4−3 しりる・へいず
その日のことは、いまでもよく覚えている。突然、大学近くにあった僕の部屋を訪ねてきたじょでぃは、どうしたのと聞く間もなく、居間のてれびを点けた。
てれびなど、じょでぃはあまり見ることもない。訝る僕の目に映し出されたのは、警官の姿がひしめく、緊迫した光景だった。立ち入り禁止の黄色い帯、救急車の赤い光、それを取り巻く、一様に恐怖の表情を浮かべた人々。
画面に固定された字幕には『大聖堂で爆発』の文字。この良い国の一番大きな都市にあり、かつ、あの悪い国の首都トーキョーにも分院のある、由緒ある聖堂。その大聖堂に爆弾が爆発し、数名の命を奪ったのだ。恐ろしい、悪の手によって。
なぜ、こんなことが――青ざめ、狼狽え、じょでぃは小さく震えていた。
なぜ。無論、こんな事態において、それは当然の言葉だった。しかし、僕がそう口にすべきだったことに気づいたのは、じょでぃに咎めるような視線を向けられたからだった。なぜ。じょでぃと同じように、僕は反射的に憤るべきだったのだ。この完璧に良い国で、その恩恵に与る者として――。
めまいに襲われ、瞬間、僕は未来を悟った。次にじょでぃの口から発せられる言葉も、僕がそれに答える言葉も、その結果、二人がどうなってしまうのかということも、あまつさえ、未来の僕が、こうして雨の響く部屋の床に、死んだように横たわっていることまで、まるで走馬燈のように見えたような気がした。
――君だってオーカミの名前くらい知ってるだろう?
果たして、じょでぃは僕が予知したそのままに、声を抑えてそう言った。怖じ気づきながら、僕もまた、予知のままに首を振った。それはこの良い国に対する、僕なりの返礼だった。研究に没頭しているふりで、てれびや新聞の情報を一切遮断し、僕は故郷を切り捨て、過ごしていたのだ。しかし、そんなことも知らないじょでぃは、意気込んで続けた。
――ほら、君の国の教会を爆破し続けた、あのニホンジン民族解放戦線ってやつだよ、あの恐ろしい悪魔が私たちの国にもやってきたんだ。
心が失われていくのも構わずに、僕はもう一度首を振った。オーカミ。その名を、僕は本当に知らなかった。言わずもがな、ニホンジン民族解放戦線という、攻撃的なその別名も。しかし、残念なことに、それが何者なのかということだけは明確に知っていた。じょんだ。あのとき、ぱんどらの箱から飛び出した悪魔が、じょんに乗り移ったもの――それがその正体なのだということを。
黙り込んだ僕に、いま初めて気づいたかのように、じょでぃは肩に手を置いた。同情の吐息を漏らし、そのまま僕を抱きしめる。優しさ、思いやり、共感、慰め。じょでぃは自分以上に傷ついているのは僕に違いないと、そう思ったのだろう。この良い国の良い人間の性で、何も知らない素直な子供のような心で。
だから、この激しい雨音はじょでぃには聞こえないのだ――じょでぃの温もりを感じながら、僕は一人立ち尽くしていた。あの悪い国で、信じられないほど痛烈に大地を叩き、すべてを非情に押し流してしまう雨の音を、家を流し、山を崩し、教会を崩壊させ、どんな秘密をも露わにしてしまう雨音を。
僕はこの雨音から逃れられないのだ――どこまでも孤独な絶望が胸を染めた。すべてを洗い出すこの雨は、僕が泥の底に沈めたものを暴き出していく。それを無力な僕は見つめることしかできない。
否、それが僕のものだけならばまだ良い。けれどこの雨は、雨音は、この良い国の人々が良くあるために沈めたものさえも、晒し上げようとしていた。僕のこの目に、彼らが見て見ぬふりをし続けた故に、そこにあることさえ忘れ去ってしまったものまでも。
しりる――愛しいじょでぃの声が、もう一度、過去から僕を呼んだ。目を逸らすこともできず、僕はその人がいま、そこにいるかのように、天井に映し出されたその顔を――その美しい目を見つめ返した。
彼が何を言おうとしているのか、既に予知ではなく、未来にいる僕は知っていた。同時に、その言葉を、僕がどれほど望んでいたかということも、それが最高の結末であったという事実も。
けれど、雨は激しく降り続いた。良い人間である彼の本性を暴くため、それを僕に突きつけるため。もし、すべてを知る僕が、それに逆らい、目を固く固く閉じたとしても、雨はさらに激しく叩きつけ、その髄までをも露わにしてしまっただろう。僕の見たくない、彼の愚かで浅はかな部分まで。
