第3話-⑦
暖炉の火はすっかり消え、部屋は月明かりの青い闇に包まれていた。
ウェンディは呆然と目の前の本を見つめていた。
そこに記されていたのは、先々代の領主ベネディクトの葛藤の記録だった。
気まぐれに拾ったディムに翻弄されながら、
これを読んで思い出したが、たしか入学式の数日前、辺境伯の一家が処刑されたとのニュースで街が騒がしかった。
当時はまだ政治にさほど興味がなかったし(今もだが)、なぜそんなに大人たちが騒ぐのかわからなかった。
どこまで報道されたのか知らないが、領主が
ディム一人だけが難を逃れ、そして卒業と同時に複数の
彼に縋るほど、ベネディクトの後釜はひどい領主だったのだろうか。
思考に沈む視界の端で、何かが赤く揺らめいた。
見れば、リュミスが燃え尽きていた暖炉に火を灯していた。
「呼びかけても返事がなかったので、勝手に入らせてもらいました」
ウェンディの視線に気付いたリュミスが、悪びれずにそう言う。
「夜は冷えます。こちらを」
そういって分厚い毛布をウェンディの肩にかけ、冷めてしまった料理を下げる。かわりにティーセットとランプがテーブルの上に並べられた。ポットから大量の湯気とともに紅茶が注がれる。
「……リュミスさん」
立ち上る湯気を見つめながら、ウェンディは言った。
「リュミスさんは、ここの出身ですか?」
「いいえ」
リュミスは答えた。
「王都にいました。領主さまが帰還なされる日に、拾ってくださいました」
「その、どんな風でしたか? 来た直後のクィエルは」
「……私には、どうだった、とは言えません。比較ができないので。ただ、領主さまがとてもお怒りになられていました」
リュミスはそう答えた。
「……ここでの暮らしは、どうですか?」
「とても素晴らしいです」
今度は即答した。
「暖かくて、体も清められて、ご飯もとてもおいしくて……いつかバチが当たるんじゃないかと思うくらい、幸せです」
嬉しそうに目を細め、顔をほころばせるその表情に嘘は見えない。
ウェンディたちが当たり前に享受している生活を“幸せ”と評するこの女性は、いったいどんな仕打ちを受けてきたのか。
「ついでに言わせていただくと、私とウェンディさんたちは王都で会っていますよ」
「え?」
ウェンディはリュミスの顔をまじまじと見た。が、
「卒業パーティの会場で、食べ物や飲み物を運んでいました」
そう言われても、あの日料理や飲み物のテーブルがわりに設置されていた
「一応、記憶力には自信があるんですよ」
リュミスが微笑む。あの時会場で何かしたかと思ったが、もともと暴力的なことを好まないウェンディは、ただ好き勝手に料理や飲み物をつまんだ記憶しかなかった。
「途中で数人に連れ出されて、路地裏に捨てられていたところを、領主さまに拾っていただいたんです。あの時の安心感は、言い表せるものではありません」
そこまで言われて思い出した。式典の自由時間の最中、男子が何人か連れ立って会場の外に出ていた。その時に
リュミスは明言しなかったが、きっと恐ろしい目に遭ったのだろう。それが理解できないほどウェンディも子どもではない。
何かを言わなければ。でも、安っぽい謝罪は意味がない。代理人を気取れるほどの度胸も立場もないし、気安い言葉なんてもってのほか。
リュミスはウェンディの向かい側の椅子を引くと、「失礼します」と言ってそこに座った。
「ウェンディさん。あなたは
「……いいえ」
嫌いではない。が、無関心はそれ以上の罪だ。
「ならいいんです」
リュミスが鈴を転がしたような声で言った。
「番号や記号じゃなくて、名前で……領主さまが与えてくれた名前で、みんなが考えてくれた名前で、私たちを呼んでください。それだけでいいんです。それが、欲しいんです」
道具でもなく、表の上の数字でもなく、一個人を示すもの。
生まれた時の与えられるはずだったものを、リュミスは三ヵ月前にようやく手にした。
ウェンディは思い出す。
リュミスの意味。それは、希望の光。
おそらくこの名前は、ディムの決意表明でもある。
せっかく掴み取ったそれを、みすみす手放さないために。
現制度に対する反逆の意思表明だった。
「リュミスさん」
ウェンディが震える声で訊ねる。
「彼は……ディムさんは、許してくれるでしょうか?」
知らなかったとはいえ、彼の恩人を酷い言い方で侮辱したのだ。殴られても文句は言えないのに、彼は脅すだけで踏みとどまった。その精神力は並大抵のものではない。
「それは、本人に聞いた方がよろしいのでは?」
「……そう、ですよね」
ウェンディは肩を落とした。
わかっているのだ。こういうのは本人に直接謝罪するのが一番だと。だが喧嘩別れしてしまった後ほど、謝罪の口実は見つけにくい。
それでも、ウェンディは言った。
「わかりました。明日、朝一番に訪ねてみます」
「執務室の場所はわかりますか?」
「……いえ」
初日に簡単に屋敷の中を案内されたが、忙しさにかまけていたのもあって間取りはほとんど覚えていない。
「でしたら、案内します。元々そう言い付けられていたので」
「ありがとうございます」
するりと、お礼の言葉が出た。そのことに二人は揃って目を丸くする。
リュミスが微笑んで立ち上がる。
「では、また明日」
「はい」
本や鍵を回収した彼女を見送って、ウェンディは暖炉に薪を追加する。
オレンジ色の炎が大きくなり、部屋が暖かくなる。
「――大丈夫」
ウェンディはその炎を見つめ、小さく呟いた。
「大丈夫」
今度こそ、向き合わないと。
「この間はすみませんでした!」
翌朝。
リュミスの案内で執務室を訪ねたウェンディは、そこかしこに書類が散らばる部屋で頭を下げた。
「謝って済む問題じゃないってのもわかってる。でも――!」
「ウェンディ、顔を上げてくれ」
どこかくたびれたようなディムの声が続きを遮った。
「頭を下げるのもいいけど、ぶっちゃけ今はそれどころじゃない。必要なのは戦力だ」
急ピッチで進んでいる軍事作戦。当初の予定では、そろそろディムたち第一部隊も出発しなければならなかった。
「だから、これだけ確認する」
目の下に隈を作りながら、クィエル領主は訊ねる。
「医療兵として戦えるか?」
ウェンディは姿勢を正し、両手を強く握りしめる。
「――はい!」
ディムは口元に笑みを浮かべた。
「よし。荷物をまとめろ。すぐに外の第一部隊と合流するぞ」
音を立てて立ち上がった彼は宣言する。
「出発だ」
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