春燕的天空

海猫

離陸

「おじいちゃんは馬幇マーバンだったから、拉薩ラサの都もポタラ宮も見たことがあるって。いいなあ」  


 石畳の水路で体を洗う祖父に羨望の眼差しを向ける春燕チュンエンがもぞもぞと動く。流れるようなその黒髪を撫でながら膝枕をする時の私の表情は、瑞江ルイジャン基地の仕事仲間たちにはとても見せられない。水路沿いの、柳の垂れる細路に馬を引いて入ってきた男たちもちらちらとこちらに視線を向けている。半ば猫を撫でているような気分を覚えながら、


春燕チュンエンはずっとこの街で暮らしてきたのかい?」

「そう、だから外の世界が見たいの。私も拉薩まで行きたいっておじいちゃんに頼んだけど、『お前はまだダメだ』って……」


 そう言ってぷくぅっと膨らむ頬を指先でつつくと、春燕チュンエンは声にならない声を出しながら膝に顔を擦り付けてくる。何気ない仕草の会話を交わすたびに互いへの独占欲ばかりが強まっていく。歳も体躯も春燕チュンエンを上回るはずの私はしかし、屋内で二人きりになる度にいつも春燕チュンエンに押し倒されていた。恋愛感情を上回る何かを、彼女が跨った腰をきつく締め付けられる度にひしひしと感じていた。


「それはそうよ。馬幇マーバンなんて誰にでも務まる仕事じゃない」


 煩悩を払いのけながら少しだけ人生の先輩ぶって答えてみる。かつて私も同じ夢を抱き、それを成し遂げた——万年雪を被った峰々を超えて雲南の瑞江ルイジャンからチベットの拉薩ラサまで馬やヤクと共に踏破する、往復半年以上の過酷な旅を耐え抜いたのだ。その昔、雲南南部の普洱プーアル茶を運んだこの道は茶馬古道ちゃばこどうと名付けられた。強靭な体と精神力、漢語や龍語のみならずチベット語に通じていること……古道を行く馬幇マーバンの男たちには様々な力が求められた。


 そんな男たちの隊列に、よく向こう見ずの勇気だけで飛び込んだものだなあと、我ながら思う。だがあれは間違いなく、今の己の原点になったという自負もあった。人と人を、地と地を繋ぐことの困難さを、高山病に苦しめられながら華奢な体で学んだものだ。


「それでも行きたい、って言うんなら、私から口添えしてあげてもいいけど」


 途端、春燕チュンエンが跳ね起きる。まどろみで乱れた髪を直しもせずに私の目を見つめてくる。落ち着いて、と思わずこちらが身を引いてしまうぐらいに。


「いいの?」

「うまくいかなくても怒らないでね」

「うん、うん」


 すっかりその気になってしまった妹分の、はじけるような活発さが眩しい。瓦屋根の軒先を通り抜けた風が、彼女の黒髪をなびかせた。





 既存の有人戦闘機に人工知能A Iを積んで無人機化する計画は、十分な数の無人機が揃うまでのその場しのぎの策でしかなかった。当然と言えば当然だろうが、「群体」に目をつけられる危険を冒してまで、最新鋭の無人戦闘機を、国を失ったような人間たちに気前よく売ってくれるメーカーなど存在しない。そもそも今の私たちにとっては機体が高価すぎるというのもあったが。AIだって決して安価ではないが、「群体」発生以前の時代に比べれば随分とお手頃な価格まで下がってはいた。


 雲南省臨時政府の主力戦闘機、J-11の無人化計画もそういう経緯で生まれた。在りし日の人民解放軍空軍中 国 空 軍から引き継いだ機体に、臨時政府にも入手できるような汎用AIを搭載したものの、導入してしばらくの間はパイロットが空中戦や爆撃のやり方をAIに教えなければならない中途半端な存在になってしまった。臨時政府軍のパイロットたちは新米ばかりだ、じゃあ教育係の傭兵パイロットたちに任せればいい──私たちが新米パイロットだけでなく、日々も送っているのはそういうわけなのだった。