そうさせないために、だから僕にできることはただ一つ、じょでぃがその台詞を口にするまでの数秒間、彼の良い姿を、思い出を、反芻することだった。
その美しい白い肌、夜明けを閉じ込めたような瞳、金の髪、訛りのない、流れるような言葉遣い、悪い国から来た僕への分け隔てない態度、優しさ、聡明さ、そして何より男同士の愛を教え、僕を選んでくれたこと――。
そう、僕の悪い秘密とは、男しか愛せないことだった。愛とは、男と女の間に生まれるものだという、その常識に刃向かって、男に恋してしまうという性質だった。だから、僕は生まれた国を出なければならなかった。僕という、本来は価値の高い人間を、最低な人間へと貶めてしまう、あのどうしようもなく悪い国を捨てなければならなかった。
――私と結婚してくれないか、しりる。
僕の思いを知らず、じょでぃはそう言い、手の甲に口づけた。物語の姫が王子のそれによって目覚め、結ばれるように、その後の幸せに並々ならぬ確信を抱いて。
そこで時間を止められたら、どれほど良かっただろう。
しかし、僕はその手をそっと引き抜いた。引き抜かねばならなかった。すると、じょでぃは僕を見上げた。その美しい顔に浮かんだ表情、雨音によって露わになった、その感情。僕は胸が絞られるような思いで、その愛しい人の目を見つめ返した。
なぜなら、僕はその表情をよく知っていた。それは僕自身がかつて浮かべた表情――あの地下の洞窟を見つける前、己が良く、正しい人間だと信じて疑いもしなかった僕が、自然と浮かべていた表情だったからだ。
あの悪い国で悪い存在とされたもの、原始人。
じょでぃの表情は、その悪い原始人を優しく扱う僕のそれと同じだった。悪い彼らを、自らの正しさから良いものだと思い込み、そして、それは絶対に良いものであるのだと、自らの言動をもって周囲に知らしめようとした、かつての僕の表情と。
あの良い国で、僕は原始人だった。悪い国の彼らと同じ、とても悪い存在だった。彼らが望んで原始人に生まれついたわけではないように、僕もまた、同性を愛したいと望んだわけではなかった。そんなことを願ったことは一度もなかった。それなのに、僕は悪だった。そして、それは天才の僕にとって、受け入れがたいことだった。絶対に変えなければならない価値だった。
だから、僕は原始人を擁護した。否、彼らを擁護したわけじゃない。そうすることによって、ただ自分を擁護したのだ。自分の価値を上げようとしたのだ。僕の悪い部分を埋めるため、人々の優しいという声を欲したのだ。原始人を人並みに扱う僕、天才であるだけでなく、心まで美しい僕――。
君は分かってない――思考を遮り、あの日のままにじょでぃが言う。過去のじょでぃが、少し傷ついたような顔をして、それでも威厳を保とうとするように、さらに甘やかな声で僕に呼びかける。
ねえ、君は分かっていないんだ、これからどんなことになるのか、どうして私が結婚しようと言っているのか、それはすべては君のためなのに、と。
いいや、分かってるよ――そのあまりに残酷すぎる答えを、僕は口にしなかった。
もちろん、そう答えたところで、じょでぃはただ首を振り、君は分かっていないと繰り返すだけだろう。それでも、分かっていないのは、明らかにじょでぃのほうだった。
じょでぃの幻の前で、僕はゆっくりと目を閉じた。そこに広がる闇は、いまもあの大雨が露わにした、教会の地下と同じ色をしていた。そこで過去、僕たちはぱんどらの箱を開け放ってしまった。優しい僕を打ちのめすに十分な真実が眠る、その箱を。
それは、悪い原始人は悪くなかったという証拠だった。整えられた石段、流れ込む雨水を流すための水路、大小の石像、たくさんのろうそく、古びてなお美しい布。それらは僕たちの生活にはない、精巧な作りの品々であり、それになにより、あの古い紙――そこには文字が並び、容れ物には米が詰まっていた。あの良い国からきた人々が、神の糧である小麦に代わり、この地に与えたという米が、そこには大切に保管されていたのだ。
そして、僕の最高に良い脳みそは、それらが意味するところをすぐに理解した。
すなわち、原始人は本当に人間だったのだ。米を作り、食べ、己の神に祈り、布を織り、文字を記し、この島で暮らしてきた人間だったのだ。
