もう一つの世界
かもめ7440
第1話
一人暮らしのアパートに来客があった。
本来なら、ドアを開ける前に覗き穴で確認、
カメラ付きインターフォンで確認するべきだろう。
ちなみに、どちらも普通にしなかった。
貧乏大学生のアパートにおいてどちらも有り得なかったからだ。
運動後なのか発作なのか、息を切らせた女性で、
額に玉のような汗を掻いている。
それで、人でも殺すような勢いで、室内に入れてくれと言う。
切羽詰った様子の「お願いします」の連呼と、最敬礼に圧倒されて、
根負けして部屋に入れてしまった。
犯罪臭がしなかったといえば、嘘になる。
身元保証書の提示を求めても許されるシチュエーションだろう。
新興宗教ひいては法秩序を無視しろとかいう、
無茶苦茶な神に遣わされる、とか。
しかしそれは、ごく表面的なレベルにすぎない。
お世辞にもこの女性が勧誘に適している人物とはいえない。
まず相手に思考をさせている時点で、勧誘は失敗だ。
にこやかな笑みと巧みな駆け引き、お客がお金に見えると言う人もいると聞く。
存外な田舎者とか、よっぽどの訳ありかもと思うと、
不思議と納得はできた。
まず彼女が何がしかの緊迫した状況に置かれていて、
いまは、落ち着いて話を聞くしかない。それは確かなことだ。
ようやく水をくれというので、
とりあえずソファに座らせて、何があったのか聞き出そうとしたが
「もう、大丈夫だから」と何も語ろうとしない。
見た目は二十歳前後の美人。
通常なら、性愛の花園を蝶のように飛びまわっている年齢だ。
女優といっても通用するかも知れない。
この連想で、パパラッチから逃げる外国人女優の一齣みたいに思えた。
正面から鼻孔が見えないこと、
横顔の鼻のラインがごく緩くカーブしたラインが、
美しい鼻とされている。
そのうちに彼女が、
「おそれいりますが、森山様にお願いがあるのですが―――」
と切り出してきた。
その古風な物言いと、様付けで呼ばれたのが妙に気にかかった。
絵本の説明文に仔細らしく赤鉛筆でしるしをつけるみたいに、
田舎者とはいったが、世間知らずの箱入りのお嬢様なのか、と。
だが、すぐに思い直した。
それで?
お願いと言うのは、最寄り駅のコインランドリーに、
荷物を取って来て欲しい、というものだった。
拍子抜けしたかと言われれば―――した。
ここから十五分ほどの場所にあるので、別に取ってこれないことはない。
だが、縁もゆかりもない人物であり、
こちとら、便利屋稼業を商っているわけでもない。
もしそういう情報を聞きつけたなら何処から聞いたんですか、と問う。
かように、見ず知らずの人間に頼む道理がわからない。
しかしその上に、はらりと散る、無常。
この際、何かの縁である、他人ではないと譲歩するとしても、
理由ぐらいは聞きたい。理由いかんによっては手伝えることもある。
だのに、である。
「理由は迷惑がかかるので、教えられない」ときた。
さらに譲歩する。
自分もついていくから、そのコインロッカーへ行くのは駄目か、と。
だが、これも断って来る、迷惑がかかるの一点張りだ。
この時点で、犯罪絡みか、電波系としか読み込めない。
前提条件としてだが、そもそもの縛りとして、
迷惑というなら既にかかっている、押しかけているのはお前だ、
だから帰ってくれという話なのだが、
追い返してもまた戻ってくるかも知れないし、
長々と議論を重ねても、ひと段落つくところは、
結局、コインロッカーへ行くということなのだ。
警察沙汰にせず、穏便に済ませるなら、
ここは交換条件を出すべきかも知れないが、
これといって思いつかなかったので慈善事業と名を変えた。
嘘だ、こんな状況なのに一種の好意のようなものを感じていた。
ただ、後輩に電話をかけて、この女性の監視役を任せることにした。
人は見た目によらないとはいうが、
武道や格闘技の心得があるとも思えない。
もっぱらは、部屋を空けて物取り路線という方向で考えている。
いやいや、もしかしたら前に住んでいて、
何処かに何かを隠しているのかも知れない。
ミステリーの読み過ぎだ。
それでそんな嘘をついたのだと考えることもできるが、
そうなると、その隠しているものは、麻薬とか銃とかになる。
マフィアモードなら、数億の金。
さらに、最初のただならぬ息切れも、
そのシチュエーションの延長線にあるように思えてならない。
*
後輩がインターフォンを鳴らしたタイミングで、
それでは取ってきます、と外へ出た。
おう、と目くばせする。
「一応大丈夫だと思うが、気を付けろよ」
「ハーゲンダッツ喰っていいんですよね?」
「喰っていい。ただ、女は喰うな」
