手紡奇譚
海崎しのぎ
アンサンブル
『
重い木製の扉がゆっくりと開かれる。入店したのは一人の男だった。青白く草臥れた顔で、しかし着ているスーツは綺麗に整えられている。
丸めた背に、ネクタイがたわむ。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ。」
カウンターの向こう、低く柔らかな声に引き寄せられるようにして、男はカウンター席に座る。荷物を足元に置こうとして、ふ、と、思い直して膝に乗せて抱き抱えた。両腕に押し潰された紙袋が存外に大きく音を立てて、店内に響く名も知らぬジャズピアノの軽やかな高音にノイズを混ぜた。
「よろしければ、お使いください。」
いつの間にかカウンターから出てきていた店主らしきエプロンの男が、椅子の足元に籠を置く。
「メニューになります。」
「嗚呼、どうも。」
紙袋を荷物籠に、メニューを受け取って活字をなぞる。目が滑って仕方がないので、適当に一番上の活字を告げた。
店内には男の他に、奥のテーブル席にもう一人客が座っていた。初老よりもいくらか手前の、やや大柄な男に見えた。珈琲を啜りながら手元で何かを弄っている。天井から下がる橙色の室内灯が照らし出したそれはナイフに見えたが、灯りからやや離れた仄暗い席に座っている客の手元は更に陰っており、よく見えなかった。しばし男の手の動きを観察する。何か細工ものでも作っているのだろうか、もう少し見ていれば分かりそうな気がしたが、あまり凝視するのも気が引けて、男は荷物籠に置いた紙袋の中身に視線を映した。
「お待たせを致しました。モカ・マタリです。」
「モカ・マタリ?本当に?」
豆の輸入の制限が撤廃されたのはつい最近の事だ。とうとう代品珈琲ではない、豆を挽いた珈琲が飲めると各所で話題に上がっていたのを男も軽く耳には挟んでいた。
「早いですね。都会とは言い難いこの場所にまで、もう売れる程流通しているんですか。」
「実は知り合いにツテがありましてね、少しだけ譲っていただきました。」
「成る程、それは貴重だ。しっかりと味わって飲まないと。」
言いながら、一口、感想を告げようと顔を上げたところで店主は奥の客に呼ばれて去ってしまった。様子から見るに、どうやら二人は知り合いらしく、小声で何かを談笑している。
その姿に、先ほど引き渡したばかりの従兄弟の、元気だった頃に見せてくれたあの横顔が重なった。指先から体温が抜けていく。まだ温かい珈琲のカップを両手で握り込んでみても温度が戻ることはなく、男は諦めて震える手のまま珈琲を飲み干した。味も香りも分からなかった。
荷物籠から紙袋を引っ張り上げる。その音に気づいた店主が振り向いて、会計の準備に向かっていった。
「ご馳走様でした。……とても美味しい珈琲でした。」
「恐縮です。是非また、ゆっくりいらしてください。」
店主から釣り銭を受け取る。どうしても彼の顔が見られなかった。
男は釣り銭を財布に戻しながら、躊躇うように節目がちに顔を上げた。店を出る前にどうしても尋ねておきたい事があった。店主とは目が合わなかった。
「あの。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか。」
「はい、なんでございましょう。」
「この辺りにお仕立てを受けてくださる呉服屋さんなどはありませんでしょうか。なるべく、沢山の反物を置いている店を探しているのですが。」
「呉服屋、ですか。」
店主の目は紙袋に向いていた。
その視線に晒すように、紙袋の口を開く。
「これを、どこかで仕立てていただきたいんです。」
「いい着物地ですね。」
「分かるんですか。」
「ええまあ。」
「これは、元々従兄弟の着物を作る為に用意したものだったのですが、だいぶ余りまして。せっかくなので、同じ布で奥さんにも、と思ったのですが……もう一着分にはとても足りないと。なので似た色の反物を用意して、足しにして貰おうと思ったのですが。この辺で目に付くお店には合うものが無かったんです。」