僕の感じた衝撃は、とてつもないものだった。しかし、それには続きがあった。なぜなら、僕はその人々が消えてしまったことを知っていた。それだけでなく、彼らが人間ではない、猿としていまに伝わっていることを知っていた。そして、さらには、彼らの手がかりが、人知れぬ暗い地下に封じられていたことを知ってしまったのだ。まるで悪魔を封じ込めるように、その真上に建てられた教会によって。それは一体なぜなのか。
その答えは、あの良い国からやってきた、僕たちの先祖に違いなかった。血を混じらせたという事実がありながら、僕たちは、原始人は言葉も文化も持たない猿だと、そう習ってきた。それが行われたことのすべてを物語っているではないか――。
闇の中に溶け込むような、僕はじょんの顔を見た。過去のものとも、いまのものとも分からない、暗がりに浮かび上がる、原始人の顔。
瞬間、あのときの感情が強烈に胸を叩き、僕は声にならない悲鳴を上げた。感じたのは、得も言われぬ恐怖だった。ニホンジンたちの遺跡を見つけたあのとき、そこにいたのは確かにじょんだった。けれど、それはついさっきまでのじょんではなかった。彼はもはや原始人ではなかった。それどころか、彼は優しい僕が言うところのニホンジンでもなくなっていたのだ。
恐怖の根底にあるものは、まさにそれだった。あの瞬間、じょんはニホンジンであるために、僕の存在を必要としなくなったのだ――ねえ、じょん、皆は君を原始人と呼ぶけれど、僕はそうじゃない、君だって僕と同じ一人の人間だし、この島の先住民もニホンジンと呼ばれるべきだからね、と何もかも分かったように頷く僕を。
だから、僕は再び地下を封じたのだった。
僕が優しく保護してやっていたのは、醜く、馬鹿で、哀れな動物であるはずだった。なのに、それは僕たちと同じ体力と知能を兼ね備えていた。
そう理解した瞬間、僕が恐れたのは、彼らからの復讐だった。原始人は僕たちと同じ人間だとそう言いながら、実はそんなことをこれっぽっちも思っていなかった己を知った僕は、彼らにそれを暴かれることを恐れたのだ。
あの原始人という動物が石を投げられ、暴行されるには十分の理由がある。けれど、僕という良い人間はそれをしない。だって、可哀想じゃないか。彼らも好きで原始人に生まれたわけじゃないんだから――。
それが優しい僕の、偽りない本心だった。いや、それだけならまだましだ。僕はもっと賢しく、もっと卑怯だった。なぜなら、僕はそうして自分を偽りながら、さらに僕や彼らを悪とする常識、その巨大な意識に抗っているつもりだったのだから。世の中に悪などない、そう証明することこそ、常識の中で安穏とした人々と、天才である僕が違うところなのだと息巻いて。
まったくもって、失笑ものだ。いまから思えば、僕もまた常識に浸かり切った、馬鹿な人間と変わらなかった。僕という人間の大前提である「天才」、その特別に良い価値もまた、当の常識によって決められていたものだというのに。
とどのつまり、僕は、僕を特別にした常識は良いものとして飲み込みながら、一方で、僕を悪とする常識を排除したいだけだった。正しさや真実などと口にしながら、実はそんなものはどうでもいい、自分に都合の良いものを良いとして、都合の悪いものを悪としている、ただそれだけだった。
そして、それに気づいたからこそ、逃げるように海を渡り、この良い国の上澄みに浸かったのだ。良いとか何か、悪とは何か、そんなことを口にする資格などないというのに、この国のすべては良いのだと言い切って。
そして、それはこの僕に都合の良い国の、僕に都合の良い人々も同じだった。否、彼らはもっと以前――ぱんどらの箱を開ける前の僕よりもひどいものだった。何せ、彼らは何も考えないまま、自分に都合の良い現実を受け入れ、都合の悪い現実を排除することを繰り返しているだけなのだ。良い悪いという価値の線、そんなものがあるとすら考えたこともなく。
この国にも泥はある。原始人のように扱われる人々が、そうして血を流す人々が、そのために銃を構える警察官が、傷が、苦しみを紛らわすための薬が、悲鳴が、嘲笑が、上澄みには届かない汚いものが、すべて底に沈んでいる。それを直視しないまま、君は分かってない――だから、じょでぃの言葉は空虚なままで、僕にはまるで届かないのだ。
しりる、君は純粋すぎるよ――それでも、じょでぃは空っぽなままの言葉を重ねる。ぱんどらの箱を開けたことのない、あるいはそんなものが存在するとさえ考えたことのない美しい恋人が、それでも僕の知らない何かを知っているのだというように、諭すように口を開く。
