4−2 しりる・へいず
思えば、物心ついた幼い頃から、僕はそのことについて、ずっと考えてきたのだった。すなわち、良いものと悪いもの、それを決定づける価値観という線のことを――あるいはその線引きによって生まれる常識というもののことを。
僕が生まれたのは悪い国だった。そして、海の向こうのあの国は、とても良い国だった。雨上がりの空が青いように、そこに浮かぶ雲が白いように、それは誰の目にも明らかな真実のようなものだった。けれど、僕にはそれが不思議だった。
あの国を良いと言う人々は、あの国を知らなかった。僕と同じように、生まれ育ったこの国しか知らなかった。それなのに、どうしてあの国は良いと言えるのだろう。この国は悪いと言えるのだろう。
しかし、そんな幼い僕の疑問が、人々に理解されることはなく、ゆえに人々は訳知り顔で、何度も僕にこう繰り返した――いいかい、しりる。貧困や死、醜さや罪という、悪いものすべてはこの国のもので、豊かさや美しさ、人が素晴らしいと思うすべての良いものはあの国のものなんだ。この国に生まれれば、汚泥で育った米しか食えないし、病気になったって医者にもかかれやしない。けど、あの国に生まれればどうだ? 毎日ぱんを食べ、綺麗な水を飲み、雨漏りのしない家に住むことができるんだぞ。
そして、それでも僕が納得していないとみると、今度は脅すようにこう言った――そう、この悪い国に生まれてなけりゃ、お前の妹も生きていたんだぞ、と。
空しい会話は、そこが果てだった。とはいえ、それは僕に対してというだけで、人々は暇がある限り、そうしてこの国の悪さを、あの国の良さを、果てなく語り続けた。なぜこの国が悪いのか、あの国が良いのか、その理由すら求めることなく。
……いや、僕以外の人々にとって、その理由は明らかだったのだ。この国にはあって、あの国には無いもの――原始人。彼らこそが悪の根源であると、人々は信じていたからだ。原始人さえいなければ、この国は良いものであったはずであると、そう考えていたからだ。
けれど、僕はそれを信じなかった。なぜ? 僕自身、その理由に気づいたのは、後になってからのことだった。しかし、その自覚がないままにも、僕は人々の考えを嫌った。
なぜなら、人々が原始人と呼ぶのは、この島の先住民であった、ニホンジンの血が濃く出た人間のことで、猿程度の文化しか持たなかったと言われるニホンジンそのものではなかったし、それから百五十年も経ったいま、ニホンジンと血の混ざった僕たちは、見た目が少々違うだけの同じ人間に過ぎなかった。だというのに、一方を原始人と呼び、虐げるのは、どう考えてもおかしなことだろう――そう理屈づけていたからだ。
幸か不幸か、その考えは、日に日に僕の中で正しさを増し、一方、そんな僕の考えを面と向かって咎められる人間は、日に日に少なくなっていった。ただ一人、原始人に向かって「ニホンジン」という呼称を貫き、その不当な待遇を公に指摘したとしても、人々は僕を彼らが思う通りに正すことはできなくなっていったのだ。
しかし、先に述べたとおり、それは後に周囲の人間が評したように、僕が理性的だからというわけではなく、ましてや優しいからでは決してなかったということは言っておかなければならない。
なぜ僕が大半の意見に反し、僕の正しさを貫くことができたのかと言えば、それは常識の中で、僕の価値がとても高かったから、という理由に尽きたからだ。いや、それは僕の脳みその価値と言うべきか。つまり、それは勉学の才能――いまも昔も、あらゆるものの中で一番価値の高い能力を、僕は持っていたからだった。すなわち、この悪い国を脱し、あの良い国へ渡るために必須の才能を。
人々が僕を特別に甘やかしたのは、ただそのためだった。そして、僕は優しいという人々の評価もまた、その甘やかしの一つだった。否、それは評価なんて大層なものでもなかったのかもしれない。
悪とされ、嫌われる原始人。だというのに、それを気にしない素振りを見せ、あまつさえ彼らをニホンジンと呼ぶ僕。それはすなわち、最高に良い価値を持った僕が、最悪の価値を肯定しているという、人々には受け入れがたい事実だった。そこで、苦し紛れに出た言葉がそれだった――しりるはとても優しいのだ、という。
正直に言おう、僕はそういった人々を馬鹿にしている。常識の中に浸りきり、その外に他の世界があるかもしれないと、ほんの少しでも考えたことのない人たちを、いまも軽蔑し続けている。
だから、いままでの人生においても、僕はそんな人々の言葉に何の価値も見出してこなかった。天才だとか、優しいだとか、この国の誇りだとか――。そんな言葉を口にしていたとしても、彼らはすぐに手のひらを返すということを、僕は知っている。もしも、僕が誰も見せたことのない、悪の一面を見せたとしたら、人々はすぐにその良い言葉を投げ捨て、悪い言葉で僕を埋め尽くすに違いないのだから。
光の中、甘やかな気分のまま、口には苦い味が広がった。
あの頃、僕はいつのまにか抱えていた、大きな秘密に押し潰されそうになっていた。良いはずの僕を悪としてしまう、とんでもない秘密。だから、僕は原始人を擁護したのだ。悪という存在などこの世にはないのだと、証明しようと藻掻いていたのだ。
もちろん、それはいまだからこそ分かることで、当時の僕が意識して行ったことではなかった。そのときの僕は正真正銘、公正な態度で悪という価値と接し、その正体を見極めようとしている、ミナミで唯一の良い人間だと信じていた。だから、優しいという他人の評価も、当時はそれほど僕を煩わせることはなかった。あのとき、常識に浸りきった人々を馬鹿にしながら、僕もまた気づかずに、その常識の中で生きていたのだから。
しかし、それもまた、いまなら分かる。幼かった僕は、己の中で確実に育っていく悪に怯え、その反動で悪というものの正体について考えていたに過ぎなかったということが。常識だとか、常識ではないとか、良いとか、悪いとか、正しいとか正しくないとか、僕はまるで正義の味方のようにそれらを追い求めていると信じながら、実はまったく別のものに手を伸ばしているに過ぎなかったというこも。
そして最悪なことは、そう気づいた現在の僕が、ちっともましになっていないということだった。なぜなら、そんな過去を認識しながら、僕は未だそれらの価値にしがみつこうとしているのだから。
じょん、あだむ。
過去の名が、価値ある僕の脳みそに、はっきりと浮かび上がる。かつて、教会のぱんを餌に、まるで実験動物を飼うように傍に置いた原始人、そして、それに限りなく近い人間の名だ。
それから、あんでぃ、まりあ。
いまも心にある大切な友人であり、僕を悪たらしめた初恋の人の名。
そして、その過ぎ去りし時間を覗けば、そこには僕が開いてしまった、ぱんどらの箱が見えるのだった――その中から飛び出してきた、恐ろしい悪魔たちの影と共に。
*
真白い光に優しく包まれ、雨音が遙か彼方へ遠のくにつれ、気分は徐々にましになり、冷たい床に寝転べば、見上げた白い天井は輝く水面のように、ゆらゆらと柔らかく揺れていた。かちゃり、放り出された注射器が音を立て、それきり世界は静寂に包まれた。
僕は静寂が好きだった。あらゆる学問の中から数学を選んだのも、それが理由の一つだったのかもしれない。数学という学問は、人間の脳みその中だけで完結する。そこで使われる数字も、記号も、人間が頭の中で作り出したもので、だからこそ、その意味が決して揺らぐことはないからだ。
数字の一は、一という形を保ったまま、二を意味することは決してない。足すという記号が、割るという意味になることも決してない。それらはすべてが完璧に決まった意味と形を持ち、それは永遠に変わらない。そして何より素晴らしいのは、その意味が完璧に決まった世界の中では、良い悪いという価値観も存在しないことだった。