「馬鹿言ってないで早く行きなさいよ、アンタ」
十五分ほど行けば駅が見えてくる。
駅舎へ入り、二階にくだんのコインロッカーがある。
エスカレーターには沢山の人がいた。
システマティックな都市の光景だ。
百均や、コンビニやカフェなどが入っている中規模の駅。
ハードロック・ホテル・アンド・カジノの密集具合と騒音。
さもなければ、東西線木場駅から門前仲町駅の超混雑電車状態・・。
預かった鍵を回して荷物を取り出すと、古めかしい紙袋が出てきた。
と、タイムリーに後輩から電話がかかってきた。
女性が消えたというのだ。
目の前から、手品師のように、忽然と姿を消した、と。
どこか卑屈な気弱い影のある、はにかむような笑顔の後輩を思い出す。
―――嘘をつく奴ではないし、担ぐ奴でもない。
「お前、寝ぼけてるのか? 眼に、唐辛子入れるぞ。
あと、シシトウガラシするぞ、ハラペーニョするぞ」
「全部一緒じゃないですか、いやいやいやいや、
マジですって、本当に、透けて、いなくなったんですって」
「じゃあ、幽霊だったのか」
「幽霊とは限らないんじゃないっすか」
「じゃあ、蛞蝓だって言うのか」
「塩かけたわけじゃないっすけどね」
まあ、アメリカドラマの影響で、超能力者認定するのも可能だろう。
とりあえず、これから戻るわ、と言って電話を切った。
まあ、留守番を頼んだ、たこ焼きぐらい買っていこう。
というような後輩労りモード、変なことに巻き込んですまなかったな、
という気持ちが湧きおこりつつも、
さて、この荷物をどうするかという問題が砂漠の蠍のように残されている。
周囲に監視カメラや、人の眼がないのを確認しつつ、
紙袋の中をあらためることにした。
仮に麻薬や銃なんて入っていたら、
誤認逮捕されても文句を言えない。
いつかはわかってくれるというような甘い考えで、
冤罪事件が起きているわけだし、
ましてや麻薬や銃なんてほいほい手に入るものじゃない。
疑わしきは罰せずとはいうが、それは法廷だけで、
警察官ひとりひとりには同時に市民を守る責任がある。
それでも、河原で拾ったとか、神社で拾ったとかいうなら、
まだ、事情を説明しようがある。
だのに、わけのわからない話すぎて、お前頭ラリってんのか、
とヤク中扱いされるような気がした。
場合によってはそのまま家に帰れなくなってしまう。
「―――入っているなよ」
おそるおそる眼を瞑りながら、バッと見やると、ホッとした。
紙袋の中身は、幸い、麻薬でも銃でもなかった。
そこには、封筒に入った手紙があり、
森山様、ありがとうございます、と書かれてあった。
それで必ずこれが必要になりますので、お持ちください、とある。
読めない文字と絵を掘った、
年季の入った古めかしい木の札のようなものが数枚入っていた。
それから、
「夢の中で起こったことは現実になる」
「気付かないふりをしなければ一生相手に憑かれる」
「そこはどうやって入ったかもわからない密室、
永遠に外に出られない」
この言葉を覚えておいてください、と言う。
いい意味なのか悪い意味なのかよくわからない。
たこ焼きを買い、ふっとハーゲンダッツを思い出して、
ついでにビールとつまみのようなものをコンビニで買って、
戻った。後輩のためというより、自分のためかも知れない。
心臓は今日も大量の血液を街の隅々にまで送り出す。
信号機の前、横断歩道。
二三度肩を聳かして、そして心配らしい、物を聞き定めるような顔をした。
なるべく忘れたかった。
犬に噛まれたみたいなものだ、こんな変なことは。
オートバイが黄色信号でスピードを上げて通過して、信号が変わった。
進行方向カメラで線を引いたように貫く舗装道路に人が歩き出した。
―――僕は何故か一瞬ぼんやりとして、慌てて首を振った。
*
しかしその次の日から、携帯電話に迷惑電話が、
バンバンかかってくるようになった。
迷惑電話がかかってこないスマホなど存在しないが、
それでも一日数度だって多いぐらいだ。
それがどんな右肩上がりのベンチャー企業、
一日に数百回。
迷惑電話かけたがり、である。
だが、そうなればなったで、
ただの迷惑電話ということは有り得なくなる。
詐欺目的であってもここまで数は増えない。
何処かのサイト経由とか、個人情報流出とかを疑うべきだろう。
法律のグレーゾーンで運用してるサイトは多いと聞く。
もちろん、クレーム処理の仕事をしているわけでもないし、
仮にそうだとしてもここまで鳴ったら、鬱病患うレベルだ。
もしかしたら世界記録狙えるんじゃないかと思ったのは、
この前、フラッシュ暗算の世界記録保有者の動画を観たせいかも知れない。