《Strand 1, Wind 180 degress at 5 knots. Runway 24, cleared for takeoff.》

(ストランド1、風向は方位180度、風速は5ノット、滑走路24からの離陸を許可)


 人類と「群体」の戦いが長引くことで戦争経済は潤った。中国空軍時代の「八一」の二文字を受け継いだ機体は臨時政府軍の所属だけれど、実際に操縦する私たちはアメリカ資本の民間軍事会社に勤めていた。


 管制官からの離陸許可を受けて二機のJ-11が滑走路に進入する。胴体となめらかにつながる主翼。推力変更ノズルに双垂直尾翼。コックピット下部まで伸びたストレーキ。キャノピー前方にほくろのように飛び出した赤外線捜索追尾I R S Tセンサー。


《Strand 1, cleared for takeoff.》

(ストランド1、離陸を許可)


 離陸許可を復唱した後、ブレーキを踏み込んでからスロットルレバーを前方へ押しやる。 ターボファンエンジンの咆哮。出力を確認してからスロットルをさらに前へ。頭を前方に降り、後方の僚機と同時にブレーキを解除。アフターバーナー点火。  


 凄まじい加速で射出座席に縛りつけられる。ローテーション。操縦桿を引くと同時に身体がふわりと浮く感覚。ギアアップ。さらに機首を持ち上げて、二羽の巨鳥が天空へと翔け上がる。


 バックミラーに映る僚機。そのはるか下方に広がる、黒瓦の家々が並ぶ瑞江ルイジャンの街並み。

 かつて世界遺産にも登録された瓦屋根と石畳の古城。玉龍雪山ユーロンシュエシャンの雪解け水が潤す水の都。


 こうして雲南にやってくる前、まだ私が中国空軍に居た頃は、瑞江ルイジャンという街を険しい山の中の桃源郷として美化していた。実際、中華人民共和国の崩壊以前は数多の都会人たちが命の洗濯のためにやって来——押しかけてきた。「群体」の発生後に観光客の数は当然激減したけれど、街路や水路が汚されることに辟易していた龍族の人々が内心安堵していたことはかなり後になってから知った。


《Strand 1, contact Lujiang Base Command.》

(ストランド1、以降は瑞江ルイジャン基地の司令部とコンタクトを取れ)

《Roger.》

(了解)


 目標高度で水平飛行に移り、アフターバーナーを切る。雲間を抜けながら、演習空域までひたすら巡航。

 ふと頭を動かした時、ヘルメットに描いた少女の横顔が風防にうっすら映り込んでいることに気がついた。

 私がこっそり撮った写真と睨めっこしながらなんとか描き上げた、だった。





 柳の下、赤いランタンを吊るした軒先に立つ彼女を目に留めたのが全ての始まりだった。そのまま水路で洗濯を始めた彼女の手から、手を離してしまったのか、服が一枚だけこちらの足元にまで流れてきた。木の板を渡しただけの橋の上から手を伸ばして服を掴んだとき、初めて少女はこちらに気づき、小さな声を漏らした。


 ロン族の装束の色遣いは美の引き立て役だった。茜色の上着に白い腰巻き、重ね着された山吹色のミニスカート。それを纏う人形のような少女。服を手渡そうとして手が止まり、指の間から水が滴り落ちた。


 少女も全く同じ反応を示していた。ごく自然な流れで洗濯を手伝い、そのお礼にと少女が祖父と共に営む土産屋に招かれるまで十分とかからなかった。


宣春燕センチュンエン


 少女は名乗った。互いに下の名前で呼び合うようになるのはその数ヶ月後のことだ。  休暇を利用して訪ねる度に、春燕チュンエン普洱プーアル茶を——それも特に高級な部類を出してきた。時には甘いバター茶も出てきて、聞けば自分にはチベット系の血が四分の一混じっていると春燕チュンエンが明かした。足を運ぶたびに、振る舞われる料理のレパートリーも増えた。千層餅に豆ごはん、お米の腸詰め、小豆のこし餡をかけたヨーグルト……。


「今はお土産だけじゃ儲からないからって、おじいちゃんが言ってたの」


 だから味見をお願いしているんだ ー、と春燕チュンエンは瞳を輝かせていたものの、増設されたばかりの小綺麗な食堂のメニューをただで振る舞われるのは流石に罪悪感があった。とはいえ無償の好意を無碍にしたくないという思いもあって、春燕チュンエンの祖父にこっそりと、幾分多めに調理代を手渡していた。


 晴れた日には、浅い水路の前の段差に二人並んで腰掛けていた。この水路を定期的にわざと氾濫させて、石畳の街路の汚れを洗い流すと春燕チュンエンから聞いた時は流石に驚いた。玉龍雪山ユーロンシュエシャン金沙江ジンシャジャンからの分流がもたらす水の恵み——


「魚になってあの水路に飛び込んだらどこまで行けるかなって、時々思うの……別にこの街が嫌いってわけじゃないよ」

「言いたいことは分かる」そっと肩を抱き寄せて、彼女の髪を弄りながら「外の世界が気になるのね」

「そう、そう」


 春燕チュンエンは頷きながら、例えば輝華グイファの生まれた街とか……と言いかけて、


「上海って、すごく大きな街だったんでしょ」

「街というより都市ね。もう、あの辺りは完全に、私たちが住める場所じゃなくなっちゃった」


 上海一都市の騒ぎではなかった。中国大陸の沿岸部から侵食し始めた「群体」が瞬く間に内陸部に広まっていくのは悪夢以外の何物でもなかった。あの時代、世界各国で民族主義だか愛国心だかが異常なほど高揚していなければ、人類の歴史はもう少し違った展開を見せていたかもしれない。


「群体、って何なの?」

「うーん……」


 しばらく天を仰いでから、


「元の意味は『数多くの個体から形成され、一つの生物であるかのように振る舞う集団』——」


 どう噛み砕いて説明したものやらと悩みながら、


「『自分たちは同じ国の人間だ ー、他の国の悪いやつらに負けないように、みんなで一つになろ ー』……そんなことを言い続けていたら、心が消えて、というよりお互いの心に飲み込まれて、操り人形になってしまった人たちのことね」


 そうして世界中の国々が「群体」に飲み込まれてしまった。かなり歪ではあるけれど、人類の進化形の一つのあり様だと私は解釈していた。だから自分たちは戦争ではなく、生存競争の只中にいるのだ、と。目下の敵は「中国群体」と「ミャンマー群体」で、特に雲南南部で隣接する「ミャンマー群体」の攻勢はここ数年激しさを強める一方だった。


「でも急にどうしたの?  春燕チュンエンが群体のことを聞くなんて珍しいね」

「だっておじいちゃんがまた拉薩ラサに行くって言ってたから……」


 その一言だけでおおよその事情を私は察する。春燕チュンエンの祖父が茶馬古道ちゃばこどうを行く馬幇マーバンで、「群体」発生以前から何度もチベットへの旅を経験している古強者であることはすでに聞き及んでいた。数千キロにわたる太古からの交易路が抗日戦争の時代と同じ役目を負ったこと——敵の手に落ちた幹線道路に代わる、唯一の輸送路になったことも。


 空輸作戦は継続されていたし、戦闘機による護衛も行われていたものの、「ミャンマー群体」の戦闘機に奇襲されるケースが年々増えていた。こちらも手を拱いていたわけではなく、私はすでに七機も撃墜していた——他の傭兵パイロットたちも同じくらいの撃墜数を稼いでいて、つまりそういうことなのだった。だから陸路を、となったものの、ミャンマー側だって空対地兵器を積んだ機体を飛ばさないほど愚かではない。


「大丈夫、そのために私たちがいるのよ」


 春燕チュンエンの瞳を見据えてそう告げる。操縦桿を握りしめる手が、春燕チュンエンの小さな手を包み込む。こんな時だけは春燕チュンエンも受け身になるのだった。背中に手を回すと、春燕チュンエンは無言で顔を埋めてきた。  水路の音だけが、しばらく辺りを満たした。


 うるさいね、と、不意に春燕チュンエンが小さく笑う。顔を上げて私の胸をつつきながら。心臓が激しく脈打っていることに、その時初めて気づいた。時に積極的で、激しく温もりを求めてくる少女。腕の中の彼女は、それでもどこまでも無垢だった。籠の中の鳥のように扱ってはならないと戒めつつも、手放したくない癒しであることは事実だった。理性で自らを御そうとしたのは戦闘機パイロットとしての性だろう。


 馬幇マーバンの隊列に同行したいと、春燕チュンエンが言い出したのはその三日後のことだった。





《Strand 1, Lujiang Base Command.》

(ストランド1、こちら瑞江ルイジャン基地司令部)


 司令部からの呼びかけは、予定通り演習を開始しようとした矢先のことだった。


《Single Group BRAA 220/ 60, 19 thousand, hot, bogey.》

(レーダーに反応あり、貴機から方位220、距離60マイル、高度19000フィート、そちらに向かって接近中の不明機だ)

《Strand 1, roger.》

(ストランド 1、了解)


 演習で上がったわけだけれど、緊急発進の予備機でもあるので実弾を搭載している。そもそも、この空域は「ミャンマー群体」と雲南の航空部隊が幾度も衝突している最前線だ。旋回して再度アフターバーナーに点火し、超音速飛行。


 折よく、虎の子の早期警戒機が付近を飛んでいて——つい先日「ミャンマー群体」の空爆で破壊された防空レーダーの穴を一時的に埋めていた——不明機の情報が送られてくる。レーダー上に現れた二つのシンボル。狭まる彼我の相対距離は50マイル、45マイル、40マイル……妙な胸騒ぎを感じていた。


 背後に回り込んで接近。なおも不明機は直進し続ける。その針路上に瑞江ルイジャン基地があった。あれが敵機でも、たった二機で基地を襲いにいくような愚かな真似をするとは思えないけれど……。


 拍子抜けするほどあっという間に短距離ミサイルの射程内に。接近して識別せよと指示が飛んでくる。敵味方識別装着I F Fで不明機と表示されても敵機とは限らない、何らかの理由で応答しない友軍機の可能性もある。


 万年雪を被った峰々を眼下にのぞみつつ、雲を二、三度突き抜けたとき、目の間に浮かんでいたのは二機の戦闘機だった。


(Mig-29!)


 青と水色の迷彩をまとった、双発の小型戦闘機。J-11より一回り小さい。尾翼に黄色と白と緑の三本線。ミャンマー機だった。私は先行する一番機を、僚機は二番機を狙う。ターゲット指示カーソルT D Cが機影と重なる。ロックオン。自動的に単一目標追尾S T Tモードに移行。


《Command, Strand 1. tally two Fulcrums》

(司令部、こちらストランド1。Mig-29二機を視認)

《Roger. Stand by for a minute.》

(了解。しばし待機せよ)


 流石に何かおかしい。司令部の人間たちは何をもたついているのだろうと思わずにはいられない。仮に目標が囮か何かだったら——


 国際緊急周波数への唐突な呼びかけはその時だった。


《Yunnan aircraft, Yunnan aircraft. We have no intention of attacking you. We’ ll disarm and follow you. I say again……》

(雲南機、雲南機。我々に攻撃の意志はない。武装解除しそちらに帰順する。繰り返す……)


 続いて二機のMig-29がバンクを振り始める。

 酸素マスクの中で、束の間ぽかんと口を開けていた。


 司令部に伺いを立てると、支援機を送るから基地まで誘導せよと指示が飛んでくる。フライトグローブをはめた手で頬をつねりたい気分だった。僚機のパイロットもわざわざ指示内容を再確認してきた。


 体だけは指示通りに動いていく。機体を前に出して瑞江ルイジャン基地への誘導を開始し、数分後には近場を飛んでいた友軍気も合流してMig-29を取り囲む格好になった。ミャンマー機の亡命はたしかに前代未聞の出来事だけれど、いつまでも驚きっぱなしではいられない。目の前の現実を淡々と処理するのみだ。