「残念ですが、品揃えで評判の呉服屋があるとは聞きませんね。ここらもだいぶ復興はしてきましたが、近くを空襲にやられていましてね、どうにも。お客様の中では大事に保管していたタンス二竿分が全て吹き飛んでしまわれた、なんて話す方もいらっしゃるくらいです。最近では日々の生活の足しにするために戦火を免れた着物を持ち込みに来る方も増えましたが……大抵が式典着やお祝い着です。この着物地には難しいでしょう。」
「どうしても無ければ、足しにする布は同じ色でなくても良いんです。あの人が、従兄弟と同じ着物を着られれば、それで良いんです。」
今にも泣きそうな声で男は呟く。落ち窪んだ目は一層虚に、死人が執念だけで歩いているようだった。
「まあ、見つかるかどうかはさておき、仕立てるなら一度手入れはしてあげた方がよろしいかと思います。お嫌で無ければ、こちらでお受けできますよ。」
「ここで、やってくださるんですか。」
「腕のいい店を知っているんです。かなり良い状態まで仕上げてくれますが、いかがでしょう?」
*
日の落ちかけた薄暗い小道を、所在なげに手を揺らしながら男は一人帰路に着く。鮮やかな茜色が目に痛い。俯けば黒々と影が伸び、その長さを無意味に競ったくだらない記憶と、負けてみっともなく泣きじゃくった己を必死に慰める従兄弟の声が耳に響いた。
本当に、こんな声だっただろうか。
銃声と熱風の飛び交う戦地から、この国にお互い五体満足で戻れたのは奇跡に近い。男の妻は疎開先で消し飛ばされてしまったが従兄弟の妻は生きていて、三人で感動の再開をしたのがもう五年も前の事だ。妻を亡くした事実に耐えられず、肩を抱き合って再開を喜ぶ夫婦の姿を見ていられずに適当な理由を付けて離れた土地へ引っ越して、そこから兄の危篤まで一度も顔を見せなかった。立ち直るために、仕事に精を出しすぎたかもしれない。
かつては兄と呼び慕っていた、計り知れぬ程世話になった人であったのに、下手な意地を張っている間に彼の声が薄れゆく事に、男はとうとう気づかなかった。
悔やみきれぬ激情を胸に、男は明かりの点いていない家の戸を開けた。居間には憔悴しきった従兄弟の妻が蹲っていた。
「着物の余り、預けてきたよ。明日も忙しいんだ、もうご飯にしよう。」
男の声は聞こえているのか、妻は項垂れながら啜り泣いた。
彼は病死だった。昼夜働き詰めていた従兄弟は少しの体調不良を唯の疲労で片付けてろくに医療機関に掛からなかったせいで発見が遅れたらしい。見つかった頃には手遅れで、あっという間に衰弱して尽くす手も時間もないまま呆気なく目を閉じたのだそうだ。男が危篤の連絡を受けてから従兄弟の元へ駆けつける、そのわずかな時間すらも彼は待ってはくれなかった。
至る所に看病の跡が残る従兄弟の家で、生気の抜けた妻をどうにか動かして床に就かせ、男もやっと布団に入った。
葬儀屋との打ち合わせは済んでいる。問題がなければ明日には葬儀が行われる。従兄弟が骨になるまでの残り少ない時間をどう過ごすべきか、悩んでいる間にも夜は更け、日が昇り、なんの妙案も出ないまま男は黒いスーツを着て会場の控室に佇んでいた。
係員が参列者に呼びかける。連れて行かれた葬儀場の真ん中には白木の棺が置かれていた。従兄弟の両親や妻やら友人やらが棺の縁に手をかけて泣いたり笑ったりしていた。手を伸ばして従兄弟に触れている者もいた。本か何かを棺に入れている者もいた。白装束の代わりに着せてもらった着物を褒める声が小さく聞こえて、男はそっと前に出た。
黒い糸と白い糸で織られた単衣の着物が綺麗に着せられている。半襟が真っ白いのが眩しかった。
「こんなに似合うなんて思いませんでしたわね。こんな事ならもっと早く見つけて仕立ててやれば良かったわ。」
妻が静かに言った。
男は何も返さずに、黙って彼の着物を眺める。
ずっと昔、従兄弟が生まれたばかりの頃に、祖母が織ってくれたものだと聞いた。大人になったら仕立てて着せようと大事に保管してあった。成人して漸くという時に戦争が始まり、終戦しても安定しない時世の中で生きる為にと日々を時間に追い立てられている内に、モボが現れ、洒落モノの括りが変わり、仕立てはどんどん後回しにされていった。それを、妻はずっと悔いていた。