何しろ、電話が鳴りっぱなしなので電源を切るしかない。
迷惑電話を受け取らないように、スマホで着信拒否した。
携帯ショップへ相談へ行くとそうするようにと言われたのだ。
けれど、単純な解決には至らなかった。
今度は迷惑電話でもない、迷惑電話、
こちらはつまり悪戯電話とかいうもの。
とはいえ、出ると「あれ、女の人じゃないんだ」とか、
言われた。
女の人というワードで、水商売とか思い浮かんだが、
残念ながらそういう店へは行っていない。
ただ、やはり人為的な仕業であるというのは確実だった。
思い切って、電話番号を変えた。
一応そのタイミングで、警察にも相談した。
そこ座って、何かあったの、と親身に話を聞いてくれはしたものの、
一通り説明し終わると、渋い顔をし、
捕まえるのは難しいだろうという意見をしてきた。
面倒臭いし、業務の範囲外なんだろう。
これはちょっと、過ぎた意見かも知れない。
さっきまで、ほんのちょっと未確認飛行物体によって、
アンドロメダ銀河まで誘拐されていない限りは。
しかしそれは行く前の段階からわかっていた。
警察は証拠や、すぐ動く緊急性がないと、何もしない。
文字入りの光沢あるガラス製チーズケースみたいなものだ。
ただ、ストーカーの可能性や、
知り合いによる嫌がらせという可能性もあった。
こたつの中で足を噛まれているという状況みたいだ。
その対応の為にも、一度は足を運んでおきたかった。
誰だって急に言われてすぐに対処はできない。
それからめっきり数は少なくなったものの、
それからは迷惑電話でも、悪戯電話でもない、
死者というふざけた相手から電話を受け取ることになった。
どういう設定なのかは不明だが、
電話を切っていても、勝手につながる。
稼働ビル制御装置に飛びつき、コントロール・センターを呼び出し、
多方向トップスピードのクリアランスを求める。
この重要な刹那を黙会して、殆ど息もしない。
「もしもし」と言おうとすると切れる。
さすが死者だ、沈黙以外はテレビの演出だということを知っている。
とはいえ、時には、よくわからない奇声や喘ぎ声のようなものが、
聞こえてくることもあった。
我ながら、スマホを投げてよく壊さなかったものだと、
忍耐力を褒めたたえたい。
こんな時、アメリカ人はゴールデンブリッジから、
スマホを投げ落としたくなり、
僕等は清水寺から投げ落としたくなる。
口に一ぱい物を頬張っている栗鼠みたいな顔は何度もして。
辟易している状況に眼を瞑りなが―――ら。
スマホを見るたびに、鳴り出しそうに見える、
という強迫観念はこうやって形成されてゆくのだ。
スマートなボディから電子音をさせて、
いまではくっきりとした、
思春期の早口に喋る甲高い女の子をイメージする。
沈黙が怖いんだ。
電話はすぐ繋がる、距離と場所を越えて意思疎通ができるけれど、
テクノロジーにはいつも弊害がある。弊害は干潟みたいなものだ。
象徴と記号として作られる干潟。
*
そんなこんなで、気が滅入っていた僕だったが、
「四時間で五万貰えるちょろい仕事だ。どうだ。手伝う気はないか」
と、先輩から誘われた。
普段ならどうみても闇バイト方面、
片足を棺桶にいれるような仕事と思って断っていただろうが、
悪戯電話経由で、バイト先に居づらくなり辞めた。
電話は鳴らなくても、仕事に集中できなくなった。
ぜんまい人形のようにいつまでも繰り返す。
テーブルを回す。感情なんかいらない。
ルーティンワーク。
それが僕におけるバイトというものだった。
とはいえ、仕送りもあるが、
バイトをするのはそれでは心もとない軍資金であるからでもあり、
結局、何事もお金というのは、
生活を安定させるのだということに思い至る。
許可を与える者との間で取り交わされる、秘密のプロセス。
臓器を取り去った最低の交通状態でも、蜜は流れる。
パブロフの犬は唾液を垂らす。
すぐに先輩の話に食いついた。
*
だが、先輩が運転する軽自動車が道に迷った。
都市部から郊外へ行き、山道へと差し掛かり、
人家が少なくなっているなと思った時だ。
ナビが何の前触れもなく、バグったのだ。
いや、そうなっても道はそんなに難しくないと言う。
地図だってあるんだ。
そんな言葉が少しずつ言えなくなり、終いには声も出てこない。
道もユンガスの道だか、コル・デ・ラ・ボネットだか、
天門山だか、オールドテレグラフトラックみたいになり、
―――酷道。
古びたバス停らしきもの、墓石群、赤さびた工場廃墟。
自動販売機も、コンビニも―――ない。
陽があんなに高かったのにあっという間に夕方で、夜だ。
仕事先は大丈夫なのだろうか?
