2. 弟子入りの日
1672年の春、プラハの空は鈍色の雲に覆われていました。遠くから鐘の音が響く中、17歳のエリアスは、少しだけ早く芽吹いた木々の下を足早に歩いていた。手には自作の革製の鞄を握りしめ、その中には、自分がこれまで独学で書き留めた錬金術の覚え書きや、師匠への贈り物として大切にしていた黄鉄鉱の結晶が入っています。
「ヒエロニムス・ファエウス……錬金術師の中でも名高い人物だって聞いているけど、僕なんかを弟子にしてくれるだろうか。」
エリアスは何度もそうつぶやき、自分の胸を鼓舞しようとしました。胸の奥で緊張が高まり、心臓が早鐘のように鳴っているのがわかります。
小さな工房が見えてきた。それは目立たない建物で、石造りの外壁には時間の流れが刻み込まれている。入口の扉には錬金術師の象徴とも言える三角形と円が刻まれていた。その古びた扉に手をかける瞬間、エリアスは一瞬ためらいます。
「これでいいんだ。自分の目指す場所に近づくためには、この扉を開けるしかない。」
深呼吸を一つ。エリアスは扉を押しました。
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中に入ると、薄暗い空間が広がり、草木の香りと金属の錆びた匂いが鼻を突いてきます。ガラス瓶や蒸留器が所狭しと並び、奥では火がかすかに燃えているのが見えました。室内は整然としているというより、混沌の中に秩序があるような不思議な空気が漂っていました。
その中央に立っていたのは、やや小柄だが威厳を感じさせる老練な男でした。彼がヒエロニムス・ファエウス。灰色がかった髪と深い皺が刻まれた顔、その眼差しは、全てを見透かすかのように鋭かったが、どこか温かさも秘めています。
「お前がエリアス・ヴェルムか?」
ヒエロニムスはそう言うと、エリアスをじっと見つめました。声は低く、静かだが、不思議と圧倒されるような力があります。
「はい、エリアスです。私は……錬金術を学びたくて……どうか弟子にしてください!」
エリアスは一気に言葉を吐き出し、深く頭を下げました。胸の中の緊張が言葉と共に弾けます。
ヒエロニムスはしばらく黙っていたが、近づいてエリアスを観察するように見つめました。目は鷹のように鋭く、しかしその奥に探究心の火が灯っています。エリアスはその視線を受け止めるのに必死でした。
「なぜ私を選んだ?」
突然の問いに、エリアスは一瞬戸惑ったが、鞄から黄鉄鉱の結晶を取り出しました。それを両手で差し出しながら、声を震わせつつ答えます。
「これが僕の始まりです。父からもらったこの石が、錬金術の世界への扉を開いてくれました。そして、自分で学び続ける中で、あなたの名を聞きました。僕は、この結晶がただの『愚者の黄金』ではなく、何か大きな可能性を秘めていると信じています。それを探し出す術を、あなたから学びたいんです。」
ヒエロニムスは結晶を手に取り、光にかざしてじっと見つめました。表情は変わらないが、微かに唇が動き、笑みとも取れる形が浮かびます。
「愚者の黄金か……なるほど、物好きな少年だな。だが、興味深い。」
そう言うと、ヒエロニムスは結晶をエリアスに返し、重々しく頷いたのです。
「錬金術を学ぶということは、金を作る夢を見ることではない。本当に学ぶ者は、自らを試すつもりでいる。お前にその覚悟があるならば、私の元で学ぶがいい。」
エリアスは目を見開き、深く頭を下げました。「ありがとうございます!絶対に努力します!」
ヒエロニムスは振り返り、工房の奥を指差しました。「よし、まずはあそこを片付けろ。錬金術師の第一歩は、秩序を学ぶことからだ。」
エリアスは笑顔で頷き、荷物を置いて早速指示に従いました。こうして、彼の錬金術師としての本格的な道が始まったのです。工房の薄暗い空間に、若い情熱の灯が新たにともる瞬間でした。
エリアスとレオナルドの出会い
ヒエロニムスの工房に弟子入りして数日が経った頃。エリアスは、師匠の指示で蒸留器の清掃を終えた後、炉の火を調整していました。静まり返った工房に、炉の薪がはぜる音とガラス器具が触れ合う微かな音だけが響きます。
その時、重い扉が開く音がしました。エリアスが顔を上げると、工房の入り口に立っていたのは一人の青年でした。
彼はまるで工房の薄暗さを振り払うかのように堂々と立っていました。端正な顔立ちに知性が宿る瞳、手入れの行き届いた髪と、洗練された服装が彼の品位を物語っています。