再び泣き始める彼女から目を逸らすように、横たわる従兄弟の顔を見た。
薄い目蓋と唇をそっと閉じた、血の気の無い顔がそこにいた。作り物じみた顔だった。
綺麗にしてもらって。まるで眠っているようだ。今にも起きて来るんじゃないか。
そう、棺を囲む皆が揃って口にする。本気で言っているのか、さては強がっているのだか、どちらにしてもそれらはひどく耳障りで、男は耳を塞ぐように棺の前から抜け出した。
式が始まるまでまだ時間があった。男は何処か茶番にも見えた人の塊を冷ややかに、控室へと足を進める。
背後から、係員が花を持って呼び掛けた。皆で棺に入れるのだと言った、その顔は優しく微笑んでいた。見れば棺に群がっていた殆どがその手に花を持っている。儀式のようだった。約束のようだった。戯曲のようだった。演者のようだった。
おずおずと、男はまた棺の前に戻る。従兄弟の体は花に埋もれていた。初めて見る文庫本が埋もれていた。聞いた事もない歌手の、長々しい歌詞カードも埋もれていた。知っているつもりでいて、初めて知ることばかりが花の下に沈んでいた。手を伸ばせばきっと簡単に払い退けられた。文庫本の題名を知りたかった。歌詞が何を語るのか読みたかった。が、男に許されているのは、知るには遅すぎたそれらを影に隠す事だけだった。用意されていない動きは出来ないのだ。
全ての花が棺に入る。白木の蓋が閉められる。式の準備が進められて、男は促されるままに椅子に座った。
長々と挙げられる読経を耳に、一人ずつ焼香台へと向かっていく、その背中をぼんやりと眺めている。従兄弟の妻が席を立った。血の繋がっていない女が、血の繋がっている己より先に、焼香をした。女よりずっと長く、深く関わった筈の自分よりも、先に。
式は恙無く進行された。坊主が何を言っているのかは分からなかったが、従兄弟が大層な名を貰った事と、何処だかの所へ向かう旅路の安寧を祈られていた事だけはなんとなく理解した。
読経が終わる。係員の案内と共に、棺が何処かへ運ばれていく。坊主と、親族と、男と、友人と、仰々しく列を成して棺を追った。先頭から数人が遺影だなんだと持っていたが、男の手にまでは来なかった。
また、男は空っぽの手を遊ばせながら、ゆっくりと歩いていく白木の棺を見つめていた。
列が辿り着いたのは火葬場だった。燃やされる前に最後の別れの時間が用意されていて、白木の蓋が再び開いた。誰も何も喋らない、一縷の空気の揺れもない空間で、男は彼の死に顔を見た。死人にしては不自然に明度の高い肌に灰色に沈んだ唇が溶け込んで、のっぺりと凹凸のない顔になっている。固まった脂みたいな目の詰まった滑らかな頬が柔らかく照明に照らされていて、見るほどに蝋人形が横たわっているようだった。とても、目を開けて動きそうだなどと思えない。が、これが死人の顔だとも認識できず、ほんの僅かな最後の時間を男は必死に従兄弟を人間だったものだと理解する事に費やした。
何かで、死体は管理の仕方によっては蝋化することがあると読んだ事があったのを男はふと思い出し、あまりの不謹慎さに吐き気を堪えていたら係員が恭しい手つきで白木の蓋を閉じてしまった。
ここからは輪にかけて事務的だった。場を取り仕切る係員のお悔やみの言葉も、棺が運ばれていく様に惜しみを滲ませる様も、火葬の説明も、また、列になって退場していく参列者も、いよいよ安易な戯曲のくだらない演劇でも観ている気分であった。
従兄弟が燃えている間に昼食が用意されたが、一口も食べられないだろうと思っていた腹は意外にも用意された分を綺麗に収めてしまった。空腹も満腹も感じない癖に、一丁前に料理の味の良し悪しは分かった。
食休みの暇もなく従兄弟は骨になって男の前に現れた。肉の一片も残さず綺麗に焼かれた骨の残骸を指差しながら、どの骨がどこの部分なのかを説明される。