一が意味することは、ただ一であって、それ以上でもそれ以下でもなく、ましてやそれが良いだとか悪いだとか、そんな話にはなろうはずもない。それが僕の静寂だった。一は一、ただそれだけを意味するという数学の規律が、僕にはとても静かだったのだ。
ぴたごらす、にゅうとん、おいらぁ……数式が星のように宙を舞う。しばし、それらと僕は戯れた。その規則正しい文字たちが教える完璧な世界を、玩具で遊ぶ子供のように。
そうやって、ずっと子供のままでいられたらどんなに良かっただろう。小さくついた息が、数式を遠くに押しやっていく。取り戻した静寂が、再びざわめきを帯びていく。あのときのように、自分は正しいと一途に思い込んだまま、これは良い、これは正しいと、すべてを分類してしまいたい。いや、素晴らしい僕の脳みそは、それを容易く実現したはずだった。あの日、あの雨の日、僕があの崩れた教会の地下へさえ行かなければ。
その暗闇が脳裏をよぎると、それだけで雨の気配が僕を包んだ。薬が足りない――湧き上がる恐怖は、僕に一度放り出した注射器を拾わせ、ほんの少しだけ薬液を体に追加させた。それがどんなに危険なことかは分かっている。
けれど、ほんの、ほんの少しだけ。それから生まれた光の中で、懸命に、海を渡ってからのことを考えようとした。そう、あの暗闇とはほど遠い、この良い国へやってきてからの、素晴らしい出来事の数々だけを。
例えばそれは生活の簡便さ。すべての家は雨漏りもしなければ、隙間風が吹きすさぶこともなく、いつでも飲む水があり、温かい食事が食べられること。一歩外へ出れば、ありとあらゆるものが溢れていて、それらの品を気まぐれに自分のものにできること。甘い果汁に種々の酒、真っ白なぱんに、柔らかな肉に新鮮な野菜。
そういった品物だけでなく、人の手も、技能も、あるいは夜の町ではその体さえ、この国では手に入る。もちろん、それにはお金が必要だけれど、特別な才能を持つ僕には関係ない。この良い国は僕の才能に十分な対価を支払ってくれ、それどころか住む場所さえも用意してくれていて、そこで僕はただ数式のことだけを考えていれば、使い切れないほどの額が手に入った。
しかも、それだけではない。この良い国がさらに僕に与えてくれたのは、本当にかけがえのないものだった。それは人だ。例えば、僕を指導してくれたのは、この良い国でも一、二を争う教授だったし、そうして同じ教授に師事する仲間たちもまた、素晴らしい才能と人格を持った人ばかりだった。
あの国とこの国、あるいは、僕たちと原始人の違いに騒々しかった海の向こうとは違い、この良い国で出会った人々はそんなことは気にしなかった。誰がどこで生まれ育ったか、どんな容姿をしているか、言葉がどれほど訛っているか――それを気にしない彼らの態度は、僕が追い求めた正しさを具現化したもので、その居心地の良さに、僕は元からこの良い国に生まれたのではないかと、しばしば錯覚しそうになるほどだった。
そして、その良い人々に囲まれた結果、僕は生涯で最高の体験をすることになった。それはこの良い国が、僕の悪い秘密を、悪いものではなくしてしまったことだった。それは、この国では隠すようなことではない、ましてや恥ずべきことでもない――この良い国の良い人々はそう言って、僕のすべてを受け入れてくれたのだ。
それは、あの悪い国で決して叶うはずのない出来事で、僕はそのとき、幸せの絶頂に立ったと言っても過言ではなかった。何という素晴らしい国、何という素晴らしい人々! それから、この国で生まれ育った恋人までも得、有頂天になった僕は、それまでの自分を喜んで捨て、この良い国の一部となった。良い恋人、良い友人、良い先生、良い仕事、良い生活、この国は良いもので埋め尽くされた、楽園のような場所だ!