「レオナルド、お前か。」
師匠のヒエロニムスが背後から現れ、彼に短く声をかけました。青年は軽く会釈をしながら中へと足を踏み入れます。
「ご無沙汰しています、先生。今朝は中央教会のパトロンに会い、少し遅れてしまいました。」
その声は落ち着いていて、自信と余裕を感じさせるものでした。
「遅れたなら、さっさと作業を始めろ。紹介する必要があるな。エリアス、こちらはレオナルド・アウリウスだ。私の弟子だが、学問の場でも名が知られている優秀な錬金術師だ。」
エリアスは驚きと共に彼を見つめました。目の前の青年が、かの有名なプラハ大学を優秀な成績で卒業し、錬金術の研究でも名を上げている人物だとは思いもしなかったからです。
「あなたが……レオナルドさん……」
エリアスはつい言葉を飲み込んだが、すぐに気を取り直して頭を下げました。「初めまして、エリアス・ヴェルムです。先生の弟子として、学び始めたばかりです。」
レオナルドはエリアスに視線を向け、柔らかな微笑を浮かべました。その笑顔には威圧感がなく、むしろ親しみやすささえ感じられるものでした。
「新しい仲間が加わるのは嬉しいことだ。エリアス、君は独学で錬金術を学んでいたと聞いた。どんなことを研究してきたんだい?」
突然の問いに、エリアスは一瞬戸惑いながらも、自分が黄鉄鉱を用いた実験をしていたことを語り始めました。拙い言葉ながらも熱意を込めて説明する姿に、レオナルドは静かに頷きながら聞き入ります。
「興味深い発想だね。黄鉄鉱はたしかに可能性を秘めた素材だ。君のような若い視点が、新しい発見をもたらすこともある。」
その言葉に、エリアスの胸は高鳴ったのです。自分の研究が評価されたように感じ、これから彼と共に学べることへの期待が膨らみます。
だが、同時にレオナルドの圧倒的な存在感がエリアスの心に影を落としたのも事実です。彼の物腰の柔らかさや知識の深さ、そして洗練された振る舞いは、エリアスには眩しすぎるものでした。
「僕が彼のようになる日は来るのだろうか……」
そう思う一方で、エリアスの中には芽生えたばかりの尊敬と憧れが確かにありました。それが後にどう変化していくかは、まだ彼自身も知る由がなかったのです…
エリアスとレオナルドの研究生活
ヒエロニムスの工房には、静けさと熱気が同居していました。昼間は大きな窓から光が差し込み、さまざまな器具や薬瓶が並ぶ棚に影を落とす。そこでは二人の弟子が、それぞれ異なるやり方で錬金術の真理を追い求めていました。
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レオナルドの研究風景
レオナルドは工房の一角、机に山積みになった写本や羊皮紙の前に陣取っています。その背筋はまっすぐで、まるで貴族のサロンにいるかのような余裕が感じられます。
机に広げられた写本は、アラビア語やラテン語で書かれた貴重な錬金術の理論書です。精緻な挿絵と、黄金色のインクで記された装飾文字がその価値を物語るものです。彼はその一つを指で辿りながら、筆を取り、きれいな文字で自分の考えを書き記していきます。
「エリアス、この写本には面白いことが書かれているよ。賢者の石を作るための要素についての古い理論だ。水銀と硫黄の関係が記されているが、君が実験で試したことはあるかい?」
そう言いながら、レオナルドは余裕の笑みを浮かべてエリアスに語りかけます。
彼の知識は工房全体に響くようだでした。アウリウス家の財力によって手に入れたこれらの高価な写本が、レオナルドを一段と高みに引き上げていることを、エリアスも感じていました。
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エリアスの実験風景
一方、エリアスは工房の炉のそばで、試験管や蒸留器、坩堝(るつぼ)を駆使して実験に没頭していました。
「写本も大事かもしれないけど、僕にはやっぱり実験が必要だ。手を動かして確かめる以外に、真実にはたどり着けない。」
彼はそう自分に言い聞かせながら、慎重に愚者の黄金(黄鉄鉱)を砕き、硫黄を分離する工程を繰り返します。小さな炎の音、ガラス容器に触れる金属の響き、それらは彼にとって音楽のようでした。
「また硫黄が少し取れた……これを火薬に応用できれば……」
エリアスは炉の熱で汗をかきながらも、手を止めることはありません。簡素な服には薬品の匂いが染みついており、指先は長時間の作業で黒ずんでいる。それでも、彼はどこか誇らしげでした。自分の手で何かを成し遂げるという実感が、彼の心を支えていたからです。
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二人の対話
実験を続けるエリアスの姿を、レオナルドは時折眺めていました。彼は微笑みながら口を開きます。
「エリアス、君の実験への情熱には感心するよ。ただし、理論がなければ、それはただの徒労に終わることもある。学問というのは、経験だけでなく知識があって初めて成り立つものだ。」
エリアスは、顔を少ししかめながらも、穏やかな口調で返しました。
「それは分かっています。でも僕には、君のように貴族の家の力で写本を揃えることはできない。だから、自分の手で試すしかないんです。」
レオナルドは少し言葉に詰まり、次に微笑んで頷きます。
「それも一理ある。だが、学問において成功するには、あらゆる手段を活用することが重要だ。もし君が何かに行き詰まったら、遠慮なく私に頼るといい。」
その言葉には悪意はなかったのですが、エリアスには少し眩しすぎました。実際、レオナルドの余裕ある姿は、エリアスの心に尊敬とともにわずかな嫉妬も芽生えさせていました。
エリアスへの敬意
工房の夕暮れ時、炉の明かりが周囲をぼんやりと照らしてます。レオナルドは机に広げた写本の文字を追いながら、ふと視線を上げました。少し離れた場所では、エリアスが坩堝(るつぼ)を慎重に持ち上げ、液体が滴り落ちる様子を観察しています。
汗ばんだ額、真剣そのものの表情、そして繰り返される丁寧な手の動き。そのすべてが、エリアスの探究心の強さを物語っていました。
「まだ続けているのかい?」レオナルドは書き物を中断し、机の端に肘をついて問いかけました。
エリアスは振り返り、手にしていた器具をそっと置きます。「少しでも硫黄を多く取り出せる方法を試しているんです。この黄鉄鉱は少し癖があって、温度の調整が難しいみたいで……」
その声には疲労がにじんでいましたが、どこか生き生きとしています。エリアスの眼差しは、炉の中で輝く小さな炎のように揺らめきながらも、確かな光を持っていたのです。
レオナルドは椅子から立ち上がり、エリアスのそばまで歩み寄ります。近くで見ると、エリアスの手には薬品や煤でできた黒い染みがいくつもついている。だが、その手の動きは迷いがなく、自分の目指すべき道を見据えているようでした。
「君はすごいな。」レオナルドは穏やかな声で言いました。
エリアスは手を止め、驚いたようにレオナルドを見ます。「え?」
「君のように、一つのことにこれほど情熱を注げる人間はそう多くない。僕が写本で理論を学んでいる間にも、君は手を動かして、実際に何かを作り出している。それはとても貴重なことだよ。」
レオナルドの言葉には、いつもの余裕を含んだ皮肉も自信もありませんでした。ただ純粋に、エリアスの努力を認める声でした。
エリアスは一瞬言葉を失い、それから小さく笑いました。「でも、僕はまだ足りないです。僕にはあなたのように膨大な知識がありません。何度も失敗して、ようやく小さな成果を得られるだけで……」
レオナルドはその言葉を遮るように首を横に振ります。「失敗することを恐れないからこそ、君は新しい道を切り開ける。僕が机の上で学ぶことと、君が炉の前で学ぶこと、それぞれが錬金術にとって必要なんだ。」
その言葉に、エリアスの心がふっと軽くなるのを感じました。レオナルドの姿に圧倒されることが多かった彼にとって、その言葉は思いがけない救いだったのです。
「ありがとう、レオナルドさん。でも、僕はあなたみたいな知識人にはなれそうもないから、今の僕にできることを続けるだけです。」
レオナルドは少し微笑み、肩を軽くすくめました。「それでいい。それで十分だ。君のやり方で進む姿を見ると、僕ももう少し実験に力を入れないといけないと思えてくるよ。」
二人はしばらくの間、言葉を交わさずにそれぞれの作業に戻りました。ですが、工房の静寂の中に流れる空気は、どこか温かいものに変わっていました。
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