 ミャンマー機の気まぐれでこちらが蜂の巣にされるようなこともなく、強制着陸が完了するまで恐ろしいほどスムーズに事態は進行した。





「この湖にはね、結ばれなかった恋人たちが眠っているんだって」


 石造りの眼鏡橋の上で、春燕チュンエンが唐突にそんなことを漏らすものだから目を見開いてしまう。あ、違う、そんなつもりじゃないよと慌てて手を振る春燕チュンエンに苦笑いを返しながら、


「本当に何でも知ってるのね」

「何でもじゃないよ、分かることだけ」


 そう言って視線を落として、


「好きな人ができても必ず結ばれるわけじゃない、引き裂かれるくらいなら、この湖に飛び込んで別の世界に行こう、って——ほら、お山が映ってるでしょ」


 春燕チュンエンが指で示した湖面には、夕陽に照らされた玉龍雪山ユーロンシュエシャンが映り込んでいる。それに向かって飛び込めば何者にも邪魔されない新天地へ旅立てると、その昔、数多の若者たちが信じて欄干を飛び超えた。でももっと大昔はそんなことはなかった、好きな人と一緒になれるのがこの町では当たり前だったんだって──春燕チュンエンの言葉に、なるほどねと頷く。


「改土帰流の犠牲者ね。可哀想に……」

「かい……?」

「何百年も前のお話。漢民族の文化を押し付けられて自由な結婚が出来なくなったのね」


 瑞江ルイジャン基地に着任してから受け持った、最初の訓練生たちから教えてもらった歴史だった。ロン族の文化も瑞江ルイジャンの歴史もまるで知らなかった私にとっては、彼らも師と仰ぐべき存在だった。今では彼らも後輩たちの指導役になっている——当時に比べればこの街もかなり穏やかになったものだ。三日に一回は空襲警報が鳴っていたあの頃、死の臭いは古城の家々や路地裏にまで入り込んでいた。


 橋を渡った先の東屋から、誰かの琴の音色が流れてくる。つられて私が歩き出したのと、その袖を掴まれたのはほぼ同時だった。


「ねぇ……」

「ん?」


 だが返事はない。俯いた春燕チュンエンの顔を覗き込むと、その視線がますます下がってしまう。ほんのり赤く染まった頬に手を伸ばすと彼女はびくりと震えた。心配してるんだよ、とややあってから小さく口を開いて、


「……一緒にいられなくなったらどうしようって……」

春燕チュンエン?」

「昨日だって、大変なことが起きたって聞いたし……」

「ああ……それならもう大丈夫だよ」


 嘘ではない。亡命してきたミャンマー機のパイロットたちは着陸後すぐに拘束されたものの、驚くほどこちらに従順で、週明けには臨時首都へ移送されることになっていた。接収した二機のMig-29はといえば、警備兵が周囲を固める耐爆格納庫で翼を休めていた。すでに特別整備班が編成されていて、今頃は色々と弄り回されていることだろう——


「だから、そういうことじゃなくて」


 春燕チュンエンの頬がぷくりと膨らんでいる。


輝華グイファのことが……心配……」

「……ごめんね」


 とぼけたつもりはなかった。

 旅立ち前の少女を泣かせたくはない。


 無意識のうちに互いの体を引き寄せていた。頭一つ分高い私の体に、春燕チュンエンがぐっと抱え込まれる。安心して行っておいでと、姉のような口調で優しく語りかける。


 春燕チュンエン拉薩ラサ行きの意志は尊重することにした。口添えする、と彼女に約束した時は、正直なところ手放したくないという思いが幾分かあった。けれどそれでは駄目だ——


「私なら本当に大丈夫」


 それに、と言葉を継いで、


春燕チュンエンの旅を咎めたりなんかしない。どこにいても私たちはつながっている」

「うん……」


 それ以上の言葉は、黄昏時の空気に溶けていった。

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