ねえ、君はこの国を、人を、良いものだと疑わない。そう思ってくれるのは嬉しいよ、でも、実際そこまで簡単な話じゃないんだ。オーカミは――君の国から来た野蛮な連中は、私たちの大切なものを破壊した。何の罪もない人々の命を奪った。この許されざる行為に、皆怒っている。それも、ひどく。
私が心配してるのは、その怒りが君に向くことなんだ。もちろん、君個人には何の関係もないことだけど……分かるだろう? 君の見た目と、オーカミのやつらを結びつける人間は必ず出てくる。もし、これをきっかけに戦争が起きれば、そのときはこの国自体が君の敵になるかもしれない。私はそんな事態を避けたいんだよ。だから、結婚を申し出てるんだ。結婚して、国籍を変えて、この国の人間になろう。そうすれば、この国だって君を守ってくれる。もちろん、私だって君を守ることができる。
ああ、美しいじょでぃ。あの悪い国から来た、醜い僕を――男の僕を愛してくれる、優しいじょでぃ。彼が良い人間でないのなら、この世に良い人間などいないのだとさえ思えるほど、その言葉は甘美に響く。
けれど、ぱんどらの箱を開けてしまった僕は知っていた。そのじょでぃの瞳に映るのは、僕ではなく、僕を見つめ返す、かつてのじょんの姿だということを。安全で恵まれた場所で生まれ育った人間に、気まぐれに憐れみを投げかけられた、泥に生まれついた者の顔。
どちらに生まれつくかなど、誰も選べやしないというのに、そこに良いだとか、悪いだとか、一方的な価値が付けられていることなど、知りようもないというのに、だというのに泥にまみれてしまった、僕たちの姿なのだ。
雨音はいつしか遠のき、僕に向かって手を伸ばす、じょでぃの姿もまた、雨の彼方へ遠のいていく。追いかけようにも、泥で重さも増しゆく僕の体は、上澄みに浮かぶことがままならず、ゆっくり底へと沈んでいく。
これは街の自浄作用だ。この国の、いや、この世界の根本をなすものだ。醜く汚いものを沈め、美しいものだけを光の中へ浮かび上がらせ、そうして人が自らに都合の良い現実だけを選び取り、それを正しく、良いものだと抱きしめることを許すための。
人は誰しも囚われの身、どちらかの檻を良しとすれば、もう片方は悪なのだと、そう決めつけずにはおれない悲しい生き物なのだ――。
*
どれほどの時間が経ったのだろう。冷たい床で目を覚ますと、泥にまみれた小さな裸足が視界に入った。濡れた大地、滑らかな泥、臭う水溜まりの乱反射。ぽつぽつと頬を打つ雨だれは、細く鋭い針のようだ。
おかしい、今日は雨音が止まない。
小さな裸足を見つめながら、僕はぼんやりと考える。今日は大学で講義しなければならないというのに、これじゃ立ち上がることもできないじゃないか。
冷たい指先で、僕は例の薬瓶を探す。雨音を遠ざけ、僕を上澄みへと浮かび上がらせるための、大切な薬を。それをたっぷりと注射針で吸い込み、体に行き渡らせることだけを考える。心臓が止まってしまう、ぎりぎりの量が、体中の血管を巡る瞬間の快感を。
けれど、意志と反して指先は動かず、僕の鼓動は螺子の切れそうな時計のように、ゆっくりと、のろまになっていく。
――私は君が心配なんだ。
別れ際の、じょでぃの台詞が耳奥に蘇る。
――結婚を断られたから言ってるんじゃない。あんな治安の悪い街は……売人や売春婦がうろうろしてるような街は、君にふさわしくないよ。
僕はそれ以上の、治安の悪い国から来たんだよ――その言葉を思い出すたびに、僕は笑う。泥の中で生まれたんだ、そんな僕にふさわしいものというのなら、その泥こそがふさわしい。
小さな裸足の主が屈み、僕に小さな手を差し出した。えれん――その名をつぶやくと、痩せこけた少女は無音で笑う。その笑顔に耐えきれず、僕はその手を冷たく握る。
瞬間、僕は泥に沈んだ。何度も何度も繰り返された光景、しかし、今日ばかりはというように、汚泥の中に沈んだものたちは、僕を捕らえて放さない。いや、その無数の手から逃れてさえ、闇に塗りつぶされたこの底では、光の在処は分からない。上へ下へ右へ左へ、どの方向へもがいても、視界はただ黒く、どこへたどり着ける気もしない。
ただ聞こえるのは、泥の呻き。
雨は絶えず、降り続けている。
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