プロローグ 第5話
ぽつり、ぽつりと、雨が降っている
暗い暗い森の中で、切り抜かれたみたいに木のない広場
膝をついたまま、俺は動くことができなかった
それは腕の中で眠る少女の重みからではなく、ただこの場を動きたくなかったからだ
だから、この鼻にこびりつく、血の嫌な臭いの中でも
周囲に幾人もの死体が転がっていようとも
俺は動かなかった
血にまみれた体に、降り注ぐ雨の感覚などなく
赤い水たまりに沈もうとも
握りしめた少女の手に残ったかすかな熱と
頬を伝っているものの熱が消えるまで
————俺はこの場を動かない
***
「っ……、はあ、はあ。————またあの夢か」
目が覚めると額には玉のような汗が浮かび、背中がじっとりと濡れていた。もう傷跡も残っていないはずなのに、ズキズキと首の後ろが痛む。あの夢を見るたびに痛みがよみがえってくるのだ。
あの悪夢を見たのは数えきれないほどだったが、いつまでも慣れることができなかった。目を閉じれば、すぐにあの時に戻ったような錯覚に陥る。
真っ暗な中、上半身を起こすと見慣れた自室の景色にすこし安心を覚えた。
管理塔で師匠から次の依頼の話を聞いた後、西区の離れ小島にあるイレギュラーハンターの寮に戻ってきていた。
訓練などのために人工島の本島から離れているため、喧騒とは程遠いのが利点の離れ小島なのだが、こういう寂しい時には世界にただ一人取り残されてしまったような孤独を感じてしまう。
「————アル?」
人のいないはずの部屋の中で声が聞こえた。
驚きはしなかった。誰の声かはすぐにわかったし、人の声が聞こえたことによる安心感の方が大きかった。
「シオン、水をくれないか」
返事はなかったが、すぐにペットボトルの水が渡された。冷えていて持つだけでも火照った体には気持ちよかった。
「ぷはぁっ。生き返ったぁ。————で、お前はなんでいるわけって聞いた方がいいか?」
一気に半分ほど水を飲むと、ようやく頭がクールダウンしてくる。
正直、シオンが俺の部屋に忍び込むなんて日常茶飯事だし、特に気にしてもいないのだが、言い訳くらいは聞いてあげようと思った。それに普通の会話をすることで悪夢のことを忘れたかったのかもしれない。
「夜這————じゃなくって、なんだか、嫌な感じがしたから様子を見に来たの。やっぱり“あの夢”?」
シオンは誤魔化したり、話を逸らしたりするのが苦手だ。なにを言おうとしたかも察しがついたが、予想通りすぎて問い詰める気にもならなかった。
「ああ、いつも通りの悪夢だよ。慣れたもんだ」
精一杯の強がりだった。たぶん、どこまで行ってもあの悪夢に慣れるなんてことはないだろうに。
それをわかってなのか、シオンは心配そうにベッドの横まで近づいてきた。
「すまん、ついでに窓を開けてくれないか。……風に当たりたい気分なんだ」
わかったと返事が返ってくるとすぐにベッドの脇をすり抜けて、ベランダに面した大窓のカーテンを開いた。
窓の外にはベランダと果てのない水平線、上空に浮かぶのは丸く大きな月。その光を浴びたシオンの姿はまるで月の妖精のようだ。
さきほどまで暗闇に閉ざされていた部屋の中も、月明かりが差し込んで仄かに白く照らされている。すこしだけ開かれた窓からは、ひんやりとした潮風が吹き込んできて、まだ火照りの残る体をゆっくりと冷やしていく。
「月がきれいだな」
幻想的な景色にボソリと感想が漏れていた。
「ええ、本当にきれい」
答えるシオンの顔は見えなかった。彼女も窓の外に視線を向けていたからだ。
「……今日は、泊まっていけ」
「それって————」
「別に変な意味じゃない。自分の部屋に戻るの面倒だろ。……それに、そういう気分なんだ」
シオンも同じ寮暮らしだ。しかも部屋は俺の部屋の真上。魔術師ならベランダから跳べば一瞬なので面倒も何もないのだが、どちらもそんなことは口にしなかった。
それからシオンは何も言わずに窓を閉じると、ベッドへ忍び込んできた。一人用にしては大きいベッドだが、二人で寝るとなると思いのほか狭く、肩を寄せ合って眠りについた。
————首の痛みはいつしか消えていた
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