氷雪白鳥のコンフィ

 翌日、俺はエティエンヌと夕食の卓を共にした。王子の傍にはジャックが控えており、向かい側に座る俺と合わせて、三人が席に着いている。エティエンヌは相変わらず疲れた顔をしていたが、青い目だけは期待の色に輝いている、ように見えた。

 卓の中央には大皿が二つ。鉄製の覆い蓋クロッシュが乗っており中は見えないが、ジャックによる毒見は既に済んでいる。エティエンヌが、皿を見つめながら口を開いた。


「レクラタントの勝利の皿――と、伺いました」

「ああ、間違いねえ。レクラタントでの開戦前夜、師匠とヴィクトールが食べたのと同じ料理だ」

「すみません、ひとつよろしいでしょうか」


 横からジャックが口を挟んできた。


「ずっと気になっていたのですが。アメール殿、ヴィクトール前王陛下に対する敬意をいささか欠いてはおられませんでしょうか。御尊名を敬称もなしにお呼びするなど、まるで――」

「気にするなジャック。アメール殿は『神の料理人』にして、ルネ・ブランシャール殿の弟子。師匠の特権を引き継ぐのに問題はあるまい。……アメール殿も、私のことは敬称なしのエティエンヌで呼んでくださってかまいませんよ」


 一瞬肝が冷えたが、どうにかやりすごせたらしい。

 元々これも、レクラタントの「褒賞」のひとつだった。最大の功労者および王の無二の友として、ルネは「王へ対する敬称の省略」および「宮中における『市井の言葉遣い』」を特別に許された。慣れない丁寧表現をうまく使えず、四苦八苦していた俺を見かねたのだと、後でヴィクトール本人から聞かされた……以来数十年、俺は国王相手にも野卑な「市井の言葉遣い」で話しかけていたから、特権がすっかり染みついてしまっていた。危ういところだった。


「すまねえな。畏まらなくていいのはありがたいぜ、エティエンヌさんよ」

「問題ございません、アメール殿。貴方はこれから、我らにレクラタントと同じ勝利をもたらしてくださるのですから。褒賞の一部を、前倒しでお渡ししただけのことです」

「……そのことだがな。ひとつ、あんたに訊いておきたい」


 俺はエティエンヌの瞳を真正面から見据えた。青い目が、わずかに当惑したように見える。

 この期に及んで俺はまだ、この若造に魔法の料理を供したくないと思っていた。天衝く炎に覆われたレクラタント川の惨状が、頭の隅に取り憑いていた。今回の作戦は、あの時と同じではない。「同じ勝利」にしたくないがために、懸命に考えたものだ。

 だからこそ、「同じ勝利」と簡単に口にする相手に、料理を素直に食べさせたくはない。


「俺たちがレクラタントと同じ勝利を収めたとして。勝利を受け止める覚悟が、エティエンヌ、あんたにはあるのか」

「受け止める?」


 初手で理解されるとは、元々思っていない。問題はこの後だ。


「戦で勝てば人が死ぬ。敵も死ぬが味方も死ぬ。そして一度勝てば、行くところへ行くまで勝ち続けなきゃならねえ。勝ち続けりゃあ、背負うものはどんどん増えていく……しょいこみきれるのか、あんたに」

「アメール殿!」


 ジャックが小さく叫ぶ。だが部外者はどうでもいい。

 エティエンヌには表向き、反応らしい反応が見えない。目をしばたたかせながら、ぴんときていない風に俺を見ている。

 仕方がない。飲み込めていないなら、もっと強い言葉を使うまでだ。それでも理解されないかもしれないが、言っておかねば俺の気が済まない。


「要は、あんたには君主の器があるのか、って訊いてんだよ。背負ったものに責任取るのが、王様ってもんだからな。ここにあるのは王の食べ物だ。王様以外に食わすつもりで、作っちゃあいねえ」

「……っ!」


 思った通り、エティエンヌの表情が変わった。山で殺されかけた時と同じ、怒りの色が白い顔に表れた。

 俺は、さらにたたみかけた。


「今のうちに言っておく。ヴィクトールは、魔法の力だけで何十年も王様やってたわけじゃねえぞ。判断力も実行力も申し分なく、王としての器を十分に備えていたからこそ、長く人の上に立っていられた」

「お控えください、アメール殿!」


 再びジャックの鋭い声。だが知ったことか。理解されなくとも、いつかは言わねばならないことだ。


「神の一皿は勝利を約す。だが勝利の先はあんた次第だ。魔法さえあれば王になれるとか、ぬるいこと考えてんなら今のうちに改めろ。そんな了見で魔法を扱っても、ろくなことにならねえ」

「……アメール殿。あなた、は」


 エティエンヌが震える声を発した。卓に置かれた手が、握り締められて白んでいるのが見えた。

 そろそろ胸倉でも掴みにくるか、と予想した。だが意外にも、エティエンヌはそのまま肩を落としてうなだれた。


「そう、おっしゃるからには。勝ったことが、おありなのですね」


 反問の意図が読めない。これまでどこか刺々しく、触れれば暴発しそうな危うさをはらんでいた王子様が、なぜ急に態度を変えたのか。

 そして、何と答えるべきなのか。ルネとしてであれば、ヴィクトールと共に数々の戦いで勝利を収めてきたが、アメールとしてはどうなのか。

 少し考え、俺は答えた。


「まあ日頃、狩りはしてたからな。霊山の獣相手には何度も勝ってると、言えなくもねえ」

「……私、は」


 思い詰めた表情で、エティエンヌは言った。


「勝ったことが……ありません」

「は?」


 思わず、素っ頓狂な声が出た。


「王都を追われてからは、敗戦と退却の繰り返し。局所的な勝利は、私が関与していない戦線ばかりで……自ら前に出た戦いは、いちども」

「いや、戦に限らなくともなんかあるだろ。勉学とか、盤上遊戯の類とか――」


 エティエンヌは、無言で頭を横に振った。

 いたたまれない沈黙が食卓を満たす。勝ったことがない、とはどういうことなのか。あの常勝の王の息子が、ここまで頼りなく柔弱だなどと、誰が想像するだろうか。少なくとも俺には信じられない。


「受け止めきれるのかは、わかりません。ですが私は勝たねばならない……アメール殿。どうか私に、レクラタントの勝利の皿を」


 今にも涙をこぼしそうな顔で、エティエンヌは俺を見た。

 父親とはあまりにも遠い表情だった。顔の内に、ひとかけらの自信も力も感じ取れない。この青年が君主として適格だなどと思う人間は、誰一人いないだろう。おまえに俺の料理を食う資格はないと、言い放つのは簡単だった。

 だが、なぜだろう。

 俺の手は勝手に動いた。皿から覆い蓋クロッシュを取り、脇に置いた。

 食わせてやりたいと、思った。魔法云々以前の話だった。目の前にひどく落ち込んだ相手がいたら、美味い物で励ましてやりたい――そんな、料理人の本能めいた心だったように、思う。

 深めの皿の上では純白の肉が、薄金色のたっぷりの脂に浸かっている。脂と香草が混じった、えもいわれぬ匂いが部屋に満ちた。


「……氷雪白鳥スノースワンのコンフィ、だ」


 氷雪白鳥。幻獣の一種で、遥か北方の凍土にだけ棲むという「白鳥の王」だ。白鳥は普通、季節毎に大陸を渡り住処を変えるが、氷雪白鳥は常に、氷が浮く厳寒の湖を優雅に泳いでいるという。

 北方の獣の例に漏れず、氷雪白鳥は脂肪が多く、少し炙っただけで滴る脂が匂い立つ。脂には特有の芳香があり、調理法次第で他では得られない風味を醸し出す。当然ながら高級食材で、重さあたりの値は銀華芋の数倍はする。

 そして幻獣としては、際立って豊富な氷のマナを持つ。三日も食べ続ければ、大河を数時間凍らせるだけの力さえ得られる。言うまでもなく、レクラタント川を氷で封鎖したのはこの力だ。


「アメール殿。いただいて、よいのですか」

「ああ。ここで食うために作ったんだ。食えるだけ食え」

「……ありがとう、ございます」


 一口目をゆっくりと咀嚼し飲み込むと、エティエンヌは感嘆の声を漏らした。


「素晴らしい、味です」


 まあそうだろう、と内心で頷く。ギヨームが納品してくれた食材は、どれも上質な品だった。主となる魔法食材のみならず、ニンニクや各種香草、岩塩までも。これで不味い物ができてしまうなら、料理人の名はすぐにでも返上すべきだろう。

 エティエンヌはさらに食べ進め、うっとりと目尻を下げた。


「ここまで美味な鳥の肉は初めてです。噛むたびににじみ出る、香りの強い濃い脂……一方で心地良い歯ごたえもある。良質の幻獣肉と、技術を持つ料理人が揃わなければ、この味は出せないのでしょうね」

「お褒め、痛み入るぜ」


 四十数年間、王宮で料理人を務めた俺にとって、賞賛を受ける機会は元々多かった。それでも褒められて悪い気はしない。さきほどと打って変わった饒舌ぶりに、若干の痛々しさも感じるが、そこは気にしないでおく。表情を見れば、お世辞でないのは明らかなのだから。

 俺も自分の皿から覆い蓋クロッシュを取り、切り分けた肉を口に運んだ。エティエンヌの言葉通り、風味は絶品だ。ナッツを思わせる香ばしい脂、適度な歯ごたえのもも肉、旨味をたっぷり吸った付け合わせの芋。毒見の後で冷めているのが残念だが、それでも十二分に美味だ。

 そして、じっくりと噛みしめてやれば、口の中に広がる風味は次第に変化する。脂の香気が、舌の上で滑らかな肉汁と混じり合い、深いこくを生み出していく。まるで、肉そのものがほどけて脂に溶け出していくような、圧倒的に濃密な肉の味――これこそが氷雪白鳥スノースワンの真骨頂、魔法抜きでも珍重される理由だ。

 ゆっくりと噛み、すべてを味わい尽くした後、若干の名残惜しさと共に飲み込めば、身体にマナが満ちるのを感じる。


「何かが……身体の奥から湧いてくるようです」


 エティエンヌの声に、感激が色濃く滲んでいる。


「冷たいです、が……冷たいのに、なぜか温かい……」


 肉を口に運ぶエティエンヌは、幸せそうに目を細めている。眺めていると、胸の奥にあたたかな何かが灯るのを感じる。

 自分の作った料理を、誰かが味わってくれる喜び。ひとりで山に籠った十数年の間、遠ざかっていた感覚だった。

 ああ、料理人冥利に尽きる瞬間だ。ずいぶんと長い間、忘れていたけれども。


「そいつが、マナだよ。俺たちに勝利をもたらす力だ」


 気付けば、自分の食べる手は止まっていた。今は、目の前の青年をいつまででも見ていられる気がした。

 そうして、長く忘れていた充実感に浸る俺は――直後に待ち受ける新たな大問題のことなど、知る由もなかったのだった。

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