02 シルバーリング
二つの写真
結局、私は7時1分の電車に乗って帰った。
自宅マンションを見上げると、私の家だけ明かりが点いていない。お母さん、仕事に行く前、「今日は帰るから、私が夕飯作るね」って言ってたのに。
「ただいま」
鍵を開けて、玄関に入る。呼びかけても返事はなく、私の小さな声は静かな廊下に吸い込まれて、跡形もなく消える。そんなのもう慣れっこだけど、今日はなんだか胸が苦しい。電気を点ける気になれず、薄暗いままのリビングに入る。窓から差す月明りを頼りに、吸い寄せられるようにキャビネットへ向かった。キャビネットの上にはお父さんの写真が飾られている。
お父さんは、私が生まれた半年後に亡くなった。だから、お父さんってどんな人? と訊かれても、ダイニングに17年飾られている黄色くくすんだ写真を思い浮かべることしかできない。写真の中のお父さんは、病院の一室で赤ちゃんを抱きながら笑っている。その赤ちゃんは私だ。この写真を撮ったのは、私が生まれて1週間後。お父さんとお母さんは同い年だから、写真の中のお父さんは32歳だ。こんなに元気そうな人が半年後に亡くなったなんて、信じられない。
お父さんの写真の隣には、もう一つ写真が飾られている。恭介くんの写真だ。それは、お母さんと私と恭介くんで温泉旅行に出かけたときの写真。足湯に浸かりながら笑っている恭介くんを私が撮影した。
目尻に小さな皺が刻まれた、優しげな目元。笑うときゅっと上がる丸い頬。恭介くんは楽しそうにこちらに笑いかけている。その笑顔は、あの人の笑顔にとても似ていた。笑顔だけじゃない。どんなときの表情も、あの人は恭介くんとそっくりだった。目も、鼻も、口も、輪郭も、顔の造りが恭介くんとまるで同じ。背丈も声もよく似ていて、年齢だって同じだ。恭介くんが生きていたら、高良先生と同じ27歳。
私は恭介くんの写真立てを手に取り、ソファに寝転んだ。胸に抱きしめて、目を閉じる。恭介くんの声を思い出す。
――陽葵
たまに思い出さないと、あの優しい声を忘れてしまいそうで怖かった。
――矢野
記憶の中の恭介くんの声に、高良先生の声が重なる。私は写真立てをさらに強く抱きしめた。
――俺との授業、やめたい?
そう尋ねる高良先生の声は、微かに震えていた。
「先生は、やめたいの?」
そう訊きたかったけど、訊けなかった。高良先生が忙しいのは分かっている。放課後の時間を割くことが負担になることだって分かっている。だけど、高良先生の迷惑になることを度外視すれば、私は個別授業をやめたくなかった。放課後に、毎日じゃなくてもいいから高良先生に会いたかった。
どんなに瓜二つでも、高良先生が恭介くんじゃないことは分かっている。そして、これが現実逃避だということも分かっている。だけど、高良先生と話していると、恭介くんと話しているみたいで。恭介くんがいないことへの寂しさを掻き消してくれて。これからも二人きりで会いたいと思ってしまう。
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