おかしいな、と先輩は首を傾げていた。
「こんなヘアピンカーブの多いハードな峠道じゃなかった」
フットブレーキを踏みすぎてる。
山道教習にあたる教官みたいに思う。
「そんなに難しい道じゃなかったんだが」とさらに言う。
確かに先輩が迷っているところは見たことがなく、
一度来たことはあるにせよ山間だったし、見知らぬ土地なので、
うっかり間違えてしまったのかも知れない。
そう思って納得しようとは思ったが、最近の自分の異常すぎる状況を、
連続的に考えてしまう人間の脳の中では、不自然なところは見当たらない。
どうあれ、不幸にして目下のところ、一頓挫を来している。
また、先輩が案内してくれる仕事先へ何度も電話をしようとしたが、
スマホは圏外の表示が続く。
公衆電話が欲しかったが、撤去されていると聞く。見当たらない。
本当なら人家へ入って電話を借りるという手法もあるのだが、
その人家すら見当たらないような道。
緩やかな下り坂をガタガタと進んで行くと、
今度は三叉路に出た。標識というか、
随分古い感じの案内板が立っていたが、
字が消えかかっていてよく見えない。
見通しが悪いブラインドコーナー。
どちらもあえては言わないけれど、堂々巡りしているんじゃないか、
しかし冗談でも口にはしたくない。車内はどんどん冷気を帯びてくる。
そして真っ暗闇の中、どうしようかと途方に暮れている。
「仕事先には謝るとしても、仮にクビになるとしても、
―――とりあえず、戻らないとな」
「そうですね」
と、そこに、車が割り込んできた。
ライトをつけていなかったので、ビックリした。
だが車があるということは、町まで戻れるかもしれない。
仮にそうでなくとも、安堵感はある。
場合によっては道に迷ったと助けを求めることもできる。
「本当は少し車間距離を空けた方がいいんだがな」
「いや、でも、気持ちわかります」
スピードをあげていないつもりでも、
段々前のスピードが落ちて、車間が勝手に詰まっていったり。
そして、前との距離が近くなればなるほど視野が狭くなり、
カーブに差し掛かっていることにも気付くのが遅れ、
今度は自分が急ブレーキということも有り得る。
だが、この車に自分たちの運命が掛かっているような、
そんな気持ちが少なからずあった。
長い間、孤独に走り続けたせいかも知れない。
が、眼の前を車が走っているのだが、
ナンバープレート、数字も書いてあるが、
陸運局の地名が見たこともないものだった。
複雑な漢字で、それが三文字であることはわかるものの、
読めない。
こんなナンバープレート存在するのかと思うが、
もしかしたら沖縄とか北海道のナンバーかも知れない。
そう気は回すものの、そもそも字面が仏教的なのだ。
ハッと、気がついたら前の車が見えなくなっていた。
何処かに曲がる道でもあったのか、
と狐につつまれたような奇妙な感じだったが、
目印となる車がいなくなってしまい、
再び不安感がこみ上げてきた。
もはや先に進んでいいのか戻ったほうがいいのか。
キキッ、と車はブレーキを踏んで緊急停止した。
言葉が出なかった。
目の前には大きな岩がいくつも転がり、
車のライトで、落石防止の柵のようなものが向こうの林から、
押し出される形でひしゃげていて、落石があったのだろうと推察できる。
しかし先程まで、そんなものは見えなかった。
山道とはいえ、ここは直線に近かったから見えないはずがない。
冷蔵庫に放り込まれドアを閉められたような冷たさや凍てつきが襲う。
毒を含んだ棘のような枝を掻き分けた後みたいな自分の手首を握る。
「とりあえず、戻ろう」
「そうですね」
お互い、何か得体の知れないものを感じていたが、
ホラースポットでの恐怖を紛らわすための軽口のようなものは、
一切出てこなかった。
もっと別の、もっと強大なものの存在を感じて圧倒されていたからだ。
*
その後、どういうわけだかすぐに人家が見つかり、
近くの民宿で泊まれることになった。
小規模の家族経営。
旅館やホテルなどと比べると安心で良心的なコスパ。
玄関先にはたぬきの置き物と、季節の飾り物。
コロナ対策として、最新式の非接触の体表温検知器があった。
民宿の骨っぽい、五、六十代ぐらいのおじさんやおばさんは優しい人で、
車にガソリンを分けてもらい、
(もちろんガソリン代を上乗せした、)
帰りの道も教えてもらった。
「お荷物持ちましょうか?」と聞かれ、
大した荷物もなかったので自分で持ったが、
その一声だけでとてもホスピタリティがある。
しかし一本道なのに、どうして迷ったのか、
と怪訝な顔をされたが、それは、僕等が聞きたい。
急遽だったのでありあわせとは言うものの、
旬の野菜や山菜、猪を使ったジビエといったラインナップの料理。
美味しい。
風呂に入った。
お金がないにせよ、
まあ人生こんなこともあるもんだという気がした。
ブーンとうなる蛍光灯。
反社会的かつ精神性を欠く快楽である、溶けたバターみたいに熱い小便。
ロールプレイングゲームっぽいテロップが脳内に出る。
復活したキリストの声を聞いたと信じて回心したパウロ。
和室に布団、お風呂やトイレは共同だが、
エアコンやテレビ、冷蔵庫などの基本的な設備は備わっている。
また、いまの時間帯は閉まっているが飲食店やスーパーも、
十キロ圏内にあるらしい。
浴衣を着ている、お前何しにきたんだという先輩が戻ってきた。
春らしい、浅い酔いを伴った、鈍重な気分だ。
そしてやっぱり浴衣を着ている、お前何しに来たんだという僕が、
どうでしたか、と言う。
「ああ、電話借りてバイト先に連絡してきたよ。
あと、落石があったので道路緊急ダイヤルに連絡しておいた」
「どうでしたか?」
「ご苦労様って言ってた、意味わからんけど」
「迷うのが仕事みたいな言いぐさですね」
「まあ、明日出直そう」
真夜中、天気が荒れ始めた。
耳元にざわつく雨の音が、頭の中で朦朧となってきて、
すうっと奈落へでも落ち込むような気になる。
うつろな寝床の皺を指でなぞっているみたいな気持ち・・・。
雨風が強くて、マラカイボ湖さながらにアーク放電が見えていたので、
怖いなあぐらいに思っていたが―――。
落ちた。雷が。
民宿の上に、そして電流が駆け巡るのを感じた。
意識、呼吸、脈拍をチェックする暇もなかった。
時雨のように過ぎ去ってゆく、電流。
呼吸停止、心停止におちいっていれば、
ただちに心肺蘇生法をする人もいなかった。
間違いなく感電死した。
如実に、たったその一瞬で、生を終えた。
死んだという自覚があるのは意識があるのに痛くなく、
真っ暗闇の中に気が付くと座っていたからだ。
雷の電流は水道の蛇口や電気器具などを伝わって、
流れてくることがあり、触れることで感電して火傷をしたり、
死亡する、という話も思い出せた。
パンを両方の親指で割くと皮の間から白いところが見えるみたいに、
「死んだし、生き返るか?」と、どこからか先輩の声がした。
「そうしましょうか」と何となく答えたら・・・・・・。
アパートの中にいた。
一人暮らしをしているアパートの部屋だった。
部屋は冷たい透明な膜をかぶせたように、寒かった。
古い家具や見すてられた敷物のかもしだす古い時間の匂いがした。
ポケットに入ったスマホで日付を見てみる―――と。
間違いなく、時間が戻っていた。
三週間前、一人暮らしのアパートに来客があった、あの日だ。
時間帯から見て、これから女性が来るのだろうかと思ったが、来なかった。
時間は奇妙な流れ方をしていた。
本棚の陰、揺れるカーテン、テーブルの脚。
ささやかな 暗闇が、現実から少しズレていた。
無音のうちにこっそり移ろっていく、翳りゆく部屋。
ふと気づくと、テーブルの上にコインロッカーにあった紙袋があり、
部屋に古めかしい壁についている電話機のようなものがあった。
電話サービス開設当時は五分で約二,二五〇円だった。
電話交換手なんていうものもいた時代のシロモノだ。
となりのトトロに、これに近いタイプのものが出てくる。
デルビル磁石式壁掛電話機。
もちろん、アンティーク趣味もなければ、
そんなものがあったという覚えもない。
おかしいなとは思いつつ、
電話を取って、これ、かけられるのかなと受話器を耳に当てると、
「ご苦労だったね」といきなり喋って来た。
ビクッとした。低い、落ち着いた感じの、紳士の声。
受話器を取り落としそうになった。
「バイト代は振り込んでおいたよ。また仕事をお願いすると思う、
それでは」
「いやいやいやいや、待ってください!」
「―――バイト代って何なんですか」
「―――四時間で五万円、八時間だったら十万円、
それに、イロをつけた金額のことだけど、何かあるのかい」
「ということは、僕は三週間後の―――」
「森山君、あんまり詮索しない方が身のためだ。
あと、先輩は行方不明だけど気にすることはない、
彼には別の仕事をしてもらうことになった。
君は仕事をした、そしてお金をもらった、
いずれは君を正社員として雇ったりもするだろう、
給料の待遇も考える、けれどそれはイロの中に入っている。
もう一度言うよ、あんまり詮索しない方が身のためだ。
返事は?」
「わ、わかりました」
電話を終えたあと、確かに先輩は行方不明になっていた。
どころか、先輩の住んでいたアパートに人が住んでいた形跡も、
なかった。来客の無かった三週間前、
ハーゲンダッツを喰い、たこ焼きを喰い、ビールまで飲んだ後輩を呼ばず、
バイトを辞めて困っている後輩を気にかける優しい先輩がいない。
また、バイト先へ行くと働いていないことになっている。
いつ、とバイト仲間に聞いた。
いつだろう、でも、そう店長から聞いたよ。
正直言って、店長にいつ辞めたかと聞く気はなかった。
まるで健忘症とか、夢遊病者のような気分だ。
物事がはっきりしなくなる、まるで不利に運んでいくように思える。
そんな人いたのかなとも思えてくる。改変。改竄。
細胞が入れ替わって―――いく。
何かがおかしいことはわかっていた。
けれど、もはやそれを受け入れるしかなかった。
*
それから電話機の雇い主経由で色んな仕事をした。
頻度も、一週間に一回から、二回、三回、四回と増えていった。
勝手に歩き回る人形を売る仕事。
といいながら、誰に売っていいのかわからず、
滑り台や砂場のある公園のベンチに座っていたら、五分で釣れた。
三メートルはあるんじゃないかという巨神兵で、
ナイジェリアのイジョ族の仮面を思い出す男性に売った。
牛のように大きな眼はまた鷹のように貪婪に輝いている。
身長三メートルシリーズは、まだある。
古書店から指定された本を買い上げて、
渡すという仕事もあった。
売ってくれなかったらどうするんですかという時には、
木の札を渡せばいいと言った。
その筋ではアメリカンエキスプレスカードより有効だ。
しかしここらへんはまだ、可愛い。
夜中指定で、心霊スポットへ行き、罰当たりにならないのか、
コンビニやドラッグストアで売っている花火セットを置いてきた。
何の為に、という問い掛けは許されるが、その答えは用意されていない。
第一、お金は振り込まれているにせよ、
一体何処から利益が出ているのかわからない。
とある神社の、〇月〇日のきっかり十七時二十五分に人が通るので、
必ず、一言一句間違えてはならない、
「はとを食べますか?」と言うわけのわからない仕事。
だが、これでもまだ、常軌を逸しているだけにすぎない。
縁日の日に、屋台の料理を買い込んで、
神社裏の突如現れたマンホール状の通路から、
全然違う世界へ行き見るからに妖怪みたいなものに、
渡すという仕事もあった。
妖怪や幽霊や宇宙人、もう何でもござれだった。
人間離れしたサーカス団のような仕事をするにつれて、慣れるって怖い、
平気な顔して、「お待たせしました」とか言えるようになった。
平気な顔して、「それでは失礼します」とまで言えるようになった。
実際、危害を加えられない、相手はただ異形なだけだと思えると、
猛獣相手にムツゴロウすることも出来るのだ。
世の中にはひよこ鑑定士とか、ベーリング海で蟹をとってくる仕事とか、
マグロ漁船に乗り込むなどの仕事がある。
人が知らない仕事というのは、実は沢山あるのかも知れないと思うようになった。
世界の認識は見えている世界だけで構成されているけど、
ひとたび、認識の範囲が変われば、
世界はいくらでも見え方を変えることがある。
輪廻や、前世の感覚や、業や、因果を想うほど―――に。
どれも高額で、懐はこれ以上なく潤ったが、
精神面はかなりきつかった。
魔法だ。君はこれから魔法について知ることになる。
魔法は―――最初あったものを違うものに造り替える。
それが阿吽の呼吸の中にある。
大学に通っている僕の講義のスケジュールや、
友達や後輩と遊びに行く日や、飲みに行く日、実家に帰る日、
などを全然話していないのに完璧に理解している。
情報漏洩だ、と思う。
けれど、どうして僕がまだ考えてもいないことまで判明している。
おそらく、僕がこの仕事に対して、
本当は辞めたいということも知っているはずなのだ。
それでも、この仕事を続けさせるのは、
僕でなければならない理由というのが何処かにあるのだろう。
一度死んだのだ、ということがわかった。
いつだったか、先輩のことや、あの日、
僕の家に来た二十代ぐらいの女性についてたずねたことがある。
どちらも絶対に聞かなければならないことだった。
前者は、いま、外国勤務になっているという。
遠い所なんですかと聞くと、想像以上に遠いところだと仰られる。
地獄とか、冥界とか、賽の河原とか、三途の川とか、
そういうところなのかも知れない。
元気にしていますか、と聞くと、
彼は君よりずっとこの仕事を楽しんでいるという。
バイタリティのある人だもんな、と思う。
何だかんだ、よくしてもらった人が楽しそうに過ごしているなら、
僕がこれ以上何か言うべきことはない。
最低限、電話の相手は嘘をつく人ではないという信頼関係は構築されていた。
後者は、僕に縁のある人で、この仕事の紹介者であり、
身元引受人だと教えられた。詳細はいえないが、とある眷属で、
限りなく神に近い存在らしい。
そう聞いた瞬間に、ふっと何か思い出しかけたけれど、
慌てて首を振って、そうですか、それでは失礼しますと電話を切った。
巻き込んだ、巻き込まれたという気持ちがあるのに、
いまではもう、煩悶が起きない。
彼女のことを想うと、不思議と優しい気持ちになった。
恋愛感情とは違う、もっと淡くて優しいものだ。