静寂の中、汚れた部屋の天井には、まるで喜劇の主人公のような、あの頃の僕が歓喜を叫ぶ様子が映し出されていた。両手を挙げ、飛び跳ねて、顔には満面の笑みを浮かべ、恋人のじょでぃを抱きしめる僕が。
その僕と、いま、天井を見上げる僕の視線がぶつかる。瞬間、良からぬ場面を見られたとでもいうように、過去の僕が目を逸らす。ああ、それを見つめる僕は思う。あのとき感じた視線は、僕自身のものだったのだ。あのときばかりではなく、いまも、その昔も、僕を咎める視線を送るのは、他ならぬ僕自身なのだ。
良いとは何か、悪とは何かということを真っ直ぐに見極めようとし続ける、それは僕が生まれ持った本質で、それは心がどれほどの幸せの中にあろうとも、機械的に働き続けていたのだ。それは本当に良いことなのかと、素晴らしいことなのかと、不正を許さぬ審判のような眼差しで。
その冷たい視線に、僕の思考は再び雨に引きずられ、暗闇へと誘われた。いまは光溢れる言葉ばかりを並べたいのだというのに、一点の曇りもなく、僕は幸せだと信じたいというのに、それは本当かと闇が囁く。光ばかりの世界などない。
もしも、そんなものが存在するのなら、ただお前が見て見ぬふりをした結果だ。雨に洗われ、泥を沈めるこの街のからくりと同じく、お前の中に降る雨が、その目に映る泥を洗い、己も見えない底の底へと沈ませてしまったからではないのか、と。
「その通りら」
光の中、消えない闇に、僕はつぶやいた。声は掠れ、舌はもつれて、うまく言葉がしゃべれない。それでも、そうすることで自らが救われるとでもいうように、僕は見えない誰かに訴える。
「そうらとしても何だ、それはいけないことらのか? 僕は幸せになっちゃいけらいっていうのか?」
闇が答えることはなく、僕は起き上がろうとして、そのまま床に倒れ込んだ。冷たいものが頬に撥ねた。ねとりとしたものが指に絡む。泥だ。この街は、この良い国の底。汚いものが降り積もる泥の中。僕だけではなく、この良い国の良い人々さえ、それと知りながら目を背けている場所。
なぜなら、そうしなければ、この良い国は存在できない。泥があることを認めてしまえば、この良い国は幻と消えてしまう。だから、人々は目を逸らす。僕もまた、僕の本質を泥の中へと沈めようと必死になる。えれんの顔を、僕の育った国を、二度と日の目を見ないように、深く、深く、深く、深く。
けれど、そうして泥を逃れ、上澄みに遊ぶ人々の輪に交じろうとする僕を、もう一人の僕は決して許さなかった。だから、僕は落ちてしまった。あの悪い国から伸びた手に、泥へと引きずり込まれたのだ――。
――しりる?
そのとき、愛しい人の声が囁いた。僕ははっと顔を上げ――それがいまの僕に向けられたものでないことに気づく。これは幻、過去の映像。それでも、僕はその人を探して、天井を見上げる。じょでぃ。僕を愛してくれた人。しかし、過去のその人は、白い顔をさらに白くして、目に涙を浮かべている。
じょでぃは僕に伝えたいのだ。この良い国に起きた悪い出来事を、僕と共有したいのだ。二人の価値観が同じであることを、確かめ合いたいのだ。そして、愛し合い、共に人生を歩もうとする伴侶が何者であるか確かめたいのだ。
いまにも口を開こうとするじょでぃに、どうか何も言わないでくれと僕は願った。過去は無情にも変わらない、そう知っていたとしても、なお希うように手を伸ばす。それでも、じょでぃは息せき切って、僕に悪の到来を告げる。
オーカミが私たちの大聖堂を爆破したんだと、倒れ込むように、僕の瞳を真っ直ぐに見つめて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます