5章 孤魂再誕

遺言

 当面、エティエンヌは奪還した王都の統治に注力することとなった。都市機能回復のための行政機構、治安回復のための警察機構、その他諸々の必要な組織を、失陥前の水準に復旧する――それがいったんの目標となった。

 俺たちは、ヴィクトール時代の官吏や兵士たちを可能なかぎり招集した。だがその過程で、見えてきたものも多くあった。


「あいつの統治、相当ボロボロだったんだな……」


 エティエンヌは、市民からあがってくる大量の苦情に頭を抱えていた。

 曰く、警察が賄賂の多寡によって罪状を決めている。

 曰く、道路や水道の工事に携わる労働者に、給料が契約通り支払われない。

 曰く、兵士たちの横暴がひどい。市民に対して居丈高に振舞い、若い娘に狼藉を働く。

 かつてと同じ組織と人材のはずだった。だが調べてみれば、問題はヴィクトールの時代から既に存在していたものばかりだった。末端の根は数十年の治世で腐り果て、幹の力でかろうじて抑え込まれていただけだった。


 ――やはり俺は、昔の輝きに目がくらんでいたのか。


 そんなことをも思った。老いたがゆえに衰えたのか、長すぎる治世にんだのか。いずれにせよヴィクトール治世の末期、王都は既に壊れ始めていたのだ。気付かなかったのは、輝きの中にいた人間――つまり俺のような奴らばかりだったのだろう。

 いずれにせよこの状況下、復旧は復興にはつながらない。腐敗した根を除去し、正しい形に刷新せねばならない。

 先日の戦勝宣言以降、市中でエティエンヌの評判は大きく上向いた。だが、一度パンを配ったからといって、市民の暮らし向きは改善しない。何もしないままなら、元々悪評だらけだった王子の人気は、すぐ地に落ちるだろう。

 とはいえ、妙案は誰も持っていない。

 戦いは終わっておらず、すべてを組み立て直す余裕はない。俺たちにできることは、対症療法として不正を都度摘発することだけだった。だが綻びはあまりに多く、手は足りなかった。






 先の見えない日々の中、俺はひとりの老人の訪問を受けた。ヴィクトールに長年仕えていた侍従長だった。主君の崩御と共に身を引いていたが、アメール様に届けたい物があって訪れた、とのことだった。

 渡されたのは小さな銅の鍵だった。


「ヴィクトール陛下が、ルネ様が戻られた折に渡すようにと託されました。かの御方の死は、陛下には伏せられておりましたので。アメール様はお弟子様とのことですので、御師匠様の遺品として受け取っていただければ」

「かまわねえが、どこの鍵だ」


 首を傾げつつ受け取る。鍵にはわずかに錆が浮き、それなりに古い物に見える。


「ヴィクトール陛下の書斎には、いくつか隠し収納がございました。うちのひとつ……書棚裏の隠し戸に、ルネ様宛の何かを納めたと伺っております」

「書斎……よりによって、か」


 先日見た惨状を思い出し、俺は首を振った。あの状況では、俺宛だという何物かも、既に持ち去られてしまった後だろう。一応、確かめてはおこうと思うが。

 元侍従長が辞去した後、俺は鍵を自室へ持ち帰った。ここは元々役人向けの休憩室で、ルネだった頃に使っていた部屋よりは質素だが、山小屋暮らしの後にはこのくらいの方がむしろ落ち着く。

 飾り気のない部屋の中、白木の机に鍵を置いて眺めていると、エティエンヌとジャックがやってきた。


「アメール。王都防衛用の魔法食材について、仕入計画を相談したいのだが――」


 エティエンヌが鍵に気付き、言葉を止める。俺は、元侍従長から聞いた仔細を説明した。


「父の遺品か……」

「何を納めたかは知らねえが、とっくに無くなっちまってるだろうな。一応確かめてはみるが」

「ならば私も行っていいだろうか。探すなら、目と手は多い方がいいだろう」


 あんた忙しいんじゃねえのか、と言いかけて、やめた。

 虐げられていたとはいえ父と子だ。父親にまつわる何かは気にかかるのだろう。

 ジャックの薬草茶で一服した後、俺たち三人はヴィクトールの書斎へと向かった。






 荒れ果てたままの書斎には、空の書棚がいくつもある。埃を払いながら背板を確かめてみると、一箇所だけが奇妙に厚かった。隙間部分に何かがある。

 探ってみれば棚の内側、普通なら本で隠れて見えない位置に、小さな鍵穴があった。受け取った鍵を差し込んでみると、かちりと手応えがあった。がたついた戸を開けてみれば、中にあったのは一通の封書だった。

 表には「我が王冠にして無二の友 ルネ・ブランシャールへ」の宛名が記され、赤黒い封蝋にはヴァロワ家の「竜と双剣」の紋章が力強く押されている。

 宛名を目にした瞬間、心臓を絞め上げられるような感覚があった。


「……こいつ、は」


 うめきつつ封蝋に触れると、粉々に割れて落ちた。古いものであるのは間違いなさそうだった。


「父の、遺言状……だろうか。状況から判断して」

「俺も……同意見、だ」


 封筒を開けようとして、ためらった。何が書かれているかはわからない。が、読んで平静でいられる自信が俺にはなかった。数十年を共にした相手が、死の床で遺したと思われる言葉を、はたして俺は受け止めきれるのだろうか。そして、もし想いが溢れてしまえば、傍らのジャックに「正体」が露見してしまうだろう――

