第16話
「皆、壊れてるんだよ。私や健だけじゃない。」
こっちに来て、と言って立ち上がる珠子に釣られるように健も彼女の後に続く。珠子はふすまを開けて、畳の部屋の中に入る。表向き健全な絵のキャンバスをどかした、その先。そこには様々な死体の絵があった。
アリに運ばれる、潰れた蝶々。
車に轢かれて内臓をカラスに食べられる猫。
毒を盛られて、血を吐くねずみ。
生々しい描写なのに嫌悪感を抱かないのは、色のおかげだろう。流れる血液は青く、爛々と輝くビー玉のような瞳は赤い。珠子の色覚異常は、現実味がない。
「私は死体が好き。絵に描いて、永遠にしたい。」
「死体なだけに?」
「健、親父ジョークはおもしろくないぞ。」
呆れたように珠子は健を見る。すみません、と健は頭を下げた。
「まあ、いいけど。健はさ、どうして人を殺したの?」
「…僕は、」
初めて、自分の悪癖を口にする。珠子なら理解はしなくても、わかってくれると思った。
こたつに入り、お茶を二杯飲んだ。まるで好きな人を告白し合う、学生に戻ったような気分だった。
「健って、人肉が好きなんだ。」
「そう。肉の中では、ダントツ。」
「へえ…。どんな味がするの?」
珠子が相づちを打ってくれたり、質問をしてくれるのが嬉しい。
「男女で味が違うのだけど…、脂身が甘いのは、女性の方かな。臭みも少ないし、どう調理してもしっとりしてる。」
「ふーん。」
首を傾げて少し考えた素振りをしたかと思うと、徐に珠子は自分の腕を噛んだ。
「…何してんの?」
「え?美味しいかなあって思って。」
彼女の腕に赤い歯形が付いた。
「そんな力加減じゃ、肉は噛み千切れないよ。」
生肉を喰らうには奥歯で思い切り噛み、肌を断つ。その後に自らの短い犬歯で、繊維を引くようにして千切る。前歯で細かくして、唾液を含んで味わうのだ。
「そうなんだ。」
ふと、視線を持ち上げると、ニヤニヤと笑う珠子と目が合った。
「え、何?」
「いやあ、しあわせそうな表情で語るなーって。」
「そ、うかな。」
無性に恥ずかしくなって、健は口元を隠すように手で覆う。
「鏡、見せてあげようか?」
「結構です。」
あはは、と珠子は声を上げて笑った。
「たまちゃんは、どうなの?」
話題を変えようと小さく咳払いをして、今度は健が問う。
「え?私?」
「どうして…、死体が好きなんだろうと思って。」
「うーんと、ね。そうだなあ…。」
珠子は記憶を手繰り寄せて、自らのルーツを探る。
「物心が付いて一番覚えている死体は、鳩、だったかな。住んでた町内で首のない鳩の死体を、複数見つけてさ。」
「確実に変質者がいるじゃん。」
「そう。そうなんだよ。でも、それは今、どうでも良くて。」
割とどうでも良くないと思うが、今は、たまちゃんに話の続きを促そう。
「目を背けたいのに、目が離せないの。心臓が大きく脈打って、チカチカと光が目の前に弾けた。」
すごいの、と言って、珠子は目を輝かせた。
「死んでいる体って、しんとして静かで、命の名残が香り立つように鼻についた。触ると今まで経験したことがないような冷たさで、温度的にはそんなに冷たくはないんだけど心底が凍えるような、そんな冷たさ。」
珠子は自分の手のひらを見つめている。きっと当時のことを思い出しているのだろう。
「震えが止まらなかった。何て、気持ちの良い感覚なんだろうって思った。」
「気持ちが悪い、じゃなくて?」
「まさか。」
健の言葉に、珠子は顔を上げる。その瞳には光の粒子が散ってキラリと光り、強く自分を肯定する力に満ちていた。
「あれは、私にとって間違えようのない快感だった。」
幼かった珠子は困惑し、長年の疑問だったらしい。だけどそれは思春期に入り、解決したのだと言う。
「中学生の頃かな?性的な知識も身に付けてくるでしょ。私のあの時の感覚について、知る機会があった。」
友人同士の猥談で一人の子が「マスターベーションってしたことある?」と投げかけた。まだまだ初心な中学生たちはその話題をはぐらかしたけれど、珠子はずっと心に残っていた。その日の夜、自宅の自室でふと珠子は思い立った。どうやって致すかなど、耳年増の知識でしかなかったけれど知らないこともない。
初めて、自らで自身を快楽に導いた瞬間。心臓の音が耳奥に大きく響き、胎内が熱くなる感覚に身に覚えがあった。記憶を辿り、鳩の死体が脳裏に過ったときに悟ったという。
ー…あれは、快感だったのだ。と。
「随分とデリケートな部分まで切り込んだね。」
「健なら、私を気持ち悪いと思わないでしょ。」
その絶対的な信頼はどこからくるのだろうか。だが、悪い気はしない。
「対象が死体だということに、理由はない。それを恥だとも思わない。私にとって人を好きになることと一緒だから。生きてるか、死んでるかの違いだけ。」
そう言って、珠子は恥ずかしそうにはにかむ。そんな彼女が可愛らしいと、健は思った。
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