途端、ようやく、ここにきて初めて、男は目の前の骨の残骸を従兄弟だと認識した。あれだけ見つめても人形にしか見えなかった従兄弟が、人間としての実感を伴って銀色の冷たい板の上に並べられている。小さい箱に一部だけ収められて、これが従兄弟ですと渡されそうになった。板の上にはまだ従兄弟が残っているのに、あれっぽっちを従兄弟だと呼びつけられて、男は、思わず骨壺に手を伸ばした。きっと、何も考えていなかった。板の上を両手でかき集めて逃げ出したかもしれない。細かく砕いて小さな骨壺に無理やり全部押し込めたかもしれない。それとも、たったこれだけを従兄弟だと呼んだ係員を罵倒しただろうか。否、何も、していないかもしれない。
気がついたら全てが終わっていた。皆は方々に解散して、泣き腫らした目の痛みだけが残っていた。
*
「いらっしゃいませ……おや。」
あの時と同じ薄暗い店内は橙色の照明が穏やかに、心地よいジャズピアノが響いている。
男は軽く会釈をしてカウンターに座り、メニューを受け取る前にモカ・マタリを注文した。従兄弟の葬式からもう三日経っていた。
「あの、着物地の事ですが、どうなりましたか。」
店主が豆を挽く手を止める。
「お約束通り綺麗にさせていただきましたよ。今お持ちしますね。」
言うなり奥に引っ込んでいき、一つの畳紙を抱えて戻ってきた。
「ず、随分丁寧にしていただいたんですね。」
「お預かり物ですから。」
男の前に畳紙を置き、畳紙を開く。所々白んでいた筈の反物ははっきりとした色味になっていた。
「これは、こんなに綺麗にしていただいてどうもありがとうございます。」
「いえいえ、あれはそれが仕事ですから。」
豆が挽かれる音が聞こえる。ふわりと立つ香りを味わいながら、男は畳紙を閉じた。
「時に、お客さん。」
店主は手を止めずに男に問う。
「そちら、お仕立てはどうする事になりました?」
「あ…すみません、実はまだ。」
「もし着物の形に拘っているのでないのであれば、羽織にするというのは如何でしょう。おそらくそちらはアンサンブルのお仕立てを想定した反巾です。単衣であれば、今ある分だけでお仕立てが可能ですよ。」
小皿に乗った焼き菓子が出される。珈琲が入るまではまだ時間がかかりそうだった。
「アンサンブル……そういえば、父が大島で揃えていたような。」
紬をアンサンブルで仕立ててこそ一人前の男なのだといつだったか聞かされたことがあった。それに、確かに街を歩く男達の中で着物と羽織を揃えている者を見たことがある。
「二重廻しやトンビなんかと同じくらい、アンサンブルは昔から根強い人気がありますから。特に大島のアンサンブルは世の男性方にとってある種のステータスです。お洒落で素敵なお父様ですね。」
「そう、でしたか。すみません、その、服や流行にはあまり詳しくないもので。」
男はしばし逡巡した。折角アンサンブルで仕立てても、肝心の着物の方はもう燃えている。
「一度羽織にして、後からお望みの反物が出てきたら足し布をして着物に直すのでも、私は良いと思いますがね。これだけ思い入れのある着物地を触らずに仕舞い込むのは勿体無いでしょう。」
「後から直すのも出来るんですか。」
「勿論。」
その言葉に後押しされて、男は着物を店主に預ける事にした。
いくらか胸のつかえが取れた気分で家に向かう。あの日と同じ、よく晴れた良い夕暮れだった。家には未だ調子の戻らない従兄弟の妻が、それでも一応の生活はできる程に動けるようになったらしく、覇気のない姿で夕飯の支度をしていた。
「あの着物地、預けてきたよ。アンサンブルだって、一旦羽織にして使いながら、合う反物が見つかったらまた着物に仕立て直してくれるのだそうだ。」
「まあ。そうだったの。私ったら、あれがアンサンブル用だったなんてすっかり気づかなかったわ。確かに随分長い反物だったのに。」
「あれが見つかった時、兄さんは既にそれどころじゃなかったからね、無理もないさ。ああそうだ、五日くらいで出来上がると言っていたかな。受け取ったらまた来るよ。」
一度自宅に戻る男を、妻は幾分か機嫌の良さそうな笑顔で送り出した。
血の繋がらない女が、彼との揃いものまで自分を差し置いて手に入れていく。見送りに出た彼女の、救われたような笑顔を思い浮かべる度に、やはり仕立てなぞ頼まずにいっそ隠してしまえば良かったなどとみっともなく悔いた。
人並みに、彼の死を悲しんでいる筈だった。彼の一番大変な時期に側にいられなかった事が酷く負い目になって明け透けに悲しむ事ができなかった。否、葬儀中、何度純心に彼の死を悼んだだろうか。
ずっと、彼が人間に見えなかった。それに群がる人間を一歩引いて眺めていた。別れの儀式だと言うのに、意地を張ってまともに別れの言葉も述べず、ぼんやりとしたまま終えてしまった。折角、火葬を選んだのに。
その癖、アンサンブルの片割れが己の手に残らない事を酷く面白くないと腹を立てている。
もうここで筆を止めておこう。
』
*
ジャズピアノが鳴らない室内で、店奥のソファ席に深く座り込んで店主は深く煙を吐いた。
「ふむ、これは。」
対面に座る男は訝しげに店主を見る。
「急になんだ。」
「ほら、少し前に来た羽織のお客様覚えてますか。彼、亡くなったようです。先週あった火事の、焼け跡から見つかった住人の名前が。」
店主は男に読んでいた新聞を向けた。男は彫刻刀を置いて受け取り、しばし目を滑らせる。
「余り布加工のネクタイ、あんなに喜んでいらっしゃったのに。」
男は興味なさげにため息をつき、雑誌を店主に突っ返す。新しい煙草に火をつけて、彫刻刀を手に作業に戻った。
「冥土の土産にはちょうど良かったんじゃないか。昨日だったか、そこの通りでネクタイを締めて歩く男を見たとか言ってただろう。」
「ま、気に入ってくれてるなら良いんですがね。しかし。」
店主はつっかえされた新聞を受け取って読み返す。骨壷を抱いた焼死体、などと仰々しいゴシック体が見出しを飾る紙面では、同時期に自宅で亡くなっていた彼の縁者の妻との関連を疑った奇妙な事件として面白おかしく書き立てられている。
「あんなに恨めしそうに羽織を見てましたからねぇ。奥様の方は羽織と一緒に後追い、お客様の方は……一緒になりたかった、とか。わざわざ火葬にしたって事は、きっと骨が欲しかったんじゃないですかね。あんなもの、一度混ざってしまえば選分けなんて出来ませんし。」
「お前、今度は何を読んだ。」
「やだなぁ、純粋にそう思っただけなのに。」
短くなった吸い殻を灰皿に押し付ける。懐から抜いた新たな一本に火をつけるのを、男は横目で睨みつけた。
「それで、とっくに店を譲った筈のお前はいつまで呉服屋の真似事を続けるつもりだ。」
「仕方ないじゃないですか、みんな勝手に持ち込んで来るんだから。」
この喫茶店の店主が元々別の地で着物屋を営んでいた事は特に公言していない。が、前の店からの顔馴染みを伝って話が広がっているらしく、珈琲を飲みにきたついでにとそういう相談事を持ちかけられる事が多々あった。噂を聞きつけてわざわざ着物を売りに来る者も増え、店主は特に拒まず全て買い取るので店の奥はちょっとした店を出せるくらいには着物や反物が溜まっていた。
「ところで、悉皆屋。」
「今そう呼ばれているのは倅の方だが。」
「今回の着物地の洗い張り、受けてくださったじゃないですか。もう一つお願いしたいものが。」
「悉皆の仕事は悉皆屋に頼め。倅もお前の依頼なら喜んで受けるだろうよ。」
「木綿の湯のしをお願いしたいんですよね。あれを見ていたら私も新しいアンサンブルが欲しくなりまして。ほら、今流行っているじゃないですか、久留米絣の。反物はもう裏に用意してあるんです。」
悉皆屋、と呼ばれた男は店主が言い終わる前に立ち上がり、店の奥に入っていく。
その背中を見送りながら、店主は机の上に散らかった彫刻刀と作りかけの作品を片付け始めた。
カーテンを閉めていない窓に、背をかがめた店主の姿が映る。丁度頭上に、雲の隙間から細い三日月が覗いていた。
手紡奇譚 海崎しのぎ @shinogi0sosaku
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