 と思ったとき、エティエンヌがジャックに声をかけた。


「ジャック、すまないが、部屋の外を見張っていてくれないだろうか。余人に知られれば差し障りのある内容も、含まれるだろうからな」

「……人払いでございますね」


 黒髪の従者はうやうやしく頭を下げた。自分が「人払い」されたのだとは、おそらく理解しているのだろう。

 部屋を出るジャックを見届け、エティエンヌはやわらかく俺に笑いかけた。


「アメール、いや、ルネ・ブランシャール。父があなたに何を言おうとしたのか、私にはわからない。だが――」


 青い目が、俺の手中の封筒を見つめる。


「――どのような秘密であっても、重荷であっても、ひとりで負うよりはふたりの方が楽だろう……だが、忘れてほしければ言ってくれ。私は、見たものをすべて忘れよう」


 若い者に気を遣われて、己が情けなくはあった。だが胸中の痛みは、少しばかりましになったように思える。

 そして、ここまで言われて、読まずに終わることもできない。

 意を決し、俺は封筒を開けた。中身の古びた紙は、二枚あった。






 一枚目を読む。

 文字の崩し方に、見覚えある強い癖があった。祐筆ではなくヴィクトール本人が書いた証だった。だが、線には往時の力強さがない。病の床で書いたのは間違いないだろうと思われた。

 書かれた文字を、おそるおそる追う。


『我が王冠にして無二の友 ルネ・ブランシャールへ


 おまえの消息が途絶えて、そろそろ十年が経つ。おまえは今、どこでどうしているだろうか。

 ルネよ、残念ながら、おまえが戻る前に私は病を得た。医師は言葉を濁しているが、もう長くはないであろう。不老不死の探求は間に合わなかった。こうなるならば、おまえを旅になど出さなければよかったと悔やまれる。神の料理人さえ我が元に居たなら、不死鳥の肉で病を癒し、いましばらく永らえることもできただろうに。

 だが、いまさら言っても詮ないこと。せめておまえが戻った時のために、伝えるべきことどもを書面に残しておくことにする。


 ルネよ、まずは礼を言わせてほしい。貧民街から見出されて以来、おまえは本当によく働いてくれた。おまえの魔法料理は私に権威をもたらし、楯突く者どもを討ち滅ぼす力を与えてくれた。のみならず、私が執務に疲れた折は、菓子や夜食をも差し入れてくれた。夜中に届く一皿は、私にとって大きな安息となった。魔法のない軽食さえも、我が心身に力を蘇らせてくれた。

 出自由来の直截な物言いも心地良かった。初めの頃、おまえは言葉の汚さを気にしていたようだが、私にとって市井の訛りはむしろ耳に快かった。宮廷の言葉は、表向きこそ整っているが、内実は嘘と虚構にまみれたものだ。おまえの飾らない言葉は、私にとって癒しの音色だった。


 ルネ、おまえに出逢えたことを、私は心より天に感謝する。

 願ってはならぬのだろうが、できれば私は、冥王の元でおまえと再会したい。膝突き合わせて、これまでのことを語り合いたい。数十年の間、日々そうしてきたように。

 市井の者たちは噂している。おまえは霊山で神狼に喰われて死んだのだと。信じてはいない。だがもしおまえが先に行っているならば、どうか私を笑って迎えてほしい。かつて夜食を届けてくれたのと同じ笑顔で。

 ああ、だが、考えてみれば、おまえは今この手紙を読んでいる。死んでいるはずはないな。すまない、おかしなことを書いてしまった。


 ルネよ、私は先に行く。冥王の御許で、おまえが夜食を持ってくるのを待っている。

 だがもしも、おまえが霊山にて不老不死の秘法を得たのであれば、追って来る必要はない。尽きぬ寿命で、天地の恵みを満喫するがいい。私は黄泉の底から、おまえを見守っていよう。

 我が王冠にして無二の友、ルネ・ブランシャールに、尽きせぬ神の祝福があらんことを』


 一枚目の文章は、そこで終わっていた。

 動揺するだろうと予期はしていた。だが思った以上に、俺は揺らいでいた。

 ヴィクトールが死の床で、これほどの感謝を俺に向けて綴っていたとは。その胸中を思えば、後悔ばかりが胸を満たす。


 ――どうして、俺は傍にいてやれなかった。

 ――冥府に旅立つ前の声を、枕元で聞いてやれなかった。


 情けない。どうして俺は、いつまでも振り切ることができないのだろう。

 老い衰えてまつりごとを混乱させ、多くの者を犠牲にし、この国を恐怖で包んだ存在を、どうしていまだに愛おしく思っているのだろう。

 エティエンヌが横で、絶えず背をさすってくれる。温かさが、今はただありがたい。

 俺は震える手で、読み終えた一枚目を後ろに回した。

 そして――眼前に現れた二枚目の内容は、すべての涙が乾ききるほどに、想像を絶するものだった。

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