微笑みを贈る。
やがて、流言で語られた「恐怖の支配者」の姿は虚像であるとの認識が、市民の間にも広がっていった。
食糧配給を行う俺たちも、変化は感じ取っていた。食糧を渡す際、エティエンヌへの感謝の言葉を伝えられることが増えた。市民からの言葉を伝えると、彼は疲れた表情で微笑んでくれた。
相変わらずの包囲下ではあったが、癒されるひとときだった。自分たちの仕事は無駄ではないのだと、確かな実感があった。
エティエンヌは特に、傷病院への慰問に力を入れていた。熱病を患う者たちの手も躊躇せずに握り締め、ひとりひとりに労いの言葉をかけて回っていると、ジャックは言っていた。
傷病院に入る患者は、このところ増え気味だった。急な発熱で運び込まれる市民が、特に第九・第十区画で続出していた。エティエンヌは現地で手ずから布を絞り、高熱の患者を拭ってやっていたと、俺はジャックから聞かされた。王族が市民を自ら看護した例など、過去に聞いたことがない。
自室へ戻ったエティエンヌへ、俺は声をかけた。
「あんたもずいぶんと、思い切ったことをするな」
「それは苦言か、アメール?」
「いや……純粋にすげえなと思う。病人の世話とか、市民でも進んではやりたがらねえだろ」
「だからこそ、私がする意味があるのだ」
彼は、ジャックの薬草茶を飲みながら笑った。顔には疲れの色が濃いが、青い瞳だけは屈託なく晴れやかだった。
「そこまでやるのか、と言いたげな顔だな。だが私は知っている。市井の者たちが、どれほどの力を秘めているかを」
薬草茶をまた一口啜り、エティエンヌは何度も頷いた。
「王都入城の直後、戦勝宣言に際して、あなたはパンを焼いたな。今と同じように、民間の職人たちと共に」
「ああ、俺とあんたの炎を使って、な」
「あの時、私は間近で見た。熱気の籠る厨房で、懸命に働く汗だくの職人たちの姿を。そして焼き上がった時の香ばしい匂いは、王城の食卓より遥かに食欲をそそるものだった」
エティエンヌの言葉に、俺は内心で頷いた。王族の食事は毒見を経ているから、ふつう食卓に届く頃には冷めきっている。冷えたパンしか知らないであろう王子様に、焼きたての香りはよほど新鮮だったのだろう。
そして続く言葉に、俺は息を呑んだ。
「そこで私は悟ったのだ。彼らもまた、私と同じではないかと……貴族たちには侮られ、徴税の対象としてしか見られない者たちだが、力を揮う機会さえあれば目覚ましい働きを見せる。彼らの力もまた、泥を払えば輝き始めるのだ」
彼の行動は、単純な憐れみだけが理由ではないようだ。
無論、打算や宣伝だけでもないのだろう。
「だからできれば、彼らにも輝いてほしいと思っている。アメール、あなたが私の輝きを信じ、私の『泥』を落としてくれたように……私もまた、彼らに潜在する力を引き出したいのだ。無二の信義を結ぶことによって」
胸中が熱く高鳴る。
俺が王と選んだ男は、自らの輝きを日々増している。そして己の光で、民間も含めた王都のすべてを照らそうとしている。
俺は言葉を返せなかった。ただ、願いながら頷くしかできなかった。
彼を全力で助けたい。この難局を切り抜け、最後まで守り抜きたい――その願いだけが、俺を満たしていた。
傷病院での活動が、数日続いた後のことだった。
執務室に戻ったエティエンヌの足取りが、目に見えてふらついていた。
「おい、大丈夫か?」
「問題ない。少し疲れただけだ」
彼は崩れるように椅子へ腰を下ろした。背に、明らかに力が入っていない。
「どう見ても大丈夫じゃあねえだろ。このところ、ちょっと働きすぎだ」
苦笑いしながら手を取り、驚いた。
異様に熱い。
あわてて額に手を遣ると、こちらもはっきりと熱を持っていた。
「おい、侍医を呼べ! どう見ても、ただの過労じゃあねえ!」
かけつけた二人の医者が、容態を確かめる。二人の意見は食い違ったようで、なにやら激しい言い争いが始まった。だがほどなく言葉は途切れ、双方の表情は異様に暗く沈んでいった。
嫌な予感が、する。
「どうした。そんな、おおごとみてえな顔すんなよ」
冗談めかして笑ってみせても、二人の表情は晴れない。俺はおそるおそる訊ねた。
「おい。どういうことだ。何があったってんだ」
無理に笑いを作る俺を前に、医者たちは首を振った。
「
「現在、城下で流行している高熱が、この病なのだと思われます。慰問に際し、多くの病人と直に触れ合われたのが原因のように……思われます」
頭の中が真っ白になる。
足から力が抜ける。発するべき言葉を見つけられないまま、俺はその場にへたり込んだ。
脳裏を後悔がよぎった。「明日からは私も陣頭に立とう」――言われた時に止めていれば、今のこの事態には至らなかった。市民と直接語らうにしても、傷病院の直接訪問はやりすぎだったのではないか。傷病院へ入るにしても、せめて、軽症患者との軽い接触に留めておきさえすれば――
エティエンヌが、諸々の危険性を軽く見ていたわけではないだろう。だが医者の見立てが事実ならば、すべては最悪の方向へと動き始めてしまったように、俺には思われた。
――せめて、俺が代わってやれたなら。
――今は大した役にも立たねえ俺が、病を引き受けてやれたなら。
願っても詮ないことを願ってしまう己が、惨めだ。
俺は床から立ち上がれないまま、ただ天井を仰ぐしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます