第5話-②
テントの中は、重力が一段階上がったのではないかと思うほど重い空気に包まれていた。
自らの意思と関係なく膝を折られた人々は、嵐が過ぎるのを待つように息を詰める。
「意外と早かったね」
その中で、ただ一人立っている青年がディムを見下ろす。
着ている服は他の
金の髪を乱暴に手で後ろに流し、琥珀色の目は獰猛に笑う。
写実魔法で描かれた、新聞などに載っている似顔絵のままの姿。
アントニオ=セシル=ド・ランプレーシュその人だった。
「長期戦を覚悟していたつもりだったけど」
アントニオはディムを見下ろす。
「さすがは、ベネディクト氏が最期まで隠し通した秘蔵っ子だ」
膝をつき、地面とにらめっこしているディムは目を見開く。
「え……」
ウェンディの口からも思わず声が漏れる。
「おや、知らなかったのかい?」
だがアントニオは気分を害した様子もなく、にこやかに言った。
「これはベネディクト=アンセーヌ・クィエルが隠し持っていたんだ。労働ではなく教育を与え、知性を与え、その果てにベネディクト氏を変えた危険なもの。見つかったらまず廃棄処分ものだけど」
アントニオは、新しい遊びを見つけた子どものように言った。
「ぼくは殺さないよ」
「……え?」
かすれて吐息に紛れそうな疑問の声。それをこぼしたのが、果たして誰だったのかはわからない。
けれど、一国の王子が、
(何を企んでいる?)
ディムの頭に浮かんだのはそれだった。
アントニオは国王に並ぶ、いやそれ以上の切れ者だ。気まぐれに殺すことはあっても、理由もなしに生かすと宣言することはないと思った。
そして、それは間違っていなかった。
「きみはとても頭がいい。そのおかげで、まだまだ国の制度に穴があると気付けた。同じ
(なるほど)
言っていることは壮大だが、要するに
「クィエルのことは安心してくれ。こんな寒い場所にいるより、もっと南の温かい場所に全員を移住させよう。そのための費用もこちらが負う。ぼくから父上に相談してみるよ」
つまり領民の
アントニオの手が無遠慮にディムの襟を広げる。
「えーと、5R11X1だね。どう? 悪い話じゃないだろ?」
人当たりのいい笑顔を浮かべ、アントニオは訊ねる。
彼の中では、きっとディムが涙を流しながら飛びつくほど魅力的な案だと思っているのだろう。
額面通りに受け取れば、たしかに彼は危険を冒してまでクィエルの民を救いに来た勇敢な王子だ。素直な子どもならあっさり頷いてしまうだろう。
だが。
「断る」
ディムははっきりとよく通る声で言った。
生まれがどうであれ、ディムはベネディクトの気まぐれに救われ、自ら戦う力を得た。そして、約束を果たすためにこの地に戻ってきた。
クィエルの領主として、意思を持つ一人の人間として、民を都合のいい玩具にするアントニオに従うわけにはいかなかった。
「――そっか」
すん、とアントニオから表情が消える。
「じゃ、死んで」
お使いを頼むような軽い口調で放たれた命令。拒絶しようとディムが口を開く前に、その手がひとりでに動いていた。
「っ!」
ベルトの内側に隠していた小さなナイフを取り出し、それを自分の首に向けて突き立てた。
喉の奥で悲鳴を上げたのは誰だったか。
「…………っぐ」
地面に血が滴り落ちる。
ナイフと首の間に滑り込んだ右手から、ぼたぼたと血が流れ落ちた。
「――へえ」
アントニオは意外そうに表情を歪めた。
「意外とやるじゃん」
新しい玩具を貰った犬のように、無邪気で獰猛な笑み。あの笑顔で何人が殺されたのか、誰も考えたくなかった。
「まあ、それがどこまで続くか見物だね」
アントニオがつい、と指を振る。ナイフがディムの右手を押し込んだ。
「なんせぼくは
思わぬ情報にディム、ウェンディ、リュミスの三人が目を見開く。
薄々感づいてはいたが、まさか本当に
アントニオの加護は光。王族や神官の家系に多く生まれ、他者の加護を見抜いたり、人々を導く――転じて支配する強力なもの。
光魔法が持つ「導き」や「支配」は、だいたいその場限り、そして一人か二人程度にしか効果を発揮しない。だがアントニオはこの場にいる数百人の捕虜を一度に支配した。一朝一夕で出来る芸当ではない。
「さて」
ディムに背を向けたアントニオが空気を揺らす。
彼以外の全員がびくりと肩を揺らした。本能的なそれに、しかしアントニオは不快感を見せない。むしろどこか喜んでいるようにも見えた。
「改めて名乗ろう。ぼくはアントニオ=セシル=ド・ランプレーシュ。このランプレーシュ王国の王子にして、未来の国王だ」
貼り付けた笑顔がまったく笑っていない。この場の全員の命を握る絶対君主に誰もがすくみ上がった。
アントニオがウェンディの前に来る。
「君が水の
「……はい」
唇が、喉が、勝手に動く。両手を拘束され、そこから抜け出そうにも、指先一つ動かせない。
顔色は青を通り越して白くなり、歯の根が噛み合わずカチカチと音が鳴る。
アントニオは上から下までじろじろと眺め、鼻を鳴らした。
「ふうん。まだ子どもじゃん」
一応、卒業式を兼ねた成人式は終えている。だがすでに二十歳を超えているアントニオにしてみれば、新成人なんてまだまだお子様なのだろう。
「きみ、名前は?」
「う……ウェンディ、です」
「苗字は?」
「ありません……」
「へえー、グダか」
一瞬、何と言われたのかわからなかった。
グダとは平民の蔑称だ。かつて農耕が盛んだった頃、愚直に畑を耕すことしか能がないから、と当時の貴族が呼んだのだ。だがこれを今の貴族、ましてや王族が使えばバッシングは免れない。
「貴族でもないのに
殺される。本能的な恐怖がウェンディの身体を芯から凍らせた。
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