それにつれて、僕の中の人間に対する考えみたいなものも、
少しずつ少しずつ崩れていったのかも知れな―――い。
*
そしてあの仕事がきた。
何もかもがおかしかった。
夢の中。
どんどんと自分の足元の方に視線が落ちていく。
それから僕は左右に顔を向けて、
この通路が何処へと続いているのか考えてみる。
わからない。
やがて冥府へ続くようにも思えた地下へ続く、
階段は終わったものの、
辿り着いた地下は通路のようになっていて、
よく見れば電車のレールがどこまでも、
薄暗い闇の奥へと続いている。
夜は如法の闇、洞窟にはプラトンの狂気が巣食っている。
反対側には赤い文字で終点と書き殴ってある。
奥に進んでいくにつれ、
闇がまとわりつくほど濃くなっていることにも気づかず、
淡々と歩みを進めた。
さらに先へと進む。
レールに沿って歩きながら、色んなものを視た。
裸電球の下で蹲っているスライム状の何か。
もつれた糸をほぐすように、輪郭線をひとつひとつ見分けていく。
壁の穴から絶えず噴き出してるヘドロ状の何か。
そして、蠢いているケロイド状の、何か。
呼吸の感じ、魅入られるような感じ・・・・・・。
神経細胞は電線となり、スイッチとなり、コードとなり、
交換台、中継台となり、又はアンテナ、真空管、ダイヤル、コイルなどに変形する、
全身の細胞各個に含まれている意識感覚の各セクションへと反射交換する。
線路からプラットフォームをのぼった。
傷んだ鉄道会社のポスター。黄色い点字ブロック。
シンプルな時刻表。
連絡通路なのか、階段をのぼり、無人の改札を通り過ぎた。
一体ここは何処なのだろう。
混乱する頭を必死に落ち着かせながら、
ふらふらと頼りない足取りで駅舎を後にする。
背中に停車する電車のブレーキ音がした。
おかしいといえば、空もおかしい。
夜が一向に訪れないのだ。
時計の針が止まっていた。電池が切れたというよりは、動かなくなっていた。
屈折した光線が、この世のものならずフォーカスされて瞳の窓より入り、
夢幻の浸蝕を感じる。
どれぐらいの間この不思議な光景を身じろぎもせずに眺めていたろうか。
少し前なら地上の風景を縮小し、
神経はもっと必死で緊張したかもしれない。
そこに、先輩の姿が見えた。
そこに、いつぞやの二十代ぐらいの女性が見えた。
顔を見た瞬間に、バッと不安や恐怖のようなものが去った。
時間の海をわたってきた美しい船のようにも思われた。
眉宇のあたりにあふれているいじらしいほどの感情は、
―――家族や同胞、あるいは信頼できる仲間そのものだった。
眼が覚めるのが惜しいと思えたのは何故か、
いつのまに、こんな気持ちを抱くようになったのか。
美酒に酔った春夜の夢よりも、更に一層凄艶な夢。
その時、電話機に耳をあてているみたいに何処かで声が聞こえた。
「人の姿を捨てる覚悟が出来たようでありがたい」
およそ知的でインテリな階層の人物、あの電話の人物の声がした。
*
目覚めると、一人のアパートの部屋にいた。
神経組織を鷲掴みにされる、咽喉のあたりが苦しい。
それが半ば意識のない衝動や熱望によって、陰鬱で重苦しい、
間延びした感覚にすり替えられる。
電話機の他に、古い柱時計が増えていた。
現実感がなかった。
一言一句、一場面一場面、一挙手一投足まで、覚えていた。
恐る恐る、自分の腕を見下ろす。
そこには、あるはずの右腕がなく、義手になっていた。
けれどそれが、気にならないほどに、麻痺している。
いつもなら、
スマホでキャッシュカードの残高が増えているかどうかを確認するのに。
テレビを点けると、裁判で誰かが、誰かを何かの容疑で裁いている。
常軌を逸した正義が不意に得体の知れないほど気持ち悪く思えた。
テレビの向こう側は、様々な迷信が暗く跋扈するようなものに見える。
SNSのせいかも知れない。人間の屑のような行動が増えて、
日本人らしさというのが見いだせなくなったせいかも知れない。
世迷言のような詩の香華。
人同士のやり取り。
万斛の愁いと悲しみ。
皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑。
内訌の消息を語り。
人同士の関係。
ともすれば張り詰めた気持ちも途切れがち。
そんなものがひどく希薄で、うすっぺらく思える。
それは人間以外のものに多く触れ続けたせいなのかも知れない。
染色液体のように部屋中一ぱい漲り溢れている。
色々な場面がしっきりなしにフラッシュ画像のように、
次から次に現れてきて仕方がない。
湯船に浸かり、何が起こっているのかゆっくり考えてみる。
陽射しが床タイルにくっきりとした窓枠の影を作っているのが見えた。
風呂からあがって、冷蔵庫を開けると玻璃の青さとは違う、
ペットボトルの水を飲む。
