第41話

「おー…。」

珠子の誘いに乗って、大学の内部へと健は足を踏み入れた。もちろん若者が多いが様々な年代の人々がいて、健一人が立ち入っても何ら違和感がない。ここは意外と身を隠すには最適なのかもしれないな、と健は思う。

有名な彫刻や絵画のレプリカが雑に放置してあったり、公募展のポスターが壁を賑やかしていたりと興味深い空間が続く。作品の搬入に便利なのだろう、存外に天井が高く解放感があった。学生も個性的な人物が多く、何故か電子レンジを背負った者や、えぐい量のピアスを身に着ける者など人間観察の議題には事欠かさなそうだった。

「私の制作場所はこっち。」

物珍し気に辺りを見渡す健の手を引っ張って、珠子は案内をする。

そこは絵画学科の制作棟で、学生たちに個々に与えられるスペースのある広い教室だった。

珠子のスペースは窓際にあり、温かい陽だまりのような場所だ。彼女曰く、そのくじ運で勝ち取った場所らしい。

大小のキャンバス、描きかけのデッサン。置きっぱなしだと言っていた絵の具、整頓された筆の数々。他にも持ち込んだらしき小さな本棚には珠子のお気に入りの画集や、図鑑。ファッション誌の切り抜き、動物の写真などが本棚の側面にカラフルな画びょうを用いて貼られていた。

「いい場所だね。」

「長くいる場所だからね。居心地よくしてんの。」

珠子は立てかけてあるスケッチブックから、新しい物を取り出す。そして白いページをめくり、健に「座って」と言うのだった。

「…。」

言われた通り、健は近くにあったパイプ椅子に腰かける。一方で珠子は直に床に座り込んで、スケッチブックに向かった。

「え、今、描くの?」

「うん。場所が変わったら、どう目に映るかなって思って。」

「ふーん…。」

以前は勢いのままにデッサンを描いていた珠子だったが、今日は考えては消しゴムを使い、再び描き込むことを繰り返す。紙の一枚を使って、丁寧に描いている印象だった。

「今、どこを描いてるの?」

「んー、眉。」

珠子は顔のパーツで一番難しいのが、眉毛だという。毛の流れ、束感、位置、角度一つ違うだけで全くの別人になるらしい。

「そういえばたまちゃん、自分の眉毛にも時間かけるよね。」

「眉毛丸出しだからね。私、前髪作るの、似合わないんだ。」

健は珠子の秀でた額を眺める。つるんとしていて、まるでゆで卵のようにおいしそうだと思った。形の良い額が前髪で隠れるのは確かにもったいない。

「たまちゃん。」

「何?」

「食べちゃいたい。」

「…。」

健の本音に、珠子はスケッチブックから視線を持ち上げた。

「うわー、宮野さんったらセクハラだー。」

いつの間にか背後に立っていたさやかが、その発言を注意する。

「さやか…。いつからそこにいんのよ。」

珠子が半ば呆れたように、スケッチブックを置いた。

「今だよ。そしたら、二人イチャついてんだもん。」

「同意だったらセクハラじゃないじゃん。」

「聞いてるこっち側に対するセクハラですー。」

やれやれとばかりにさやかは両手を肩の高さに上げて、大げさに溜め息を吐く。

「まあいいけどさ。それより、珠子。木原先生のところには行ったの?」

「行ったよ。」

「よかったー。すっぽかして、嫌味を言われるのはごめんだからね。」

「うん。だね。」

さりげなくスケッチブックを片付ける珠子の行動を、さやかは見逃さなかった。

「珠子が人物画描くの、珍しーね。」

興味深そうに、珠子が手にしているスケッチブックの表紙を見つめている。

「そうかな。」

「そうだよ。ね、見せてよ。」

「完成したらね。」

にべもなくそう言うと、珠子は今度こそスケッチブックを乱雑に棚の隙間に押し込むのだった。

「本当、珠子って過程を見せないなあ。意外と秘密主義だよね。」

「未完の状態は恥ずかしいの。」

ふーん、と呟くさやかに今度は珠子が問う。

「さやかはこんなとこにいていいの?今日、窯炊きの日って言ってなかった?」

「夕方からだから、平気ー。」

「…三島さんは、何を学んでいるの?」

ようやく健が口をはさむ。話の流れから見ると、さやかは絵画学科では無さそうだ。

「私?私は陶芸科なの。」

「へえ。陶芸。」

何だか意外な気がした。てっきりデザイン系かと勝手に思っていた。

「さやか、力持ちなんだよ。台車がないからって、土の塊を担ぎ上げるし。」

「それは頼もしいね。」

「やめてよ。恥ずかし~。」

健は何となくさやかは筋肉質な体をしていると思っていたが、ちゃんとした理由があるようだった。

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