何をどうしていいのかわからず窓を見ると、
腰までの長い髪で、ふくらはぎぐらいまでの黒いワンピースを着た女が、
一階の窓のひさしの部分から、
隣の窓の方へ足を掛けようとしているのが見えた。
その瞬間の、恐怖がないことになど気も付かず。
あの人鍵を忘れたのかなと思うと、その瞬間に、
こちらを見た。女性はピョンピョンと壁を跳んで、
こちらの窓までやって来て、ガラガラと開けた。
一瞬のことだった。
僕は笑っていた。
鼻筋を通すように真っ二つにされて、
分かれた顔面は左右に大きく開いてるのに。
真っ正面から脳がモロに見えていて、
眼球も中から見える感じだったのに、外面ではなく、
心の向こう側ばかり見ているとそれは気にならなかった。
視覚的に強烈な印象を残すグロテスクに動揺する。
けれどその動揺は自分の中にある慣れや、受け入れの方に、だ。
全然怖くなかった。
こんなの絶対気持ち悪いはずなのに。
きらきらする柔毛の間より、
眼に見えぬ焔でも燃えいづるように思われる。
一条の光の筋に、無数の細かな埃が舞っているのが見える。
彼女だ。
「迎えに来たわよ」そう言った。
重たい気分のなかに、何ものともしれない疼くような心の中の暗い影。
単に美しいのみではなくて変化に富み、時には沈痛な深みのある音を出す、声。
インターフォンが鳴って、ドアがひとりでにがちゃりと開いた。
先輩の声がした。けれど、身長は三メートルを超えていて、
もはや、異形の姿となっている。何か電気でも孕んだような具合で、
その運動の弾力のある柔らかさ、
あるいは軽い快い冴えのようなものに触れる。
「そろそろ行こう」
*
「夢の中で起こったことは現実になる」
「気付かないふりをしなければ一生相手に憑かれる」
「そこはどうやって入ったかもわからない密室、
永遠に外に出られない」
*
鳥居をくぐると、今度は延々と急勾配の石段が続く。
太鼓の音が次第に近づいて来た。おまけに笛の音や誰かの歌声まで聞こえる。
エドガー・アラン・ポーは、鴉が喋ったと思った。
だから僕にもそう聞こえるのだろう。天狗の話をしている。
二人に手を引かれながら、先へ進んだ―――そこから先に見えるもの。
・・・・・・それは魅入られてみなければわからない、
脳のデータを丸ごとデジタル空間に移植する、
トランスヒューマニズム・・・。
夜の市が始まる、豊かで穏やかな水のような音がし、
意識が途切れ、そこには、顔のないスーツ姿の男が待っている。
こがね色の雲から天国の欠片が落ちてきたような気がする、
過去の歴史は波の彼方に葬られて、ここに果敢ない末を見せている。
―――永遠の黄昏。
合わせ鏡になった、街のもう一つの姿。
空間の中にあるもう一つの別の空間。
心の中と肉体が一体化している、もう一つの世界。
木漏れ日を斜めに受けながら、
その一部分が網の目のように透いている。
立ち止まって後ろを振り返ると、
石段からの光景がとても美しかった。
夕焼けの景色の中に、田んぼがどこまでも続いている。
水を張った田んぼは鏡のように夕焼け空を反射していて、
木立からは西日が漏れ、ひぐらしが鳴いている。
不意に気付く、美味しそうな匂いがし、お腹が減っていることに気がつく。
毒薬を、茨棘を受け容れ、
束の間、葦のように揺れているもう一つの世界が近づく。
破天荒の思い付きとは違う、
ここが自分の世界で、居場所なのだと思える。
しみや釘のような、無の際限のない、蟻やアメーバーのような、
瞬きほどの保有の痕跡が眼のない魚のように泳ぐ・・・・・・。
*
「夢の中で起こったことは現実になる」
「気付かないふりをしなければ一生相手に憑かれる」
「そこはどうやって入ったかもわからない密室、
永遠に外に出られない」
『鼓動』は覚えている、『息遣い』は覚えている、
『昂奮』は覚えている、『生きている感覚』は覚えている。
*
でもそれが“幸せ”か“不幸せ”かどうかもわからない、
長い長い回り道をして、修正して、回転して、
フランツ・カフカの「変身」のように、
主人公が巨大な虫に変身するという異様な状況が始まる。
知ることは―――“植物の栽培方法”でもあるし、
“公園の面積を求める式”のようでもある・・・。
無垢な眠りにも似た一秒をもって、一気に開き去る。
見覚えのある、仕草で。
作法もなく大胆に延ばした腕で。
渺茫とつづく時のはやさとはうらはらに頬を撫でる風、
昼のかがやかしさと、恍惚、埃っぽい空気、
それでいて花蜜のあこがれをさそう、
その心地よさにも似た、永遠の黄昏が―――光る・・・。
「森山君、祭りの準備を始めよう」
静かに促すように、けれど何処か優しく、そう言った。
もう一つの世界 かもめ7440 @kamome7440
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